現実はSFを超える ~ストーカー(タルコフスキー監督、ストルガツキー兄弟原作)
「ストーカー」は、1972年にストルガツキー兄弟によりロシア語で発表されたSF小説。エイリアンが地球に遺していった不可解な危険地帯「ゾーン」に命がけで潜入し、異星文明の遺物を持ち出す不法侵入者たち(=ストーカー)を描いたSF小説の古典です。
〜AIによる要約〜
映画『ストーカー』(1979年・ソ連):は、アンドレイ・タルコフスキー監督によるSF映画の金字塔。望みを叶える「部屋」がある立ち入り禁止区域「ゾーン」を舞台に、案内人(ストーカー)と男たちの心理を描いた哲学的な名作です。
〜AIによる要約〜
私は小説よりも先に映画のほうを映画館で観ました。実を言うと、タルコフスキー監督の映画は、だいたい途中で睡魔に勝てず意識不明になることが恒例ですが、「ストーカー」はタルコフスキー監督の映画の中では、珍しく最後まで起きていた唯一の作品です。
何故なら、アクションが多いからじゃないかな、主人公が、嫌々ながらも行動する事で物語が進行していくから、画面に動きがあったからじゃないかなと思います。静止画じゃないか、と思えるようなシーンが多いですからね、タルコフスキーは、でも、それがタルコフスキーの本質なんでしょうから、静止画タルコフスキーに共感して没入できてないのは邪道なんでしょうが。
立入禁止区域「ゾーン」に入りたいという要望を受け、主人公が案内人として雇われます。案内する条件として、案内人の後を歩く事、絶対に案内人が歩いたところから外れてはイケナイ、外れたら命に関わると脅されます。監視の隙間を縫ってゾーンに入ったら、案内人は時々前方に石を投げて、危険がないことを確認しながら、少しづつ前進します。ゾーンの中は草木がのび放題、時々廃屋があり、雨水がしたたり落ちている荒れ放題の廃墟がある、動物としては唯一黒い犬が歩き回っているくらいで、鳥も鳴かない、物音もしない、思い出したように案内人が危ない!と叫び、指定された範囲から出ではいけないと同行人を叱責する、でも何も起きない、ゾーンの中では一見何も問題無いようにみえるが、なんだか分からないけど、目でも見えない、手でも触れない危険が確実に存在する、らしい。
これって、チェルノブイリや福島第一原子力発電所の事故後の立入禁止区域の事をいってるんじゃね、というのを、後世の人間は認識したのです。立入禁止のゾーンとは、目に見えない、手でも触れない、ただし確実に命に関わる危険とは、原発事故の放射線の事ではないのか、と。
ストルガツキー兄弟による原作がロシア語で発表されたのが1972年。
タルコフスキーの映画公開が1979年。
1986年にウクライナのチェルノブイリ原発事故により、原発から30km~100km圏内で住民が避難。現在も立入禁止区域が設定されている。
2011年に東日本大震災により福島第一原発事故により、原発から20km圏内に避難指示。現在も、避難指示解除準備区域・居住制限区域・帰還困難区域の3つの区域が設定されている。
チェルノブイリ事故では、現実がSFに追いついたと思いましたが、福島第一原子力発電所事故では現実がSFを追い抜いてしまったのだ、世界はこれから全く想像も付かない先の見えない状態になるのだ、これは本当に現実なねかと思いました。特に福島第一原子力発電所1号機と3号機が水素爆発をおこした時は、この世の終わりとともに、東日本一帯は人の住めない「ゾーン」が現実世界に出現するかもしれないと本気で思いました。
ストルガッキー兄弟の原作は、タルコフスキーの映画とは趣きが全く違って、地球に飛来した宇宙人とのファーストコンタクトもので、もっとコテコテのSFです。ゾーンに入って何を獲得するか目的がもっと具体的で下世話。タルコフスキーの映画は、原作を蒸留してエッセンスを抜き出した作家タルコフスキーの解釈です、映画と原作は違っていいんです、面白ければ。
じゃ、タルコフスキーの映画は、ゾーンに潜入して、何も事件は起こらず、無事に帰還して、それで終わり、これって、そもそも、原作はSFだよね、タルコフスキーは原作からSFテイストを完全に削ぎ落として、ただゾーンに行って帰ってきた映画が作りたかったのかなあ、と思っていた観客に、この映画は、がっつりSFなんである、というシーンをタルコフスキーはラストにぶち込んできます。今まで見てきたものの意味が、ラストで覆される、ゾーンが出現した理由は、いったい、
名作です。
