令和『いろはにほへと』-わ-
「わ」→忘れられないことって、たくさんあるよね。
良いこと、悪いこと、嬉しいこと、悲しいこと、楽しいこと、寂しいこと、切ないこと、懐かしいこと、苦しいこと、たまらないこと・・・・
忘れてしまっていることの方が、この歳になると圧倒的に多いのだろうけど。
でも、いつまでも頭の中、胸の奥、腹の底、どこかに引っかかっていたり、こびりついていたり、染み込んでいたり。
具体的に「ああ、こんな事あったなぁ」なんて思い出したりするんじゃなくて、思いがけず顔がほころんだり、涙が滲んできたり、胸が高鳴ったり、身体が震えてきたり、そういった何かのきっかけや反射のようなもので、「忘れていないことを実感する」ようなこともあったりする。でしょ?
結構重たい出来事が思い出されますが、それをここで紹介するとドン引きされそうなので少しライトな話を。
二十代で東京の大学に行った僕は、しばらくして学校の同級生や先輩たちだけではなく、年齢では1〜2歳上の「有職者」の友達(と言っても良いんだろうか)が「二人」できました。その二人は僕が知り合う前から、公私に渡って付き合いがあったようです。
当時ものすごく金がなく、バイトといっても学校行かなくなったら意味がないので、週に数回夜の喫茶店で働いていました。その当時の時給は「五百円」でした。そんな時代です。
有職者の友達は、整備士や光電管設備の仕事をしていました。僕がのんびり大学生をやって、ちょっぴりバイトしている時に、平日の日中はしっかり働いて、夜は自分たちの時間を使う・・といったとても当時の僕には想像もできない有意義な時間の使い方をして毎日を送っていました。
そんな彼らの時間の中に、なぜか僕は招き入れられていき、彼らの仕事以外の時間を共有することが僕の日常の中にある、一定のスペースを占めるようになっていきました。それは僕にとってもとても心地良いというか嬉しいことでした。
そんな学生生活以外の人間関係(関わりや距離感)が続いていき、季節は冬になっていきます。
ある日二人に夕食に誘われました。別にそれが初めてのことではなく、時にファミレスや近所のうどん屋などに「腹へてきたから、ちょっと行かね?」などと出掛けては食べていました。そんな時、よく二人はご奢ってくれました。ファミレスのオムライスやうどん屋のカレーうどんなど、僕にとっての外食の一品はそれなりの金額ではあったものの、それを支払っても余りある意味があると思っていましたが僕の財布からあ金が出ることはそうありませんでした。
しかし、今回食事に誘われた先はファミレスでもうどん屋でもなく、「ステーキハウス」でした。流石にイソイソ「行くっ!」とは言えず、そんな豪勢でお高そうなところはちょっと・・・と躊躇している僕を半ば無理やり連れていき、「好きなものを頼めよ」というのです。なんなら「俺はロースステーキセット450グラムで」「じゃぁこっちはTボーンステーキのやっぱり450グラムのセットで」「あ、ついでにアワビのステーキも」とか、じゃんじゃん注文していきます。
ますます場違いというか、恐縮の極みに怖気付いている僕を半ば半笑いで「良いから早く頼めよ、なんならお前も同じやつにするか?うん、しろ。もちろん450グラムな。」といった具合で注文が・・・。
実は、僕はこの日この時まで人生の中で「ステーキ」なるものを食べたことがありませんでした。いわゆる焼肉とかジンギスカンとかは食べたことはありますよ。しかし、「ステーキ!(ビフテキ)」は本当に初めてのことでした。
テーブルにジュージュー音を立てたステーキが、運ばれそれと一緒にサラダやスープご飯といったセットメニューが3人のテーブルに並びました。
「さぁ食おうぜ」と促されるまま僕は、ナイフで切った肉を口の中に・・・・。
「うっ、美味い・・・・」声には出せませんでしたが、生まれて初めてのステーキの旨さが口全体に広がったその刹那、なんの前触れもなく涙が頬をつたってポタリと落ちました。
あまりの旨さに、身体が勝手に反射?したのか感動したのか、涙が出てきたのです。
あれは忘れられない。
そんな僕をケラケラと笑いながら、「いいから食えよ」と二人。
僕は感動の涙目で「こんな美味しいの食べたことないし、しかもこんな高価な食事食べさせてもらえるなんて申し訳なくて・・・すいません」としっちゃかめっちゃかな頭で二人に話すと、一人が「別にさ、俺たちがお前と一緒にステーキ食いたかったんだし、金なんてさ、お前は学生でバイト代だってたかが知れてるだろ?だったらさ、別に金があるやつが払って楽しく食べればそれで良いんじゃね?気にする必要なんてどこにある?」といったではありませんか。なんと!
田舎から東京に出てきた僕にとっては後頭部をぶん殴られたような衝撃と共に、そのような考え方があるんだ。そんな考えの関わりや距離感の作り方もありなんだ・・・。と、これまた決して忘れられない経験をしたのでした。
そんな事から何十年経った事か。
いまだにあの店を超える旨さのステーキには出会った事がありません。
多分今後も出会うことはないでしょう。
「わ」→「忘れられないこと」でした。
