大量死理論に挑む

 境吉城の評論集『二十世紀と本格ミステリ』の間に挟んだ紙の栞に、
〈本格ミステリが英米日で発展した理由、フランスで発展しなかった理由は〉
〈第二次大戦後にアメリカの本格派がなぜ衰退したのか〉
と書いてある。
 高校に通学する道すがらの家の近所にある貸本屋、そこはミステリが中心だが、たまに謎の言葉が書いてある栞が入っている。
 店主の中原さん(60才ぐらいの普通のおじさん)に本を渡すと、
「『オリエント急行の殺人』『Yの悲劇』『僧正殺人事件』『D坂の殺人事件』『犬神家の一族』、それから『ウェストサイド物語』と『刑事コロンボ』は知ってますね」
と、クリスティとクイーンとヴァン・ダイン、乱歩と横溝のそれぞれ一番有名な小説を挙げた。当然だけど読んでいる。『ウェスト~』も『コロンボ』も観てる。そう答えると、
「では、これも」
と渡されたのがアイザック・アシモフの『黒後家蜘蛛の会』と映画『フィラデルフィア物語』と『M★A★S★Hマッシュ』のDVD。おまけが付いてくるのはいつものことだけど、コレはなんだ?

 ミステリの中でも本格ミステリといわれる分野、簡単にいうと、犯人当て推理小説は、第一次大戦後のイギリスとアメリカ、そして第二次大戦後の日本で大きく発展した。いわゆる探偵小説黄金時代だ。主な作家の本格ミステリ長編デビューは、イギリスでは1920年クロフツ、クリスティ、21年ミルン、22年フィルポッツ、23年セイヤーズ、25年ノックス、バークリー、アメリカは26年ヴァン・ダイン、29年クイーン、30年カー、日本は46年横溝正史、48年坂口安吾、高木彬光、50年鮎川哲也(作家としてそれ以前から活動している人も含む)。でもなぜ、この3か国だけなのか、は以前から不思議とされてきた。横溝正史は、戦争が生んだあだ花、と書いている。
 これについて境吉城の大戦死理論は、一つの答を出した。
 『二十世紀と本格ミステリ』は、クイーンの『シャム双子の謎』と『ギリシャ棺の謎』を論じた前半は凄く面白い。
 前半の冒頭、12ページで、
『人類がはじめて経験した大量殺戮戦争である第一次大戦と、その結果として生じた膨大な屍体の山が、ポオによるミステリ詩学の極端化をもたらしたのである。戦場の現代的な大量死の体験は、もはや過去のものかもしれない尊厳ある、固有の死を、フィクションとして復権させるように強いた。
 機関銃や毒ガスで大量殺戮され、血みどろの肉屑と化した塹壕の死者に比較して、本格ミステリの死者は、二重の光輪に飾られた選ばれた死者である。犯人による巧緻をきわめた犯行計画という第一の光輪、それを解明する探偵の、精緻きわまりない推理という第二の光輪。第一次大戦後の読者が本格ミステリを熱狂的に歓迎したのは、現代的な匿名の死の必然性に、それが虚構的にせよ渾身の力で抵抗していたからではないか。』(『模倣と逸脱』所収「大戦死と本格ミステリ」より)
 とある。
 また、15ページで、
『司法や警察制度の近代化が探偵小説の前提だとするヘイクラフトのような論者は、だからファシズム諸国やボリシェヴィズムに支配されたソ連には探偵小説が根づかないのだと主張した。見込み捜査と拷問が日常的な世界では、推理によって真相に迫る名探偵にはたしかに出る幕がない。しかしヘイクラフトの論では、近代的な警察制度を世界ではじめて確立したフランスに、大戦間探偵小説運動が不在だった理由をまったく説明できない。
 フランス、ドイツ、ロシアなど第一次大戦の戦場となった大陸諸国では、大戦後にモダニズム=アヴァンギャルド芸術運動が猛烈な勢いで巻き起こる。他方、直接の戦場となることを回避しえたイギリス、アメリカ、そして日本におけるモダニズム=アヴァンギャルド芸術運動は、大陸諸国の模倣以上の域を出るものではない。これら三国では、いわばモダニズム=アヴァンギャルド芸術運動の代替物として探偵小説運動が展開されたのである。大量死という経験の直接性と間接性の相違が、モダニズム小説と探偵小説をわけた。
 というようなわけで、フランスにおける大戦間探偵小説の不在を説明するには、「探偵小説=市民文学」論よりも「探偵小説=20世紀小説」論のほうが有効である。』
としている。
 中原さんは、これに異を唱えるのだろうか。

 『オリエント急行の殺人』は説明するまでもないだろう。映画やドラマ化も何度もされ、すべて観てる。アルファベットが国によって読み方が違うというトリックだけは、そうなの、と思うけど。
 『Yの悲劇』は日本で海外ミステリベスト1に何度も選ばれている。中でも凶器の謎が解けた瞬間、アアッ、そうか!と叫んだことを覚えている。
 『僧正殺人事件』は元祖童謡殺人。犯行動機も後のミステリに多大な影響を与えている。
 『D坂の殺人事件』は明智小五郎のデビュー作で、日本家屋の特徴を生かした密室トリックだ。
 『犬神家の一族』は何度も映像化されている。特にあの逆さ死体の衝撃と謎の解明はビックリした。
 アシモフ『黒後家蜘蛛の会』は面白いけど、正直、12話のほとんどがアメリカのことをよく知らないと推理で正解するのは難しい。
 『フィラデルフィア物語』は1940年のアメリカ映画。白人上流階級の男女の離れたりくっついたりを男女の記者コンビが追っかける。
 1970年の『M★A★S★Hマッシュ』は朝鮮戦争下の51年の陸軍野戦病院を舞台にしたブラックコメディ。白人黒人ユダヤ系イタリア系ポーランド系といろんなアメリカ人が混在している。
 1961年の『ウェストサイド物語』は、対立する移民間のラブストーリー。
 犯罪物やミステリ映画はよく観てるけど、こっち方面はあんまり知らない。
 さて、これらがどう関係するのか?

 そうだ、私からも問題を。
〈『モルグ街の殺人』は何を象徴しているのか〉
〈その犯行は150年後、誰によって再現されたか〉

 一週間後、店に入った正面奥の、事務室のテーブルを挟んだソファーに腰を掛けて、借りたものを返すと、中原さんは『二十世紀と本格ミステリ』に手を置いて、
「どうでした」
「前半は面白かったんですけど、後半の現代ミステリを論じたとこは正直難しくて……」
「ハハッ、私もそうです」
「良かった」
「大戦死理論については?」
「難しいけど、正しいような気がします。ただこれも、前半の、大戦後に英米日で本格ミステリが発展した理由はなるほどと思うけど、後半のモダニズム論は良く分かりません」
「うん、これも同じくです」
 思わず笑顔になった。
「理論について、ミステリ評論家の千川利治さんは次のような反論をしています。大戦死は被害者側からの視点なのにミステリにおける個人の死は加害者側からの視点だと。しかし前半は正しいと私も思います。ただ境さんの理論は大仰な言い方なんで、自分の言葉にします。
 二つの大戦では、大量殺戮兵器が開発され使われた。戦車、戦闘機、戦艦、潜水艦、機関銃、火炎放射機、毒ガス、細菌兵器、ミサイル、焼夷弾、そして原爆。だから映画やドラマでは、夫の戦友から受け取った認識標を胸に押し当て妻は慟哭した、とか、遺族に渡された白木の箱の中には小さな石ころ一つだった、なんていう場面がよくあるわけです。つまり〈いつ、どこで、誰が、誰に、どうやって、何のために、殺されたか〉が分からない死がたくさんあった。
 すると戦後はその反動で、どのように亡くなったかをきちんと知りたいという思いからミステリが求められた。特に平和な時代の推理ゲームとしての本格ミステリは、いつ=アリバイトリック、どこで=移動トリックや密室・館物、誰が=入れ替わりトリックや被害者探し、誰に=フーダニットや意外な犯人、どうやって=ハウダニットや凶器トリック、何のために=ホワイダニット、が発展複雑化した。もちろん、戦争中は落ち着いて長編なんか読んでられないし、物資が配給制で紙が不足していたこともあるでしょう。日本では戦時中は乱歩や小栗虫太郎、夢野久作が発禁にもなりましたしね」
「へえー」
 横溝や他の推理作家は捕物帖で口糊を凌いでたそうだ。
「このように大量死と個人の死を対比させる考え方は、よくあります。小説だと『虚無への供物』『罪と罰』、ブラウン神父シリーズの〈木を隠すなら森の中〉という発想もそうでしょう。映画だと『大いなる幻影』『第三の男』『殺人狂時代』『ソイレントグリーン』。ドラマでは政治家や医者が犯人だと「大義の前には」とか「たくさんの患者が待ってる」なんて台詞がよく出てきます。ここまでは良いんです」
 納得してうなずいた。それを見て中原さんは、
「しかし後半はどうでしょうか。まず、モダニズム=アヴァンギャルドは調べたところ、第一次大戦後のヨーロッパで起きた前衛芸術運動。すると、戦場になった大陸諸国では真の運動が起こりモダニズム小説が書かれたけど、戦場にならなかった英米日では運動は模倣なので代わりに探偵小説が展開した、というのがよく分からない。日本だって、東京大空襲、沖縄地上戦、広島長崎の原発投下などで約50万人の死者が出てる。
 それからモダニズム文学の代表的作家としてドイツのカフカ、マン、ヘッセ、フランスのプルースト、ジイド、が挙げられますが、ジョイス、ウルフ、コンラッド、ロレンス、エリオット、ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、フォークナー、はイギリスとアメリカです。正直、全員ちょっとづつしか読んでないので偉そうなことは言えないんですが。
 それにドイツフランスロシアでもホームズとクリスティの作品は小説とドラマで長年受け入れられてる。見込み捜査と拷問も第二次大戦後は減ったでしょう。そこから本格ミステリが書かれても良いはずです。また見込み捜査と拷問に近い取り調べは今でも英米日であるし、ドラマにもなってる。
 もっといえば、長編本格ミステリが第一次後の英米と第二次後の日本で発展したのは確かですが、中短編本格ミステリは見込み捜査と拷問の戦前からある。でもやっぱりほとんどイギリス、アメリカ、日本だけです。戦前の名探偵を思い出してください」
「えーと、デュパン、ホームズ、ブラウン神父、アンクルアブナー、隅の老人、思考機械」
「デュパンは準本格ミステリですし、ホームズは冒険探偵物ですが、『白銀号事件』は本格ミステリ第一号だと思います。すべて証拠がホームズの推理の前に読者に与えられてますから。後の四人も本格です」
「そうか。全部イギリスとアメリカだ。でも日本は」
「乱歩の初期の明智小五郎物や『二銭銅貨』『陰獣』は本格だし、1939年からの横溝正史の人形佐七は全部読んでるわけじゃないですが、ドラマになってるのは本格ミステリがかなりある。それに久生十蘭の『顎十郎捕物帖』と『平賀源内捕物帖』は本格です」
 どれも戦前戦中の作品だ。
「他の国で本格があるのはフランスで、調べたところ1907年のルルーの『黄色い部屋の秘密』、23年のルパン物の『八点鐘』、29年シムノンの『十三の秘密』、30年代にステーマンやボワローなどが数作、そこからずっと空いて80年代末からポール・アルテが書いてるだけです。他の国も散発的にありますが」
 つまり中原さんは、境説もヘイクラフト説もおかしい、と言ってるわけだ。
「結局、いつの時代も英米日だけ、ということですか」
「ええ。ただしアメリカは第二次大戦後に本格ミステリは衰退するんですけど」
「そうですね。なんでだろう」
「そこでコレです」
と中原さんが指したのが、今日返した『黒後家蜘蛛の会』と、テーブルの下から取り出したクリスティとクイーンとヴァン・ダインと乱歩と横溝の代表作だった。

「コレを初めて読んだとき、どうでしたか」
 中原さんが『オリエント急行の殺人』を指差した。
「小6だったかな。ビックリしました。ただ、あのアルファベットのトリックは分からないよなぁ、とは思いましたけど」
「ですよね。私なんか、んなもん、小6の日本人に分かるか!と、ちょっと腹が立ちました。もちろん、真相は驚きましたけど」
「ハハハッ」
「でもね、これが答なんです」
「エッ?どういうことですか」
「文化が違うと犯人当て推理ゲームはできない、ということです」
「ああ」
 そういうことか。
「もう少し詳しく言うと、トリックや謎や推理で、その文化特有のことが関わると、違う文化の人間には推理できない、ということです」
「うーん、確かに」
「将棋とチェスは似てても対戦できないんです、規則が違うから」
「そうですね」
「『Yの悲劇』の凶器の謎の真相を知ったとき、どうでした」
「アアッそうか!と」
「でもね、これ、ピッタリの日本語があったからビックリできたんでしょうけど、もしそれがなければ、日本で海外ミステリベスト1に選ばれたりはなかったんじゃないか、と」
「ふーん、そうかも」
「『D坂の殺人事件』のあのトリック、当時の欧米人が読んだら解けたでしょうか」
「石の家に住んでる人に、木と紙の家の事情は分からないでしょうね」
 乱歩は他の小説でも、あのトリックをよく使っている。
「そして『犬神家の一族』。あの逆さ死体の謎、外国人にはあの意味、説明がなければまったく理解できないでしょう」
「そうですね、日本語特有だから。『獄門島』でも、あの一番有名な台詞、外国人は説明されないと分からないですね」
「ええ。同様に、人名や地名の同音や類似、アナグラムや回文なんかを使ったトリックや謎もダメになるし、言葉のちょっとした違いを突くようなものもダメです。これは外国でもそうなります。たとえばクリスティの小説で、彼と彼女の違いや名前の愛称を使ったトリックは、日本人は説明されれば理解はできても気づくのは難しいでしょう」
 そういえば、日本の2時間ドラマで、眼の出来物の言い方の違いでトリックに気づくのがあった。
「それから『僧正殺人事件』の童謡殺人。あの恐怖と面白さの渾然一体は、子どもの頃から親しんでる欧米人ならひときわでしょう。逆に『かごめかごめ』や『とおりゃんせ』の唄にのせた殺人があったら、想像するだけで日本人にはたまらない」
 聞くだけでゴクリと唾を飲んだ。中原さんは続けて、
「他にも、鮎川哲也や西村京太郎の鉄道アリバイ物は、外国人には分からないと言われます」
「なぜですか」
「時刻表通りに列車が駅に到着するなんて日本だけだからです」
「ああ、そうらしいですね。すると、そんなアリバイトリックは思いつかないし、実行不可能だからか」
「それから、寿司、餅、かんぴょう、イカ、たい焼き、なんかを使ったトリックがありましたが、これも外国人には……」
「よっぽどの日本好きでないと無理ですね」
「トリックや謎に関係なくても、知らない言葉や馴染みのない名前や風俗風習が引っかかって話に集中できないということもあります。読者は、作者にだまされないぞ、見抜いてやろう、としてるので。これが社会派ミステリや普通の文学作品ならそんなに気にならないんですが」
 知り合いで、クリスティの小説に出てきたマントルピースという言葉の意味が分からなくて、それから海外本格ミステリが読めなくなった人がいる。
「『黒後家蜘蛛の会』、ほとんど推理で正解できなかったでしょう」
「ええ、面白かったですけど、あれは日本人には無理です」
「全6巻72編、ほぼ同じようなものです」
「そうなんですか」
 アメリカ文化を知るには役立つかも。
「イギリスのダガー賞を受賞した『ババヤガの夜』、本格ミステリではないけど言葉のトリックがありますよね」
「ええと、ああ、はい、あります」
「翻訳者が、苦労した、と受賞式で述べてます」
と、中原さんがスマートフォンで映像を観せてくれた。
「文化の違いが推理の邪魔になる、というのは分かります。でもそれが本格ミステリが英米日だけ、ということと、どう繋がるのか」
「大陸諸国の特徴はなんですか」
「多くの国と接している?」
「それが理由です」
 どういうこと?

「要は地続きということです」
「ああ、必然的に交流が生まれる、というか、最初からいろんな民族がいる。すると」
「結果的に多民族多言語多文化多宗教になる」
 そういうことか。
「風俗習慣歴史その他もろもろ、いろんな違いが混在し融合したり反発したり。そのような環境では本格ミステリは生まれにくいし、その国で書かれても他の民族や国では理解しにくい、ということですね」
「ええ。逆に言うと、トリックや謎は、その民族特有の文化と結びつけると作りやすい。なので異民族同士の夫婦だと、妻には分かっても夫には解けない、なんてこともありえます」
「夫婦げんかの元ですね」
 思わず笑ってしまう。
「だったら最初からクリスティを、となる。しかしイギリスと日本は島国なので、あらゆる面で均一性が強い。イギリスだとアングロサクソン民族で英語を話し、シェークスピアとマザーグースと王室に親しみ英国国教を信仰する、そうでなくても知識はある。そうじゃない人もいますけど」
「日本だと日本民族で日本語、時代劇に仏教ですか」
「他にもいろいろあるでしょう。もちろん、アイヌや琉球の人たちもいるし、弥生系と縄文系もあります。でも基礎教養や常識はさほど違わないはずです。そうすると犯人当て推理ゲームはやり易い」
 納得しかけたが、
「でもアメリカはどうなんです。大陸国家で多民族、人種のサラダボウルと言われるのに」
「そこで関係するのがこれです」
と指したのが映画『フィラデルフィア物語』のDVDだった。
「どうでした」
「面白かったです」
「出てくるのが白人ばかりだったでしょ」
「ええ」
「そこです」
 どこ?

「1930年代から40年代にかけてのハリウッドのコメディ映画を観ると、ワスプといわれるホワイト・アングロサクソン・プロテスタントが多くを占める中・上流社会があるのが分かります」
 そういえば確かに上流の男女の恋愛を中流の記者が追う話だ。
「ヴァン・ダインやクイーンの本格ミステリは、ほとんどがこの階級を舞台にしています」
 ダインは全12作中6作しか読んでないが全てそうだ。クイーンの国名シリーズ9作中、そうでないのは『エジプト十字架の謎』ぐらいだし、悲劇四部作も同様だ。
「ちなみに1940年の『フィラデルフィア物語』は56年にミュージカル映画になりますが、原題はハイ・ソサエティ、日本題はそのまんま『上流社会』です」
「へえー。他にはどんな映画がありますか」
「『或る夜の出来事』『教授と美女』『イースターパレード』なんか、今観ても面白いですよ」
 探してみよう。
 
「でも第二次大戦後にアメリカの本格ミステリは衰退しますよね。なぜなんですか」
「次に来るのがこれです」
 中原さんは『M★A★S★Hマッシュ』を取りあげた。

「中・上流階級があれば下層階級も当然あります。ニューヨークではアイルランド、イタリア、ユダヤ、黒人など、人種民族別に移民街があった。シカゴだとポーランドやドイツ、スウェーデンの人達が多いそうです。ここを舞台にしたギャングやマフィア、犯罪映画がたくさんあります」
 『ゴッドファーザー』『ワンスアポンアタイムインアメリカ』『ギャングオブニューヨーク』『コットンクラブ』、ミュージカルで『シカゴ』もあった。
「しかし第二次大戦後に人種のサラダボウル化が始まった」
「なぜですか」
「きっかけはたぶん軍隊が関係あると思います」
「軍隊?」
「一つ屋根の下、同じ釜の飯を食う、軍隊暮らしが促したんじゃないかと」
「あー、なるほど」
「それでも第二次大戦の時は、日系人と黒人とアメリカ先住民は人種差別的な扱いの民族部隊がありました。しかし朝鮮戦争下の1951年の設定の『M★A★S★Hマッシュ』では、みんな一緒だったでしょう」
「そうでした」
「そして50年代からの公民権運動でサラダボウル化が進むと移民間の交流と対立と恋が生まれる」
「あ、『ウエストサイド物語』!」
「すると、それを反映したミステリが盛んになる。事件を起こす側の犯罪物、巻き込まれる側のサスペンスとスリラー、解決する側のハードボイルドや私立探偵、警察警官物、裁判に関わる弁護士検事判事の法曹法廷物。社会派ミステリが主流となり、本格派はクイーンが孤塁を死守しつつ社会性や文学性を深めていく、という流れになった」
「はあー」
 うなずく。
「でも、本格ミステリ、英米で言うパズラーがアメリカから消えたわけではない。むしろ別の世界で盛んになった」
「エッ?」
「思いつきませんか」
 別の世界?

「『刑事コロンボ』、好きですよね」
「はい。全部観てます」
「『名探偵モンク』は?」
 うなずく。これも観てる。
「『名探偵ポワロ』」
 当然。『ミス・マープル』もだ。
「ドラマですか!」
 中原さんがニッコリした。
「最初はクイーンのラジオドラマが1939年から48年までクイーン自身の脚本で作られ脚本集が翻訳されてます。57年から66年の『弁護士ペリー・メイスン』はさすがに観てませんが、これも謎解きじゃないかな。そして脚本家コンビ、リチャード・レヴィンソン&ウィリアム・リンクが原案の『刑事コロンボ』が68年から78年まで続きます。75年にはこの2人の脚本のテレビドラマ『エラリー・クイーン』、84年からの『ジェシカおばさんの事件簿』も製作し96年まで。89年から2003年には『刑事コロンボ』の続編。この2人以外でも72年から74年まで『バナチェック登場』、2001年から11年まで『LAW&ORDER クリミナル・インテント』、02年から09年まで『名探偵モンク』、12年から19年まで『エレメンタリー ホームズ&ワトソンin NY』。私の知ってる連続ドラマだけでもこれだけあります」
「すごい。ずっと続いてる」
「他にも単発の2時間ドラマやイギリスの1989年からポワロやマープル、『警部モース』『刑事モース』『刑事フォイル』『バーナビー警部』『刑事ダルグリッシュ』」
 知らないのも含め山ほどある。ポワロやフォイルの脚本家のホロヴイッツは今や本格ミステリ作家だ。
「本格ミステリというか、犯人当て推理ゲームと、CMが入り起承転結がハッキリしているドラマは相性が良いことに、アメリカが気づいたんでしょうね。その流れは日本でも1972年からコロンボの放送が始まり、77年の金田一耕助シリーズから今まで続いてる」
 うーん。アレッ?最後になんか忘れてる。
「そうだ。大戦間にフランスの本格ミステリが不在の理由は?」
「その説自体、怪しい気がします。フランスでも大戦間の方がやっぱり多くて、その前後はほとんどないですから。もし正しいとしても、境さんの説みたいに難しい話じゃなくて、むしろその逆なんじゃないですか」
 逆?頭をひねっていると中原さんは、
「英米日のモダニズム=アヴァンギャルド芸術運動が、仏独ロの模倣かは、私には分かりません。しかし、フランスの本格ミステリが、英米の模倣なのは確かです。だとすると、大戦間に英米の本物がたくさん出たので、フランス産のニセモノがなくなった、ということだと思いますけど」
 鮮やかなドンデン返しだった。

※中原さんの説に異を唱えるつもりはない。
 『M★A★S★Hマッシュ』。時は1951年の朝鮮戦争と言いつつ、実はベトナム反戦喜劇として知られている。MASHは移動陸軍外科病院の英語の頭文字だが、元は混ぜ合わせる、混乱させる、だ。戦闘ですりつぶされる兵士たちの命を救うため、混乱する状況の中で立ち向かう、いろんな民族系アメリカ人で混成された医療従事者、の意味もあるだろう。内容も、とっちらかった挿話の羅列。まさにサラダボウルだ。
 それから、フランスのミステリの分野は、第二次大戦後のアメリカに似ている。犯罪とサスペンスとスリラーと警察物。私立探偵と法律家はアメリカ特有だからないのか。当てはまる好きな作品だと、『813』のルブラン、『殺人交差点』カサック、『わらの女』アルレー、『メグレ推理を楽しむ』シムノン。

 中原さんの説をもう少し発展させてみたい。
 17世紀の封建社会は地位や身分が固定的だが、18世紀の近代化で流動化が始まり、19世紀の近代市民社会(バルザックやドストエフスキー、オースティンやポーの波乱万丈な物語の時代だ)を経て、さらに20世紀の大衆社会では不安定化が進む。
 フランスドイツロシアでは、それまでの王侯貴族や富裕層のための芸術が、第一次大戦後に市民や大衆のアヴァンギャルドへと発展したのは、境さんの言う通りだが、それは絵画、音楽、建築、演劇、文学、映画、ポスター、と様々だ。
 それに対しイギリスアメリカでは、個人や社会の不安を描くモダニズム文学が中心だ。『ユリシーズ』の様々な言語実験、『ダロウェイ夫人』の意識の流れ、『老人と海』のハードボイルド(ハメットはむしろこちらなのかもしれない)、などいろんな手法が生まれた。
 この違いはやはり、多民族多言語の大陸国家と、少なくとも言語は単一性の強かった当時の英米の特徴が表れたのではないか。多様性を乗り越えるために視覚や聴覚に訴える国と、言葉が共通なので多様な文学形式と文体ができた国の。
 また、多民族社会の問題を克服するために、ドイツでは本質を探究する哲学が、フランスでは理念を追求する思想が発展した反面、ミステリのような娯楽文学は低いものと見られた。しかし経験主義のイギリスとアメリカはモダニズム文学の一環として、不安定さから起こる犯罪と、その不安の解消を描くミステリ、特に娯楽性を追及する推理ゲームとして、本格ミステリが発展した。
 その特殊性が、日本以外に真似しようのないものとして、世界に受け入れられた。
 そう考えるべきではないか。

 さて、近年フランスやアメリカ、中国や北欧その他の国でも本格、パズラーが書かれるようになっている。なぜか。
①科学捜査の進歩により、人種や民族の壁が低くなった
②長年の受容による、成熟からの発信
③グローバル化が進み、島国でも大陸国家のように多民族多文化的になり、本格ミステリを受け入れられるように、書き手も読み手も変化した
などが考えられる。
 アメリカの映像の中の名探偵の系譜を調べると、ファイロ・ヴァンスは上流階級出身だが、クイーンは父親がアイルランド系アメリカ人(当時の警官はアイルランド系が多いと聞く)、『鬼警部アイアンサイド』とペリー・メイスンを演じたレイモンド・バーはカナダ系、コロンボはイタリア系、バナチェックはポーランド系、ジェシカはアイルランド系、モンクはユダヤ系、ホームズ&ワトソンはイギリス人&アジア系。名探偵も多様化の歴史を歩んでいる。
 しかし本格ミステリがそもそも、単一的な文化でないと成立しないものではなく、むしろ多様性が始まりだったのだ。
 思い出してほしい。1841年、フランスのパリを舞台に、アメリカ人のポーが書いた、イギリスのゴシックホラーの様な謎と恐怖を、鋭い観察と推理によって解明する『モルグ街の殺人』。現場の建物にいあわせた、イタリア人、イギリス人、スペイン人、オランダ人、フランス人が、犯行の際に四階の部屋から聞こえた声は、ロシア語だ、ドイツ語だ、英語だ、フランス語だ、スペイン語だ、イタリア語だ、と証言することを。神に近づこうとする人間の傲慢が神の逆鱗に触れ、破壊され言語がバラバラになったバベルの塔を思わせる。その犯人が……というのは、極めて暗示的だ。この犯人と、意思疎通の不全から殺人や戦争を起こす人類の、どこに違いがあるのか。
 しかも犯人は、われわれ人類が持つ、相反する二面性を象徴している、暴走する力と逃走する力を。1人を惨殺し、もう1人の死体も暖炉の煙突に押し込め、密室から煙のように姿を消す。この分裂した二面性を統合し、犯行をそっくり再現した者がいる。1988年原作、1991年映画公開の、『羊たちの沈黙』におけるハンニバル・レクター博士だ。意図的か、無意識か、偶然かは、判らないが。
(ポーの翻訳者である八木敏雄は、彼の小説は推理小説だけでなく、さまざまな文学ジャンルの創始者だとして、『ジキル博士とハイド氏』『罪と罰』『異邦人』『白鯨』などを挙げている。個人的には、山田風太郎も、文学の道へ進むまでの人生が似ていることも含め、ポーの影響を受けている、と思う。
 AIで検索したが、中原さんの説も私の考えも、今のところ似たようなものはないようだ。こういう従来にない突飛な考えは、AIにはムリなようだ。まあ、単なる暴論かもしれないが。
 人智を超えた犯罪者の系譜、とでも言うものがある。この2作の他に、『2001年宇宙の旅』『世界爆破作戦』『神様ゲーム』など。これらはあくまで虚構だ。しかし現代において、ほぼ現実になってしまった。AI兵器だ)
 時代が、世界が、150年経ってようやく、ポーの想像力に追いついたのか。しかし、その生涯を振り返ると、その悲劇的想像力が、彼自身をも不幸へと引きずり込んだ気がしないでもない。その類い希なる知性を、もう少し己れの幸せへと振り向けていれば、と。ポー自身は、解くために作った謎を自分で解く話など巧妙なものではない、と語っている。だが私は、悲劇を理性によって解明し終止符を打つ、ポーが生み出した推理小説が、好きなのだ。

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