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現役鉄道員が考える鉄道旅_この線路の上を、かつて弾薬が走った——こどもの国線と、田奈弾薬庫の記憶

はじめに

「こどもの国線」という名前を聞いて、どんな路線を想像するだろうか。

おそらく多くの人は、子どもたちが遠足で乗る、のどかなローカル線を思い浮かべるだろう。実際その通りで、長津田からわずか2駅・3.4キロメートルの短い路線は、子どもたちの歓声を乗せて今日も多摩丘陵の緑の中を走っている。

でも—— 鉄道の歴史を辿る癖がついた者として、この路線の「前身」を知ったとき、しばらく言葉が出なかった。

この路線は元々、旧日本陸軍が弾薬を輸送するために敷設した軍用線だ。

「こどもの国」という名前の裏に、砲弾と火薬と学徒動員の歴史が静かに眠っている。その事実を知った上でこの線路に乗ると、車窓の緑が少し違う色に見えてくる。


1938年——多摩丘陵に、弾薬庫が作られた

現在「こどもの国」がある場所は、もともと13戸の農家が暮らす、多摩丘陵の谷戸だった。

1938年(昭和13年)、国家総動員法によって住民たちは強制的に退去させられ、弾薬庫の建設工事が始まった。雑木林に覆われた細い谷が入り組む地形は、爆発物を隠すのに「絶好の立地」だったのだ。

1940年(昭和15年)に「東京陸軍兵器補給廠・田奈分廠」が発足し、翌年には「田奈部隊」が駐屯を開始。施設の正式名称は「東京陸軍兵器補給廠田奈部隊・同填薬所(てんやくしょ)」——地雷、対戦車砲、手榴弾、高射砲、野戦重砲などの砲弾を製造し、33ヵ所の半洞窟式弾薬庫に保管し、全国に輸送する施設だ。最盛期には3,000人の軍属が働いていた。

そして1944年(昭和19年)から、学徒動員が始まる。

県立横浜第2中学(現・横浜翠嵐高校)の4年生28期生、15歳の男子250人。神奈川高等女学校(現・神奈川学園)の4年生、14〜15歳の女子200人。毎日朝8時から夕方まで、薬きょうに火薬を詰める作業をさせられた。1日火薬を扱うと、手の先から足の裏まで真っ黄色になり、数日間消えなかったという。甘い飲み物が支給されたが、それは体に浸透した硫黄などの成分に対する「解毒剤」だったと後に判明する。

1944年11月30日、通勤のトラックが雨で緩んだ路肩から川に転落し、中学生6人が水死した。葬儀で田奈部隊の上官は「この非常時に、このくらいの犠牲はやむをえない」と言ったという。

この言葉が、何十年も経った今も、こどもの国の公式サイトに記録されている。


1942年——弾薬を運ぶ「軍用線」が開通した

当初、弾薬の輸送はトラックに頼っていた。しかし輸送量の増大に伴い、1940年(昭和15年)から鉄道の敷設工事が始まり、1942年(昭和17年)10月に横浜線・長津田駅から弾薬庫までを結ぶ「軍用線」が開通した。

この軍用線の線形に注目せずにはいられない。長津田駅からかなりきつめのカーブを描いて北上し、現在の恩田駅付近で左右に分岐して田奈弾薬庫の二つの積込場へとそれぞれ延びていた。左手の線路が現在の「こどもの国線」として活用され、右手の線路は遺棄された——その分岐の跡が、長年にわたってガーダー橋の遺構として現地に残っていた。

長津田駅出発後すぐの急カーブ
長津田第一踏切近くにある陸軍の境界標石
恩田駅近くに残される弾薬庫方面の廃線跡

軍用線の終点には弾薬を積み込む貨物駅があった。現在の「こどもの国」の中央広場付近と、牧場口駐車場付近の2ヵ所だ。つまり現在、子どもたちが走り回っている広場の地下には、かつて砲弾を積み出すホームがあった。

地図にも記載されない、秘匿された軍事施設と、その命綱となる鉄道。整備士として、同じ「線路」という存在がこれほど正反対の文脈に置かれることがあるのかと、改めて考えさせられる。


1945年〜1961年——今度は米軍の弾薬庫になった

終戦後、田奈弾薬庫は今度はアメリカ軍に接収され、「米軍田奈弾薬庫」として再び砲弾の保管所として機能することになった。

皮肉なことに、この土地が戦中に空襲を受けなかったのは、アメリカが占領後にこの施設を利用する目的があったからだとも言われている。爆撃する必要がなかった——使えるから。

その後、東京急行電鉄の五島慶太氏が田奈弾薬庫跡地と旧軍用線の払下げを国に申請したが実現せず、1959年(昭和34年)の皇太子殿下(現・上皇陛下)のご成婚記念事業として、この跡地に児童施設を建設することが決定した。

日本政府の返還要求に対し、アメリカは当初「ノー、考慮の余地なし」と突っぱねたが、「皇太子殿下の結婚記念として計画している」と聞き「そういうことなら話は別だ」と急遽返還が決まったという。

1961年(昭和36年)5月、米軍から返還。しかし建設工事は困難を極めた。敷地内のあちこちに弾薬が遺棄されており、その処理だけで9ヵ月もかかったという。


1965年〜1967年——弾薬庫が「こどもの国」になり、軍用線が旅客線になった

1965年(昭和40年)5月5日、こどもの日——「こどもの国」が開園した。

弾薬を格納していた33ヵ所の半洞窟式弾薬庫のうち10基が現在も園内に残り、緑の鉄扉を持つその姿は今も内周道路沿いで見ることができる。現在は倉庫や変電所として使われている。知らなければただの「古い倉庫」に見えるかもしれないが、その扉の向こうには砲弾が積まれていた時代がある。

そして1967年(昭和42年)4月28日、弾薬を運んだ軍用線を活用した「東急こどもの国線」が開業した。

こどもの国線

旅客線への転換に際し、東急が支援する形で整備が行われた。開業当初は大井町駅からの直通臨時快速列車や、小学生の遠足用団体列車も運行された——かつて砲弾を運んだ線路の上を、今度は子どもたちが乗った列車が走り始めた。

その転換の幅を、鉄道員として想像する。同じ線路、同じ地面、同じ谷戸の風景。でも運ぶものが、砲弾から子どもたちに変わった。


現在のこどもの国線——整備士目線で見る路線

現在のこどもの国線は、横浜高速鉄道が施設を保有し、東急電鉄が運行する、全長3.4キロメートル・3駅の短い路線だ。

使用車両はY000系(横浜高速鉄道所有)で、1999年から営業運転を開始した現役車両だ。2両編成という小所帯ながら、整備士目線で見ると興味深い路線でもある。途中の恩田駅に隣接して東急長津田工場があり、東急各線の車両検査・修繕を担う重要な設備だ。この工場への回送列車がこどもの国線を走ることもあり、時に本線系統の車両がこの短い路線を通ることがある。

恩田駅
東急長津田工場

2000年(平成12年)の「通勤線化」以前は、こどもの国の開園時間帯のみ運行する来園者専用線の性格が強かった。通勤線化によって中間駅・恩田駅が新設され、沿線住民の通勤通学路線としての顔も持つようになった。

軍用線として始まり、来園者アクセス線として再出発し、そして通勤路線へと変貌した——この路線は、その短い距離の中に、ずいぶん長い時間を詰め込んでいる。


園内に残る「記憶」を歩く

こどもの国 正門

こどもの国の園内には、弾薬庫時代の遺構が点在している。

正面入口から入って右の「白百合の丘」と呼ばれる高台には、「平和を祈る」と刻まれた平和の碑がある。その裏には「戦争のない世界を願って」と題した建立の由来が書かれている。かつてここには女学生の休憩所があり、白百合が咲いていた。火薬作業に疲れた女学生たちのために、一人の兵士が白百合を摘んで1本ずつプレゼントしたという話が、今もこの丘の名前に残っている。

内周道路を歩くと、土手の斜面に緑色の鉄扉がある。半洞窟式の弾薬庫だ。幅7.6メートル、長さ26.9メートル、高さ最大5.4メートルのコンクリート構造物が、土に覆われたまま今もここにある。

中央広場近くの「ふれあいまなび館」には、当時の写真パネルが展示されている。弾薬工場があった場所に今は芝生が広がり、弾薬を積み出したホームがあった場所に今は子どもたちが走っている。

こどもの国では歴史ガイドブックを販売しており、これを片手に園内を歩くと弾薬庫の内部映像(限定公開)とともに、この場所の前身を辿ることができる。


おわりに——この線路の上で

長津田駅のこどもの国線乗り場は、田園都市線の改札外にある。短い2両編成の電車に乗り込んで、恩田を過ぎ、終点のこどもの国駅に着く。子どもたちの声が車窓に満ちている。

でも鉄道員として、この線路を見るとき、もうひとつの風景が重なる。

1942年の秋、砲弾を積んだ貨車がこの路盤の上を走っていた。その砲弾を積み込んだ工場では、14歳の女学生が手を黄色く染めながら作業をしていた。戦争の論理の中で、人の命と時間が弾薬に変換されていた。

「こどもの国」という名前は、その過去への問いかけでもあると私は思う。弾薬庫だった場所を「こどもの国」にする——その選択には、もう二度とここで砲弾を作らないという、作った人たちの意思があったはずだ。

今日もこの線路の上を、子どもたちを乗せた電車が走っている。その事実の重さを、この路線に乗るたびに感じてほしいと思う。

こどもの国駅

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