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教育の境界線|配慮と甘やかし③ 字を書くのが苦手な子に、タブレットを使わせてよいですか?

作文の時間になっても、鉛筆が進まない子がいる。

話をさせれば、自分の考えを豊かに説明できる。しかし、文字にしようとすると時間がかかり、途中で疲れてしまう。

そこで、その子だけタブレットで入力することを認める。

「楽な方法を選ばせている」「手書きから逃げさせている」と感じる人もいるかもしれない。だが、タブレットを使うことだけで、甘やかしかどうかは決まらない。

判断するためには、その学習で何を身につけさせたいのかを確認する必要がある。

目的が、自分の考えを整理して文章で伝えることなら、手書きはそのための一つの手段にすぎない。書字の負担によって考えることや表現することまで止まっているなら、タブレットで障壁を減らすことには意味がある。

自分で内容を考え、自分で言葉を選び、自分で修正する。その過程が残っているなら、入力方法を変えても学習の目的は失われない。これは配慮である。

一方、文章を考えることまで大人や生成AIに任せ、本人は完成した文を写すだけになる。あるいは、タブレットを使うからという理由で、必要な書字の練習をすべてなくしてしまう。

それでは、道具が障壁を補っているのではなく、学ぶ行為そのものを代行している。甘やかしに近づく。

もちろん、書字に著しい困難がある場合は、専門的な評価や継続的な支援が必要になる。反復練習を増やせば解決するとは限らない。本人の努力不足と決めつけてはならない。

だからこそ、「作文ではタブレットを使う」「漢字の時間には負担を調整しながら手書きも行う」というように、学習目的ごとに方法を分けて考える必要がある。

道具を使わせるかどうかではなく、道具を使ったあとも、子ども自身の思考と学びが残っているかを見なければならない。

支援を始めたあとには、文章量、内容の深まり、疲れ方、本人の使いやすさを確認する。タブレットによって表現できることが増えたのか、それとも別の困難が生まれたのか。道具を渡して終わりにせず、学習の結果から使い方を見直していくことも配慮の一部である。

この場合の配慮と甘やかしの境界線は、表現の障壁を道具で補うのか、考えることや必要な練習まで道具に任せるのかだ。

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