『シャム双子の謎』と秘密

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 おととしの春、近所に開店した中原さんの貸本屋には、ときどき本の栞に不思議な事が書いてある。
 今日、帰り道に立ち寄って見つけたエラリー・クイーンの『シャム双子の秘密』、その栞には縦書きで、
〈『シャム双子の謎』にはなぜ《読者への挑戦》がないのか〉
 そして裏側には、
〈『チャイナ橙の謎』の《挑戦》の中の〈《挑戦》を忘れていた〉本とは何か〉
とある。
 でも、その謎は北村薫の『ニッポン硬貨の謎』が解いたはず。中原さんが知らない?そんなこと、あるだろうか。

 (ここから2まではクイーンファンの方には釈迦に説法なので、飛ばしていただいても構いません。まあ、復習と思って……)
 クイーン(従兄弟同士のフレデリック・ダネイとマンフレッド・リーの筆名)の国名シリーズ全9作は、ミステリ作家兼名探偵エラリー・クイーンが活躍する本格ミステリだ。題名全てに国名と『~の謎』または『~の秘密』(違う訳もある)が入っていて、第1作が1929年『ローマ帽子の謎』、以下30年『フランス白粉』、31年『オランダ靴』、32年『ギリシャ棺』『エジプト十字架』、33年『アメリカ銃』『シャム双子』、34年『チャイナ橙』、35年『スペイン岬』、と続く。
 (ローマは古代都市国家と考えれば良いのかな。シャムは現在のタイか。確かミュージカル『王様と私』の王様がシャム王だったような)
 そして同じく全ての作品に《読者への挑戦》が入っている、ただし第7作『シャム双子の謎』を除いて。
 おそらくそれまでは、〈名探偵 皆を集めて さてと言い〉という川柳に詠まれた場面が、その役割を担っていた。もしかすると雑誌や新聞で連載の時に、編集側が挑戦の文章や懸賞をつけたのかもしれない。それをクイーンが始めたのか、この《読者への挑戦》で、演劇性にゲーム性がより加わった気がする。

 で、『シャム双子』だが、確かにこの小説にだけ《読者への挑戦》がない。この謎は世界中のミステリファンの中の、本格ミステリ好きの内の、日本のクイーンマニアの一部の間でのみ、長年注目されてきた(らしい)。しかしそれは、北村薫が書いたパスティーシュ小説『ニッポン硬貨の謎』で解かれたはずだ。その前半で謎を解明し、本格ミステリ大賞の評論賞も受賞している。
 分からない。貸本屋の中原さんは60歳ぐらいの白髪交じりの、一見普通のおじさんだ。しかしこれまでに、この手の話で何度も驚かされてきた。そういった際はいつも店の応接室の、テーブルを挟んで向かい合うソファーに掛けて話し合った。
 そこでいつものように、
「どういうことですか」
 するといつものように、
「借りて、読んで、考えてみてください」
 角川文庫版『シャム双子の秘密』『チャイナ蜜柑の秘密』、創元文庫版『ニッポン硬貨の謎』、さらになぜか『ギリシャ棺の謎』『レーン最後の事件』まで目の前に積まれた。
 それと、
「『Xの悲劇』の《読者への公開状》を読んでおいてください」
と言われた。なんでだろ?

 『チャイナ蜜柑』は部屋中の物がアベコベにされた状態で、正体不明の男が服に二本の槍を差し込まれ死体で見つかる話だ。最後に正体は明らかになるが、トリックが異常に複雑でエラリーの推理も論理性に欠けると批判が多い。でもクイーンの片方のダネイは自薦1位に挙げている。北村さんの説では、その中の《読者への挑戦》が『シャム双子』に《挑戦》がない事と関係がある。
 『ギリシャ棺』は《まえがき》で書いてあるように名探偵エラリーが何度も失敗するが、『オランダ靴』と並んで推理の切れ味が凄い。

 全部再読だが仕方なく借りて帰る。良いカモだ。
 でもこの頃のクイーンは好きだ。特に1932年に『ギリシャ棺』と『エジプト十字架』、加えてバーナビー・ロス名義で名探偵ドルリー・レーンの『Xの悲劇』と『Yの悲劇』。翌33年には『Zの悲劇』と『レーン最後の事件』の悲劇四部作、さらに『アメリカ銃』と『シャム双子』。それまで1年1作だったのが、一気に1年4作を2年間。32年は傑作ばかりなのでクイーンの黄金期と呼ぶ人もいる。ただし角川文庫版『シャム双子の秘密』の飯城勇三の解説によると、〈探偵エラリーのシリーズの方がレーンものより圧倒的に売れていた〉そうだ。
 挑戦のある長編は35年『スペイン岬』の翌年の『中途の家』が最後だが、短編やドラマ用脚本ではその後も幾つも書いている。
(この前期より後期クイーンと呼ばれる頃のファンもいる。少し話変わるが、かつて図書館で借りて読んだ『Yの悲劇』と『レーン最後の事件』。創元推理文庫の4ページ目の英語表記は1933年と1934年になっている。しかし一般的には32年と33年だ。なぜだろう。中原さんに尋ねると、自分も小学6年生の時に読んで以来、ずっと不思議に思っている、と)
 ダネイ&リーの従兄弟同士(激しい対立があったことが後に判明する)によるクイーン&ロスの二人二役は、1936年に暴露され、41年版『Xの悲劇』の冒頭の《読者への公開状》で、『ローマ帽子』の序文の〈バーナビー・ロス殺人事件に際して〉という偽造の引用文にヒントがあった、と明かされた(序文またはまえがきは全ての国名シリーズに付いているが、書き手はJ・J・マック)。四部作には《読者への挑戦》はないが、公開状の最後には、全作で〈読者は解決にたどりつく前に、あらかじめすべての手がかりを与えられるはずである〉と記し、本格派宣言をしている。こうして四部作でのみ、ドルリー・レーンは復活し、バーナビー・ロスは姿を消した。

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「やっぱり分かりませんでした」
 二週間後、本を返しに中原さんの店舗兼自宅に行った。
「やっぱり若いですね。読むのが速い。私なら今だと一ヶ月は掛かります」
「いや、全部再読なんで。でも楽しかったです。言葉のリズムが良いし、あっ、ここに伏線がある、とか、書き方が上手いな、とか確かめながら読んだので」
「そうですね。〈本格探偵小説は二度読むべし〉、というのは横溝正史の言葉です」
 中原さんはミステリについていろんなことを教えてくれる。でも……
「栞の裏の、《挑戦》を忘れていた本、は少し分かった気がします。でも表の、《挑戦》がない理由、は二度読んでも分かりませんでした。北村説ではダメなんですか」
「そうですか」
 少し残念そうに、しかし少し嬉しそうに。
「では、いつもながら、『シャム双子』を」
「はい」
 中原さんに答を聞く前に粗筋を話すのが決まりになっている。

 第一部 エラリー・クイーンは、父親のリチャード・クイーン警視とドライブ中、山火事に巻き込まれ、山頂の屋敷に辿り着く。医学博士一家に助けを求め一泊することに。他にいるのは博士、妻、弟、助手、使用人、家政婦、そして秘書らしき女性。しかし彼らは何かを隠している。
 第二部 翌朝、右胸を銃殺された博士が見つかる。右の利き手には横半分にちぎれたスペードの6を持ち、左手でちぎって丸めた半分が床に落ちている。そこに謎の男が屋敷に避難してくる。実は屋敷にシャム双子の兄弟と母親(女性は彼女の秘書)が隠れていて、分離手術が可能か博士が診察し、実験室で動物実験もしていた。警視は6からの推理である人物Aを捕らえるが、エラリーの実験と推理で6は偽の証拠だと判る。
 第三部 さらにエラリーの別の実験で判明した偽装者Bは、逃走を図るが警視に撃たれ重傷、しかしAを陥れようとしただけで自分は犯人ではないと言う。警視はBを監視するがクロロホルムで眠らされ、Bは毒殺される。
 第四部 Bの右手に握られたダイヤのジャックの半分は別の犯人Cを示し、混迷を深める。一方、山火事は徐々に山頂に迫り、脱出を試みるも失敗。炎はついに屋敷に襲いかかり、全員、食糧庫へ避難する。そこでエラリーは推理で真相に迫るが、絶対的な証拠がない。最後の手段で罠を仕掛け、ようやく犯人をあぶり出す。しかし煙が室内にまで入り込み、生命の危機が迫る……

 そこから先は、というか、皆さんには最初から読んでほしい。
「これまたいつもながら、良くまとまってます」
 本当はもっと長く詳しく話しているが、ここでは簡潔に必要最小限にしておこう。
「次に『ニッポン硬貨の謎』ですが、これは、『シャム双子』になぜ《読者への挑戦》がないか、の解明の所だけで構いませんよ」
 良かった。後半はあまり関係ないなあ、と思ってたので。
 「はい。では『チャイナ橙』の《挑戦》の嘘、という北村説から」
 テーブルの『ニッポン硬貨の謎』を開き、
 「『ニッポン硬貨』では、来日した作家クイーンにある女性が、第7作『シャム双子』に《読者への挑戦》がない理由について自説を述べます。彼女はまず第8作の創元版『チャイナ橙』の中の《読者への挑戦》の一部を引用します。
〈ところが、なにごとかが起こったのである。正確には、それがなんであるかを、私は知らない。ただ、覚えているのは、一編の小説が完成し、組版が終わり、ゲラ刷りが校正されたあと、出版社のある人が━━まったく明敏な人である━━恒例の《挑戦》が脱落していることを、私に注意してくれたことである。私は、いささか赤面して、大急ぎで欠陥をおぎない、それは、最後の瞬間になって、脱落本に挿入された〉
 この文章について彼女はクイーンに、
〈「こんなこと、よっぽどのお人よしでなければ、信じないでしょう」〉
と言います。さらに《挑戦》の引用は、
〈それから、私は良心にとがめられて、少しばかり探索に従事した。するとその以前の本でも《挑戦》を忘れていたのを発見した〉
と続きます。これに対して彼女は、
〈「挑戦が含まれないのは、ここまでの国名シリーズ中、前作に当たる『シャム双子』なのです。
 となれば、あなたが出版社の明敏な人物に指摘され、挑戦を補ったという作品━━『シャム』以降に書かれ、『チャイナ橙』よりは前の作品は、どこに消えたのです。
 あなたはあり得ない説明をしました。それが鍵です。それによって、この文章が《創作》であることを示したのです。」〉
と言っています。北村説の要点は3つ。
①『チャイナ橙の謎』の《読者への挑戦》には嘘がある。それは、《うっかり挑戦を落とした作品がある》という事だ。これは第8作『チャイナ橙』の次に第7作『シャム双子』の順で読む人が、その目次に《読者への挑戦》がないことに疑念を抱かないようにするためだ。〈よくいえば、読者から驚きを奪わないための《配慮》〉だが、〈悪くいえば罠〉だ。
②というのも『シャム双子』では、〈誤った逮捕→無実の証明〉を繰り返し、〈幾つもの逮捕を、間に入れて行く〉。その〈長い放浪の旅〉が〈興味の中心〉だ。したがって〈目次に《挑戦》の文字を置くことは、《それ以前の解決が総て偽りである》と前もって宣言することになる〉。
 加えて、〈『シャム双子』では、真犯人を特定する決め手が、犯人の行動になって〉いて、〈論理ではない形で決着がつけられる〉。だから、〈《読者への挑戦》がなかったわけではない。『シャム双子』は、元々《読者への挑戦》をいれ得ない物語〉なのだ。
③しかしクイーンは実は、〈風変わりな、透き通った《読者への挑戦》〉を行ったのだ。それは日本美術の〈《描表具》の技法〉を使っている。その方法とは……、
 ここはいいですよね。〈読者への挑戦〉がない事とは直接的には関係ないので」
 それまでじっと耳を傾けていた中原さんは、
「そうですね。③は評論や文庫版解説で法月綸太郎さんが書いているように、〈『シャム双子の謎』論のカギとなる《描表具》の技法〉の説明とその具体的方法で、私も見事だと思います」
 これまた『ニッポン硬貨の謎』を読んでほしい。
「ただ、」
 私はテーブルの上の『チャイナ橙』に手を置きながら、
「①はひねりすぎて現実味がないと思います。『シャム双子』と『チャイナ橙』を逆順で読む、しかも『チャイナ橙』の、〈《挑戦》を忘れていた〉、という記述を覚えているマレな読者を罠に掛けるためだけの嘘なんて」
 そう言うと、中原さんは、
「ふむ、もう少し説明してくれますか」

「ええ。私は、最初の引用の、脱落しかけて挑戦を挿入したのは『チャイナ橙』だと、素直に受けとるべきだと思います」
「フム」
「それにクイーン研究家の飯城勇三さんは、脱落しそうだった本=『チャイナ橙』雑誌掲載版説を唱えています。また翻訳家の越前敏弥さんは、『チャイナ橙』初版本挑戦忘れかけ説を唱えています。共に角川文庫の『チャイナ蜜柑の秘密』の解説にあります。
 つまりどちらも、挑戦を補ったのは第8作『チャイナ橙』で、その《挑戦》の文章に矛盾や嘘や創作はない、という意見だと思います」
 じっと聞いていた中原さんは、
「そうですね、私もそう思います」
「良かった」
 ひと安心だ。しかし、別の考えを思いついていた。今度は『チャイナ橙』の《読者への挑戦》の所を開き、
「ただ、この《挑戦》、先ほどの引用の少し後で、クイーンは、
〈私の出版社は、クイーンの著書を完璧を期することにおいて、きわめて厳格〉
だと書いています。という事は、挑戦を忘れた事に気づけば後からでも必ず入れるはずなので、〈忘れていたのを発見した〉のは『シャム双子』ではない。その点では彼女の、というか北村説の②、『シャム双子』は元々入れられない小説だ、という意見に賛成です」
「ええ」
「なので、第8作『チャイナ橙』の時に探索して発見した〈《挑戦》を忘れていた本〉、そして完璧を期して後から挑戦を入れた、第7作『シャム双子』ではない本があるはずです」
「なるほど」
「ただ、そんな本があれば研究者や翻訳家が見つけてるはずなので」

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「良く気づきましたね」
 良かった。中原さんと意見が合った、と思ったのに、
「まぁ①は、『シャム双子』に《挑戦》がない謎の解明の主たる論点ではないので良いでしょう。それより、②の前半、目次に挑戦を入れると、それ以前の解決が間違いだとバレる、というのは疑問です」
「エッ」
 さあ困った。全然わからない。
 中原さんはテーブルの上の『ニッポン硬貨の謎』を手のひらで示しながら、
「なので、法月綸太郎さんが書いているように、〈素直に参りました〉、と言うわけにはいきません」
 中原さんは、『シャム双子の秘密』を手に取ると、
「この角川文庫版は、約415ページあります。もし《読者への挑戦》が入るような筋書きだとしたら、どのへんに入るか、考えると分かるはずです」
 どういう事だろう。
 (実は、これから先の謎解きに必要な要素は、ここまでで全て出揃っています。みなさん、考えてください)

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 本を受け取ってページを繰って、しばらく考え、
「うーん、だいたい残り30ページぐらいの、全員が地下室に逃げ込んだ第四部の18と19の間辺りじゃないでしょうか」
 その所を示した。
「ええ。他の国名シリーズも50ページ前後ですし、挑戦がないクイーンや他の作家の犯人当ての本格ミステリも、最後の謎解きが始まるのはその辺りです。この本なら残りは厚さ5ミリもないかな。アメリカでも事情は似たようなものでしょう。これはまあ、この手のミステリを3冊も読めば常識です」
「そうですね。小説なら残り30から50ページ、2時間ドラマや映画なら残り15分くらいまでは犯人が判らないのが普通ですよね。ときどき凄く短いのや極端に長いのがありますけど」
「ええ。ということは、《読者への挑戦》があろうとなかろうと、残り約50ページ以前の犯人指摘や逮捕が間違っているのは、国名シリーズの第7作を読むようなミステリファンなら判るはずです。もし初めてミステリを読む人なら分からないかもしれませんが、それなら目次に《読者への挑戦》と書いてあっても、意味が分からないはずです」
「そうですね」
「それにね、目次に《読者への挑戦》と書いてあるとバレるというなら、目次には書かず、本文にだけ《挑戦》を入れれば良いんです」
「あっ、そうか」
「実例もあります」
「へえー」
「『ギリシャ棺の謎』です」
「エッ!」
 慌てて、今日返した『ギリシャ棺』をテーブルから手に取り、目次を見た。ない!確かに《読者への挑戦》がない。そして本文の残り50ページ辺りを探す。あった。当然だ。夕べ読んだんだから。
 そうか!だから中原さんは『ギリシャ棺』も貸してくれたのか、有料だけど。
「確かに。解説が536ページからで挑戦が451ページなので、残り85ページぐらいで、ちょっと長めだけど」
「『ギリシャ棺』は第4作なので、第7作の『シャム双子』で思いつかなかった、という事はあり得ない。なので、挑戦がないのは途中の解決の失敗を読者に悟られないため、という北村説の②の前半は成立しません」
 ウーン、参りましたと言うしかない。

「角川文庫はアメリカの初版初刊行が底本だとありますが、『ギリシャ棺の秘密』と同じく第5作の『エジプト十字架の秘密』も、目次になくて本文にだけ《挑戦》があるんです。ハヤカワ・ミステリ文庫もですが」
「ヘエー!」
 中原さんはテーブルの下から3冊の『エジプト十字架』を取り出し、角川とハヤカワの目次を見せてくれた。確かに挑戦がない。
「でね、さっきあなたが言った、『チャイナ橙』以前に挑戦を忘れたのを見つけて後から入れたはずの本、『ギリシャ棺』か『エジプト十字架』じゃないでしょうか」
「アッ!」
 そういう事か。
「本文の挑戦を忘れたから目次にもなかった。しかし後から気づいたので本文には入れたけど、目次には入れなかった、ということか。でも、なぜ目次には入れなかったんでしょう」
「それこそ、名探偵エラリーがどこまで失敗するか、悟られないためじゃないですか」
「えっ、でもさっき、挑戦があってもなくても、失敗するのは分かってるって」
「ええ。でも『ギリシャ棺』では《まえがき》で、
〈エラリー・クイーン君は、ハスキル事件では、いよいよの最後まで、終始一貫して屈辱的な敗北を喫した〉
と書いてるので、失敗するのは最初から分かってるんです。大事なのは、どこまで、です。目次に挑戦があると、そこまでは失敗で、その後は成功と分かって、読者に緊張感がなくなって面白くないでしょ」
「そうか。『ギリシャ棺』でエラリーは、犯人の罠に掛かって何度も苦渋を嘗めますもんね」
「国名シリーズをある程度順番通りに読んだクイーンファンなら恐らく、『シャム双子』を読んでる途中で、「ハハァ、これは『ギリシャ棺』のパターンだな、だから目次に挑戦がないのか」、と思ったと思います」
 うーん、そうは思わなかった。まだまだ甘いな。
「そう考えると、『ギリシャ棺』で挑戦を入れ忘れた理由も説明できそうです」
「お願いします」
「クイーンは実際、《挑戦》を目次には入れず本文には入れた。しかし編集者、つまり出版社か印刷所は、目次に挑戦がないので本文にもないはず、と思い込んだ。そこで本文の《挑戦》を外してしまった」
「うーん。でもクイーンが気がつかないなんてあります?」
「クイーンといえど神様ではないですから。それにこの時期、クイーンは大忙しのはずです」
「そうか。1932年から33年にかけて『ギリシャ棺』『エジプト十字架』、ロス名義で名探偵ドルリー・レーンが主人公の『Xの悲劇』『Yの悲劇』『Zの悲劇』『レーン最後の事件』の悲劇四部作、そして『アメリカ銃』『シャム双子』だもんなあ」
「凄いですねぇ。そのうえクイーンとロスは、講演会で対決したり」
「でしたね」
 『X』の《公開状》で明かしているが、両者はわざわざ別の出版社から本を出し、ダネイとリーは黒いマスクを付け、論争を演じた。正体を隠すと同時に宣伝のためだろう。イタズラ心もあるはずだ。
「なので、32、3年頃は自分の小説でも、本には十分注意を払えなかったかもしれない。代理人任せにしたりして」
「ふーん、あり得ますね」
「そう考えると、『チャイナ橙』の《読者への挑戦》の文章も、別の解釈が出来ます」
「別解釈?」
 中原さんは『ニッポン硬貨』を開き、
「〈ところが、なにごとかが起こったのである。正確には、それがなんであるかを、私は知らない。ただ、覚えているのは、一編の小説が完成し、組版が終わり、ゲラ刷りが校正されたあと、出版社のある人が━━まったく明敏な人である━━恒例の《挑戦》が脱落していることを、私に注意してくれたことである。〉」
「はい」さっき読み上げた所だ。
「これに対し作中人物はクイーンに、
〈「こんなこと、よっぽどのお人よしでなければ、信じないでしょう」〉
と言っている。
 しかし、こんなことが考えられます。
 『チャイナ橙』で《挑戦》の脱落が何かの理由で起こってしまったが、なんとか切り抜けた。さらに『ギリシャ棺』でもあったと判った。この出来事をクイーンは面白いと思い、『チャイナ橙』の《挑戦》で取り上げた。ただ、そのまま書くとミスをした当事者を責めるようになってしまう。自分の落ち度もある。だから筆を緩めて責任の所在を曖昧にした」
「なるほどー」
 ンッ?中原さん、苦笑してる?
「とまあ、私も思ったんですが、違いました」
「エッ、どういうことです?」
「考えてみてください。ヒントはさっき出しましたよ」

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 しばらくして中原さんは、
「角川版は初版初刊行が底本だと言いましたよね」
「ええ」
「という事は、『ギリシャ棺』と『エジプト十字架』は、出版当初から目次に《挑戦》はなく本文にはあった、という事です」
「アーッ、そうか」
「なので、『チャイナ橙』の時に調べて忘れてたのを発見した、という事はあり得ない。私も後から気がついて、でも自分の推理が惜しいから話してしまいました」
 なんてことだ……

「ただし、その後の本国版の『エジプト十字架』の目次に《挑戦》が入っていたら、それがその本かもしれません」
「つまり、『チャイナ橙』の《挑戦》で書いてる、〈《挑戦》を忘れていた〉というのは、本文中の挑戦文ではなく、目次の挑戦だと」
「ええ。実はこの創元推理文庫の『エジプト十字架』は、目次にも《読者への挑戦》があるんです」
「エッ!」
 あわててテーブルの3冊目の創元版『エジプト十字架』の目次を開いた。ある!今度はある。
「その〈まえがき〉の訳注に、〈本訳はポケットブック版によって旧訳を改訂したものである〉と書いている。なので、それが34年の『チャイナ橙』以降なら、解決かもしれません」
「ウーン」
 ①については北村説を越えるか?
(後日、東京創元社にメールで問い合わせたところ、底本か不明だが保管してある1945年ポケットブックス版の原書の目次に挑戦はなく、目次は弊社が読者の利便のため独自に作成、との回答があった。答えて頂いたのは感謝です。しかし、という事は、中原説もハズレだと判り……)

「では改めて、なぜ『シャム双子の謎』には《読者への挑戦》がないのか」
「エッ、それはもう……」
「《挑戦》が入れられないのは誰が読んでも分かります。問題は、なぜそうしたのか、です」
「そうか、クイーンなら挑戦が入るような筋に出来ますよね」
「ええ。その後の『チャイナ橙』と『スペイン岬』、国名シリーズじゃない『中途の家』や短編集は挑戦や犯人当てがあるのに。さらにラジオとテレビの『エラリー・クイーンの冒険』でも、挑戦入りの犯人当てドラマ脚本を何十と書いてるんですよ」
「へえー、なんでだろ」
「エラリーがもっと論理的に犯人を指摘できる証拠を残すことは出来るでしょう」
「確かに、そうですよね」
「もう一度、『シャム双子』の粗筋を思い出してください。そして、挑戦を入れられる展開にしたとして、どこに入れるか、入れたらその後どうなるか、考えてください。そしたら分かりますよ」

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 どこかといえば、やはり屋敷に火が迫り、全員が食糧庫に逃げ込んだ時だろう。そこで挑戦が入る。そのあと、エラリーの推理で犯人が判る。しかし、煙が入ってきて、とうとう命の危険が……。
 アレッ?危険が……
「命の危険が、ない!」
「なぜですか」
「だって、挑戦があるという事は、全員助かったって事ですよね?でなきゃ、挑戦なんかあるわけない!」
「そうですね。最近の、なんでもアリの日本の本格ミステリなら、挑戦があっても全員死亡もあり得ますが、オーソドックスな当時の本格ミステリなら、まず、ないでしょう」
「そうか、挑戦があると読者は、あ、みんな助かるんだ、と思い安心してしまう。読者を最後までハラハラドキドキさせるために、挑戦を入れられない結末にしたんだ」
「ええ。それに挑戦されると、こっちはジックリ考えるからサスペンスが止まってしまう。まあ、入れられる展開にして、でも入れない、という手もありますが、それだと、アレッ?なんで挑戦がないんだろ、と勘繰られて、やっぱりサスペンスが弛んでしまう。
 『シャム双子』は『ギリシャ棺』のパターンかとファンに思わせたと言いましたね。でもクライマックスになっても《読者への挑戦》がない。あれ?どうなるんだ。解決するの?まさか全員焼死?もしやこれで国名シリーズは終わり?と疑心暗鬼にさせてから背負い投げを食わせる。そのためです」
 うーん、そうかあ。
「だから一気に持っていくために、挑戦を入れられないようにしたんだと思います」
「だから挑戦がないのに最後まで面白かったんですね」
 ンッ?でも、小説になってるんだから、エラリー達が無事なのは最初から分かってるんじゃ……。そう尋ねると、
「読者というのは、私も含めて、目の前のサスペンスに心を奪われたら、そこまで気を回して読んだりしないのは、分かりますよね。
 それに、そこまで気を回す人なら、この小説は、焼失を逃れたエラリーの手帳だけが焼け跡から発見され、それを元に《まえがき》の書き手のJ・J・マックが書いた、という可能性も考えるでしょう」
 なるほど。
「つまり、『シャム双子の謎』は本格ミステリ✕山火事パニック小説なんです。で、後者のクライマックスを活かすために、鋭い推理はあるが前者の犯人当てを犠牲にした、という事です。もっといえば、前者は、人の死を使った人間の遊びです。しかし後者は、生死を賭けた自然との闘いです。元来、水と油なんですよ。それを《読者への挑戦》をしない事で一つにしてるんです。クイーンの凄業だと思います。もちろん、前者が不徹底だ、という批判もありますけど」
「なるほどなー」
「この辺は笠井潔さんの『探偵小説と二0世紀精神』の中の『シャム双子』論に近いので、読んでみてください。より詳しく分析してて、ちょっと難しいけど、高校生なら解りますよ。ただし笠井説は、《挑戦》があると生命の危機がなくなる、とは書いてないので、新説だと思います」
 へえー。
「話を戻しますが、瑠色州雅楽さんの『ショパンの戯れ』、ありましたよね」
「はい。面白かったです。瑠色州版『シャム双子』ですね」
「あれは本格ミステリ✕火山噴火パニック小説なわけです。ただ、こちらは前者を活かすために後者は犠牲になってる。なぜなら《読者への挑戦》があるからです。クライマックスで《挑戦》があるためにサスペンスは死んでると言っていい。瑠色州さんはオーソドックスでセンチメンタルな本格派ですから」
「うーん、そうかあ。でも確かにまあ、こっちはみんな助かるだろうと思いました。
 でもですよ、シリーズ名探偵のエラリー・クイーンですよ?クイーンの愛読者なら、エラリーが火事で死亡なんてありえない、と思いませんか?というか、私自身、初めて読んだ時、ハラハラはしても彼が死ぬなんてまさか、と思いながら読んでました」
「そこが当時の読者と違うところでしょう」
「違うとは?」
「今の、というか、発表翌年以降の読者は、『シャム双子』以後もエラリーが活躍することを知ってるでしょうから」
「そうか、書店の棚に『アメリカ』『シャム』『チャイナ』『スペイン』と順番に並んでるのを見れば分かりますもんね。宣伝もしてたでしょうし」
「まあ、『チャイナ橙』や『スペイン岬』は『シャム双子』以前の事件という可能性もありますが、普通はそう考えるでしょう。初めて『シャム双子』を読んだ時、そのあとも国名シリーズが続いてるのは知ってたでしょ?」
「そう言われると確かに、解説とかクイーンの作品目録で。それどころか、クイーンが生涯エラリーの活躍を書き続けた事さえ知ってました」
「でも当時の読者は、そんな事は知らない。クイーンの最新作なんだから。だから、『シャム双子』のクライマックスで、エラリーが死ぬかもしれない!と思っても無理はありません」
「そうかあ」

 と納得しかけたのに中原さんは、
「ただね、やっぱり名探偵エラリー・クイーンですから、当時の国名シリーズの愛読者ならクライマックスでも、エラリーが死ぬなんて、と疑ってもおかしくはない」
「はあ?」
 どっちなんだ?
「そこで、作家エラリー・クイーンはダメ押しで、とんでもない仕掛けをしてるんですが、分かりますか」
「とんでもない仕掛け?」
「私もコレに気づいた時は、アッと叫んだ後、つま先から鳥肌が立ちました」
「そんなに凄いんですか」
「ええ。ただし、これも今の読者はまったく気づいていない、クイーンマニアや研究家でも。これは当時の読者にしか分からない、というか、通用しない仕掛けです」
「なんだろう?」
「当時の読者になったつもりで考えれば分かりますよ。ヒントはこれまでの会話に出てます」
「エッ?」
「もう1つ付け加えれば、当時の、作家エラリー・クイーンの最大のライバル、そして、名探偵エラリー・クイーンの最大のライバルが関係します」

        7

 誰だろう?思いつく作家と名探偵の名前を挙げた。
「クリスティとポアロ?」
「違います」
「ヴァン・ダインとファイロ・ヴァンス?」
「違います」
「カーとメリヴェール卿、いやフェル博士か、どっちだ?まあ、どっちでもどう見ても違うな」
「対決もしてるんですよ」
「小説の中で?」
「いえ、作家同士で」
「エッ、あの人?」
「あの人です」
「という事は、あの探偵?」
「あの探偵です。最終作の最後に何が起きました?」
「エッ、あっ、あー、最後に……。アーアッ?!」思わず叫んでしまった。
「そうです。ああなりましたね」
 そうだ、そうだ、そうだ!気になる人は小説を読むかネットで粗筋を調べてください。
「その作品と『シャム双子の謎』は、いつ発表されましたか」
「同じ33年!」
「私の推測が正しければ、恐らく同時か、その作品の方が少し早いはずです。正確な時期は判りませんが、ある研究書では作品解説はその並びになっています」
「ヘエーッ!」
「とすると、当時の本格ミステリファンは、その作品を読んでから『シャム双子の謎』を読むはずです」
「そうか、それなら名探偵エラリー・クイーンも、もしかすると、と読者が思っても無理ないか」
 エラリー・クイーンの天敵とも言えるバーナビー・ロス、その人が生み出した名探偵ドルリー・レーンが最後を迎えた。ならばライバルとも言えるエラリーも……
「どうです?今知って」
「私も寒気がしてきました」
 思わず身体を抱きしめた。
「しかし、こんなこと、よく思いつきますねえ」
「ええ。エラリー・クイーンという人は、元々2人とも広告業界出身なんです。たぶん、その経験や考え方からの発想だと思いますが」
 いや、クイーンもだけど、中原さんも。
「という事は、ロスのデビュー当時から既に考えてたと」
「でしょうね」
 フーン、ため息しか出ない。凄すぎる。
「あの四部作はあの最終作のために書かれたと言われてます。それに、今では全て、クイーン作としか思われてない。その上、最終作は特に出来が弱いので忘れられがちだ。しかし、というか、そのせいで、もう一つ、しかも作品の外にとんでもない事を仕掛けているとは、誰も思わない。それに今となっては幻の作家ですから」
 確かに。逆に考えると、『最後の事件』の出来の悪さは、『シャム双子』より早く出すために、あの発想だけで充分な構想や書き直しの時間がなかったせいかも。すると中原さんは、
「そう考えると、『チャイナ橙の謎』の《読者への挑戦》の謎、別の解答もありそうです」
「《挑戦》の謎?」
「『チャイナ橙』以前で〈《挑戦》を忘れていた〉本です」
「ああ、でもそれは『エジプト十字架』の目次では、という結論でしたけど」
「ええ。しかし、四部作、という可能性はないでしょうか」
「エッ!四部作?」
 中原さんは『Xの悲劇』を取り出して、
「どれも論理的に犯人を指摘できるようになってます。41年版『Xの悲劇』の冒頭の《読者への公開状》で、悲劇四部作全て〈読者は解決にたどりつく前に、あらかじめすべての手がかりをあたえられるはずである〉とあります。なので挑戦しようと思えばできた。しかし挑戦はない。クイーンの真似と言われるのを避けたんでしょう。事によると謎の作家の正体がバレてしまうかもしれない。それに悲劇という内容は挑戦という遊びの形式には相応しくない。だからやらなかった。けど、本当はやりたかった。さらに、四部作を書いたのは実は自分だと知ってほしい、バラしたいという想いもある。それに角川文庫版『シャム双子の秘密』の解説には、〈探偵エラリーのシリーズの方がレーンものより圧倒的に売れていた〉とあります。ならばロス=クイーンと知られれば悲劇四部作はもっと売れるでしょう。そこでクイーンVSロス・プロジェクトが終わった後の最初の作品、翌34年の『チャイナ橙』の《挑戦》で密かに仄めかした。それが〈忘れていた〉という表現になった」
「なるほど」
「さらに『チャイナ橙』で、《挑戦》を忘れた本がある、と書くことで、読者に、どの本だろう、と過去の国名シリーズを調べさせる。『シャム双子』だと思う人もいるでしょう。しかし私のように、別の本じゃないかと考える人もいるはずです。すると」
 中原さんは、国名シリーズ第1作の『ローマ帽子の謎』を開き、
「この《はしがき》に、
〈たとえば、いまは昔の物語であるバーナビー・ロス殺人事件に際して輝かしい捜査活動をしていた当時、リチャード・クイーンは、その功績により、……犯罪捜査の有名な大家連と、肩を並べる名声を確立したといわれていた〉
とあるのに気づく読者がいるかもしれない」
「ああ、そこに繋がるわけか!」
 『ローマ帽子』の序文(《はしがき》のこと)がロス=クイーンのヒントだったと、『X』の《公開状》で書いてるけど、そう来るか!
「でも、ほら」
 急いで『チャイナ橙』の《挑戦》を開いた。
「ここに、
〈私の出版社は、クイーンの著書を完璧を期することにおいて、きわめて厳格〉だって。だから……、そうか、入れ忘れたわけじゃないのか」
「ええ。最初から入れるつもりはなかったので。それに、四部作はクイーンでもなければ出版社も違いますし。だから挑戦を入れ直さなかった。しかし8年後、新版『X』で、四部作の作者はロス改めクイーンと公表した。そこで彼らは、〈きわめて厳格〉に〈クイーンの著作を完璧を期することに〉した。。つまり、『Xの悲劇』の《読者への公開状》こそ、『チャイナ橙の謎』の《読者への挑戦》で〈忘れていた〉と書かざるを得なかった、『チャイナ』以前で『シャム』以外の、遅ればせではあるが厳格に完璧を期して、〈解決にたどりつく前に、あらかじめすべての手がかりをあたえ〉たと挿入された、《読者への挑戦》、なんです」
「ウーン」
 そういうことかぁ。
「つまりクイーンは、従来とは別の《読者への挑戦》を仕掛けていたわけです」
 中原さんが、なぜ『X』の《公開状》を読むようにと言ったのか、やっと分かった。

「これだって捻りすぎと言われるかもしれませんが、クイーンにすれば、バレてもバレなくても良いことなので。むしろ、クイーン自身がハラハラドキドキするための仕掛け、という面が強いでしょうから」
「確かにこちらの方が現実感がありますね。『X』の《公開状》で半分バラしてるわけだし」
「ここまで来ると、『シャム双子の謎』という題名に隠された秘密も分かります」
「エラリー・クイーンが実はダネイとリーの、双子のごとき従兄弟の筆名だ、という他に?」
「さあ、考えて」
 今度こそ。

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「そうか、クイーンとロスは同一人物だ、という秘密、さらに、『レーン最後の事件』と『シャム双子の謎』は秘かに繋がっている、という秘密ですね!」
 中原さんは、にこやかに頷いた。そして、
「もっと踏み込むと、シャム双子の分離手術の話が出てきますが、これもクイーン=ロスの終わりを暗示してると思います」
 なるほどと、うなずいた。
「あと、これは今思いついた素人精神分析ですが、『チャイナ橙の謎』で殺される正体不明の男、もしかするとバーナビー・ロスの投影かもしれません」
 ああ、謎の作家ロスは四部作を終えるとクイーンに消された、云わば殺されたんだ。これこそまさに〈バーナビー・ロス殺人事件〉だ。
 服に差し込まれた二本の槍はクイーン&ロス(というよりダネイ&リーか、二人によって二人の作家は操られていたのだから)、部屋中の物がアベコベなのは、正体隠しに演じられたダイヤのジャックの絵柄の如きクイーンVSロス、最後に明らかになる被害者の正体(これも粗筋だけでも読んで確認してください)は、クイーン=ロスだと告白したい願望の現れか。
 トリックが異常に複雑でエラリーの推理が論理性に欠けると批判されるのも、クイーンとロスを操る二人の青年の葛藤が投影されているからか。
 クイーンの1人フレデリック・ダネイが自薦1位とするのも、これらの状況が小説に反映されているせいか。
 そう考えると、32年から33年の悲劇四部作、『最後の事件』と『シャム双子』、『シャム双子』と『チャイナ橙』は、クイーン&ロス、ダネイ&リーの作品として読み直す必要があるかもしれない。そう、例えば、2を巡る物語として。
(後で気がついたが、北村さんの言うように、前期クイーンを数学的な《地上の論理》、後期クイーンを空想的な《天上の論理》とすれば、この『チャイナ橙』への考察は《天上の論理》なのかもしれない。
 また、32年から33年の、『エジプト十字架』と『X』、『ギリシャ棺』と『Y』も、それぞれ在ることで繋がってる。『アメリカ銃』と『Z』も何かあるかもしれない。あ、AからZか?!あー、もう、みんな読んでください!)

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 1つ疑問に思うことがあった。
「なぜ、他の人とは違う事を考えられるんですか。クイーンマニアの作家や専門家や読者ブログを読んでも、中原さんのような意見はないので」
 中原さんはしばらく考えると、
「皆さん、真面目なんじゃないでしょうか」
「えっ、真面目?」
「一作一作を国名シリーズとしてほぼ順番通りキチンと読んでる。四部作も全てクイーン作品として、しかも現在の視点で。でも私はいい加減なのでアッチコッチと目移りして読む。クイーンとロスを分けたり一体化したり、疑問や別の可能性を拡げたり」
「ふーん」
 あれっ?中原さん、また笑ってる。
「というと、もっともらしく聞こえますが、実は偶然なんです」
「偶然?」
「はい。小学5年生だったかな、初めて読んだクイーンが姉の持ってた『オランダ靴の謎』でした。その次が『シャム双子の謎』でね。ほら、浜田書店あるでしょ。田舎の小さな本屋だからそんなにたくさん本が置けないんで、クイーンがたった一冊。もっともその時は創元版でしたけど。クライマックスはエラリー含め全員が死ぬんじゃないかと、ハラハラしながら読んでました」
「はー」
「それ以外のクイーンの作品も名探偵ぶりも全く知らない、その後も国名シリーズが続く事にも目が行ってない。だから《読者への挑戦》がないのも疑問に思わずです。でも、その後クイーンにハマって国名シリーズを読んだら、全部《挑戦》があるわけでしょ。だから『シャム双子』に《挑戦》がない理由も、小6の時になんとなく思いついてました。元々みんなと出発点が違う。だからです」
「ヘエー!」
「ただ、『最後の事件』『シャム双子』の順で読む、当時の読者への仕掛けに気づいたのは2年前ですが。
 もう一つバラすと、『ニッポン硬貨の謎』の最後で、北村さんたちが藤川一男の名前で翻訳したと打ち明けた、クイーンの評伝が載ってる『エラリー・クイーンズ・ミステリー・マガジン』、当時読んでたんです、というか、今も持ってるんです」
 そう言うと中原さんは、再びテーブルの下から取り出した。
「ウワッ、スゴい!本物だ!」
 『ニッポン硬貨』に載ってた写真と同じ雑誌の表紙が、しかもカラーで。許しを得て手に取り中を開いた。〈新連載第1回〉とある『評伝エラリー・クイーン王家の血統』、確かに〈藤川一男・訳〉、とある。感じ入りながら、しばらく読んでいると中原さんが、
「それからこれは余談ですが、エラリーの最初のカードの推理、博士は右利きなので右手でカードを破り捨て左手に残るはずなので、右手に持っているのはおかしいと推理しますが、3つの点で甘いと思います。
 まず、博士がダイイングメッセージとして強調したいから利き手側を残した、という可能性がある。
 次に、博士は右胸を撃たれていたから、右手が利かず左手で破り捨てた可能性もある。ただ、博士の助手の医者が何も言わないので、それはないのかもしれませんが。
 最後に、私、右利きですが、T字カミソリを使う、ミカンの皮をむく、そして、カードをシャッフルする時だけ、なぜか左手なんです」
「へえー」
 中原さんは3つの動きをしながら話した。
「なので、こうだから犯人は右利きとか被害者は左利きとかあると、ホントに?と思っちゃうんです。私はミカンとカードは右手で持って左手を動かします。この場合だって私が実験したら、とっさにどっちの手で破り捨てるか、判りません。
 しかも私の姉は、このことをちょっと前まで知らなかったんですよ、聴いて確かめたんですがね。だから親しい人でも知らない可能性はあるんです。
 私だけじゃない。ある野球選手はサウスポーなのに、左手に時計をしてます。普通、時計は利き手とは逆ですから。その野球選手は字は右で書くと言ってたな。同じことはドラマでもありました。左手でタバコを吸ってるのにその腕に時計をしてる。作家の山田風太郎はヘビースモーカーなんで、右手で原稿を書きながら左手にタバコを持ってる写真があります。博士や容疑者や犯人だってその可能性はある。
 だからエラリーの推理も絶対じゃないと思います。この3点でちょっと甘いなと。まあ結局、エラリーは当たってたんですが」
 なるほどなー。でも、ソレって利き手論は成立しないってことだから、『シャム双子』でのエラリーの推理の半分は怪しいってことじゃあ……
「それから、結末のあっけなさ、ほとんど落語の落ちみたいなもんで、びっくりしましたが」
「あっ、やっぱり」
「従来のエラリーの推理による解決がないんで、代わりのサプライズ・エンディングでしょうか。それに脱出や救助場面は書こうと思えば書けるでしょうが、それをやると本格じゃなく完全にパニック物になってしまうからでしょうね。それに小説にイタズラがあるんですが、それにも関係があると思います」
「イタズラ?」
「ええ。ただこれはまず、再読した人しか気づかないと思います」
 そういうと、中原さんは『シャム双子』を開き、
「ここと、ここに」
「アッ、こんなことを!」
 角川文庫版『シャム双子の秘密』の《まえがき》の書き出しは、
〈エラリー・クイーンの良心の番人として、わたしがかねがね責務として考えてきたのは、彼が何年も昔にアロー山と呼ばれるあの孤立した邪悪な峰でおこなった興味深い犯罪捜査の体験を、当人がいやがろうと恥ずかしがろうと、いつもの厚紙の表紙にはさまれた物語に仕立てさせることだった。〉
 さらに、第一部の2で山火事から逃れたクイーン父子が館に迎え入れられた直後の3の冒頭、
〈後年にエラリー・クイーンは、ティピー山地でのこの奇異な夜の細やかな出来事ひとつひとつを鮮明に思い起こすことになる。〉
 ということは、クイーンは最初から、エラリーが生還することを読者に教えてたのか。でも、当時のファンなら待ち遠しかったクイーンの新作、しかもレーンの四部作が完結した直後だ。手に入れると直ぐに一気読みだろう。とすると、こんな最初の方の文章、というか一言二言、クライマックスまで覚えてるわけがない。確かにイタズラだ。
「だからね、サイン会とかで、『シャム双子』の読者がクイーンに、「最後、エラリーが死ぬんじゃないかとハラハラしました」と言ってきたら、「でも、ほら、ここに」と示してニヤニヤしてたんじゃないかと思います。この後の『スペイン岬』でも同じような事をしてますから」
 ああ、あの最後の一行か。

 中原さんは少し真面目な顔になって、
 「それから、『シャム双子』(1933年)の山火事への登場人物達の始め頃の対応が愚かだという批判があります。最近言われる、正常性バイアスでしょうか。一方、徐々に迫りつつある第二次大戦の予感の反映という説もあります(31年日本満州侵攻、33年ヒトラー政権成立、日独国連脱退、35年イタリアエチオピア侵攻、36年独伊友好条約、日独防共協定、39年第二次大戦)。クイーンの文章と、後半で全員が火事に抗う必死な姿から、私もそう感じます。2人ともユダヤ系ですから。しかし現在の視点で読むと、気候変動と、変わらない人間の愚かさや弱さに思えます。
 まあ、今日話した事は全て私の妄想です。『シャム双子』論を書いている人達が誰も言ってない事なので、いつもながら話半分に聞いてくださいよ」
 ウーン、いつも中原さんには驚かされるけど、今日はいろんな事がありすぎて、頭の整理がつかない。
 すると中原さんは、さらに言った。
「最後にもう一つ、凄い事を教えましょうか」
「なんですか」
 中原さんは、身を乗り出し真っ直ぐにこちらを見て、
「今日ここで話した、『シャム双子』に関する謎と秘密を、全て知っているのは、世界中でおそらく、私と、あなただけです」

*後日談を
 最初の方で触れたが一般には、『Yの悲劇』は1932年、『レーン最後の事件』と『シャム双子』は33年だ。ウィキペディア、『探偵小説と二0世紀精神』『評伝エラリー・クイーン王家の血統』でもそうなっている。
 しかし1で触れたが、1976年の創元推理文庫、『Yの悲劇』の4ページ目、英語表記は上から順に、題名、作者、1933。同じく『レーン最後の事件』は1934、となっている。
 これでは、『最後の事件』は『シャム双子』の後になり、中原さんの仮説は成立しなくなってしまう。
 そこで、フランシス・M・ネヴィンズ著『エラリー・クイーン推理の芸術』(実はまだ読んでない。高いので…)を出版している国書刊行会にメールで、『レーン最後の事件』と『シャム双子の謎』は、どちらが先に出版されたか問い合わせたところ、2024年11月15日、以下の回答があった。

このたびは弊社書籍へのお問い合わせありがとうございました。

お尋ねいただいた件につき、編集担当経由で訳者に質問をお渡ししたところ、『レーン最後の事件』は1933年9月1日頃発売の雑誌「ミステリ・リーグ」10月号に掲載されたそうです。その後単行本発売されましたが、こちらは刊行日不明とのこと。また『シャム双子の謎』1933年10月刊行とのことでした。

これ以上のことは不明のようですが、ひとまずご回答申し上げます。
よろしくお願い申し上げます。

 回答に感謝の返信をした。しかし、常識的には、『最後の事件』は何回かに分けて雑誌に連載されたはずだ。ということは、その結末が明かされるのは、良くて『シャム双子』と同時か、もっと後ということになる。やはり中原説はダメなのか。
 そこで、〈1933年ミステリ・リーグ10月号〉をネットで調べたところ、Web東京創元社マガジンの小森収氏の『短編ミステリ読みかえ史』第38回に、このような記述を発見した。
〈ミステリ・リーグ誌の編集はふたりで行っていたのです〉
 ふたりとは、エラリー・クイーンのダネイとリーのことだ。そして、
〈創刊号に『レーン最後の事件』が一挙掲載されたことは有名ですが〉

 これで謎が解けた。おそらく、『最後の事件』は33年に雑誌で発表されたが、本として出版されたのは34年なのだ。『Y』でも同様の事があったのだろう。
 つまり、『レーン最後の事件』は1933年9月に、そして『シャム双子の謎』は同年10月に、ロスとクイーン、そしてダネイとリーによって、世に出された。よって中原説は成立する。
Q.E.D.

 なお、このことは、中原さんにはまだ、知らせていない、私だけの秘密だ。

 さて、このままでは中原さんにやられっぱなしでクヤシイので、私の思いつきを一つ。
 これまでの中原さんの話のほとんどは、小説の外の仕掛けや外と内の関係性についてだ。しかし、『シャム双子』のエラリーの推理について気づいたことがある。
 事件を時系列にすると、
①ソリティアをプレイ中に射殺された博士が右手に持っているスペードの6の右半分から、クイーン警視はイニシャルSIXの人物Aを犯人と指摘。Aは思わず自白する
②エラリーは、博士は右利きなので本当なら右手で破り捨て左手に残るはず、犯人が〈博士は右利きだからカードも右手に持った状態で発見されるべきだと判断を誤った〉(200ページ)ので右手に残した、よってAは偽の証拠で嵌められ、誰かをかばって自白したと推理する
③さらに、博士の右手に持たせたので犯人は左利きと推理。唯一左利きのBは逃走を図り警視に撃たれ重傷、しかし自分は偽装しただけで犯人ではないと告白する
④警視は全員に、Bを見張り、午前2時にエラリーと交代する、と告げる
⑤午前1時過ぎ、警視はクロロホルムで眠らされ、Bはシュウ酸を服毒(博士の助手の話では、約1時間後に死亡したが犯人はすぐ死ぬと勘違いした)、右手にダイヤのジャックの右半分を持っているのをエラリーに発見される
⑥エラリーは、博士がダイヤのジャックの右半分を持っているのをBが見てスペードの6にすり替えた、と推理し、カードから双子のCまたはDを名指しする
⑦その後、判明した博士の死後硬直の早さから、博士が右手に持っていたはずの、そして、Bの右手のダイヤのジャックの半分は、共に真犯人の偽装と推理する
 おかしな点が幾つもある。小説を読んだ方はお分かりだろうか。

 まず、警視の推理がおかしい。スペードの6ではなく6の半分だ。3(双子と母親)、片方(博士の妻、弟、助手、双子のどちらか)、SIXを上半分にしたCIVまたは下半分の天地を逆にしたVIC、等を考えるべきではないか。残念ながらC4や6Cに関係したり、シビル、ヴィクター、ヴィクトリアという人物は登場しないが(車のシボレーは?と思ったけど調べたらchevroletだった。アブナイアブナイ)。
 逆に言うと、Bは博士の右手の半分のジャックを見たからといってスペードの6を半分にする理由がない。Aを嵌めるなら完全な6の方が確実だ。博士が射殺された時に偶然持っていたのではなくダイイング・メッセージであることを強調するためなら、二つ折りか、裂いて二つとも右手に持たせればよい。片方を捨てる理由がない。
 それに、エラリーは警視の推理に以上のような反論をしないのは、Aが自白してしまったからとも見えるが、言及すべきだ。
 次に、エラリーは、博士が右利きだから犯人は右手に持たせたとしているが、意図的なら右利きでも左手で破り捨て右手に持たせることはできる。そのあとエラリーは、左利きの犯人が無意識に左手で破り捨て右側を博士に持たせた、と推理するが、最初の推理と矛盾する。犯人を左利きとする根拠はなく、左利きのBが曖昧な論理にだまされ馬脚を表したに過ぎない。それにBは、博士が右手にダイヤのジャックの半分を持っていたから6にすり替えたので、Bの利き手は関係ない。なのにその事に触れていない。そして最終的には、なぜ右利きの真犯人が博士の右手に持たせたのか。博士が右利きなので誤解した真犯人が意図的に左手で破り捨て右半分を持たせた、とエラリーはもう一度言及すべきだが、これもしていない。
 また、Bが持っていたダイヤのジャックの右半分から、エラリーはなぜCまたはDの名を挙げたのか。この時点では博士及びBのダイイング・メッセージだと考えているのだから、右半分はC(左ならD)だと特定できるはずだ。
 最後に、そもそも、なぜ真犯人はダイヤのジャックを半分にしたのか。読んでもらえば解るが、半分が指し示すCまたはDに犯行は不可能ではないか。むしろ完全なダイヤのジャックが示す人物の方が犯行は可能だ。または、ダイヤのクイーンが示す人物でも良い。どちらにしろ半分にする理由も片方を捨てる理由もない。

 以上からはっきり言ってしまえば、中原利き手理論が成立しなくても、エラリーの推理は破綻している。異常な設定からのサスペンスと論理的な語り口の上手さで読んでる時には全く気づかなかったが。『シャム双子』については、フランシス・M・ネヴィンズ『エラリー・クイーン 推理の芸術』、北村薫『ニッポン硬貨の謎』、法月綸太郎『盤面の敵はどこへ行ったか』の中の『神話の国のエラリー』及び『複雑な殺人芸術』中の『初期クイーン論』、飯城勇三『エラリー・クイーン パーフェクトガイド』、越前敏弥(『シャム双子の秘密』翻訳)、山口雅也『ミステリー倶楽部へ行こう』、笠井潔『探偵小説と二0世紀精神』、小森健太朗『推理小説の論理学』、野崎六助『北米探偵小説論』、等米日のそうそうたるミステリの専門家達が論じている(諸岡卓真『現代本格ミステリの研究』だけないけど大半は県内図書館からの取り寄せ制度でやっと読めました。田舎住まいは大変だぁ)。これらはどれも面白いし、また高度で正直、私の頭では付いていけない所もある。しかしエラリーのミスは誰も指摘していない、そして中原さんも。
 2年で8作と詰めこんだ上に『最後の事件』に続けて忘れられない内に『シャム双子』を出そうと時間に追われ、さらにサスペンスを優先するあまりに論理がおろそかになったことに加え、ダイイング・メッセージにこだわりすぎて自分たちが作った状況を客観的に見る余裕をなくしたせいではないか。
 ただし、それでも、やっぱり、『シャム双子』は面白い。エラリーの矛盾した推理とは関係なく真犯人を炙り出しているからだ。いや、むしろ山火事という状況がエラリーの推理を狂わせ、しかしその論理の迫力と山火事の緊迫感が真犯人に矛盾を気づかせず(私もだけど)、心理的に追いつめ自白させる役割を果たしている(結果的にクイーン父子は同じことをやってるのだ)。それに火事との必死の闘いは心に刺さる。つまりエラリーの推理は破綻しているがクイーンの小説は成功しているのだ。
 でも、やっぱり、思ってしまう。専門家の皆さんは一体、どこを読んでいるのだろう。
 ゲーデルだラッセルだウィトゲンシュタインだロシアフォルマリズムだタイプ理論だ不確定性定理だ社会学だ、と我田引水で論じる前に、ちゃんと小説を読んでるんだろうか。
 (あぁ、言っちゃった。ついでだ、全部言っちゃえ。クイーン父子も犯人も被害者も容疑者も、専門家も素人も、そしてクイーン自身も、環境破壊と戦争を止められない世界も、女性の地位向上も年金問題も先送りのこの国も、みんなバカだ。モチロン、昔のミステリを読んで現実逃避しつつイチャモンつけてる私も。
 突飛なことを言ってるだろうか。でも個人心理と集団心理は、どちらも人間の心なので変わりがない、と聞いたことがある。なら虚構と現実も本質において違いはないんじゃないだろうか。
 「人間は愚かで醜くて弱い。それが時と場所と場合によって多様な現れかたをするにすぎないんですよ」
 中原さんは時々、こんなことを洩らす。今、それを実感している。
 しかしクイーンがこんなにミスをやらかしてるとは。実は最近の日本の本格ミステリはかなりミスが多いと思ってた。例えば赤峰秀己『~館殺人事件』三部作(第一作『体育館殺人事件』はある新人賞受賞作だけど単行本の巻末の選評でたくさんミスを指摘されてる。文庫本では直ってるけど、その後の二作もかなりミスがあるし文庫本でも直ってないのはなんでだろ)、瑠色州雅楽『スイス時計の秘密』(コレはねー、批判小説書いちゃった)、寒夢山寅雨『第31号船室への侵入』(時計が三回出てくるけど全部デタラメ。単行本で気がついて文庫本で直ってるかと立読みしたけどそのまま)。けど本家がコレなら仕方ないか。
 でも、やっぱり、クイーンが好きだ)

 もう一つ、気づいた事がある。
 AからZ、26文字をトランプカードと同じく13で分け、二本の槍の如く並べる、11のように。
ABCDEFGHIJKLM
NOPQRSTUVWXYZ
 そして、エラリー・クイーン(E・Q)とドルリー・レーン(D・R)のイニシャルをそれぞれ線で結ぶと、
D E
 X
Q R
 X、または、十字架、で繋がるのだ、まるでシャム双子のように。これもまた、『ニッポン硬貨の謎』の後半で展開する、後期クイーンの《天上の論理》だろうか。

 すいません、ウソをついてしまいました。
 ドルリー・レーンはDrury Laneなので、《天上の論理》は砂上の楼閣です。
 惜しいので、つい……(警視庁公安部の大川原化工機でっち上げ冤罪事件て、こうやって起きたのかな。検察裁判所も含め、ほとんど未必の故意の殺人だよ)
 みなさん、きちんと調べて考えましょう。あなたを一番騙すのは、あなたを最も心地良くしようとする、あなたの脳だから。
 以上、トランプ現象吹き荒れた昨今の選挙における、都会のSNS界隈(コレなんか後期クイーン問題と言われる、〈最後の答が正しいとは限らない〉典型なんだけどな。てか、なんであんなデマ信じるんだろ。あの演説の群衆なんか、まるっきり『八つ墓村』の村人だ)から遠~く離れた田舎の大衆(でも過疎化で人がいないから、群衆になるのは地蔵祭の花火大会と秋祭りの餅まきぐらいなんだよねー)の、一高校生、今緒楓がお伝えしました。

 あ、ちなみに、今緒楓って名前には秘密があって……(もういいか、お腹イッパイか)

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