教育と学びを混同する教員は要らない
教育の主体は、教育を行う側にある。学びの主体は、学ぶ者にある。
学校は教育の場である。
その中で子どもは、教員から働きかけを受け、気づき、考え、学び、少しずつ主体的な姿をつくっていく。
教育と学びは深く結びついている。
しかし、同じものではない。
教員が授業をしたからといって、子どもが教員の意図どおりに学んだとは限らない。
分数の計算を教えた授業で、子どもが「間違えると笑われる」と学んでしまうこともある。
話し合いの方法を教えたつもりが、「先生の正解を早く言う方が得だ」と学ばせてしまうこともある。
反対に、子どもが何かに気づいたからといって、教員が教育の責任を果たしたとも限らない。
子ども同士に任せた結果、声の大きい子だけが決める方法を覚えたのであれば、それを「主体的な学び」と呼ぶことはできない。
教育する側には、目的を定め、必要な内容を教え、環境を整え、結果を確かめ、働きかけを修正する責任がある。
学ぶ側には、受け取ったものを自分の経験と結びつけ、自分なりに理解し、使っていく主体性がある。
同じ授業を受けても、子どもの現在地によって学ぶことは異なる。
すでに理解している子には新しい使い方を、つまずいている子には前提となる知識を用意する必要がある。
全員へ同じ説明をした事実は、教育の公平さを保障しない。
だから教員は、「教えた内容」と「子どもが実際に学んだこと」を分けて確かめなければならない。
説明後に問題が解けたかだけではなく、どのように考えたかを聞く。
活動後に楽しかったかだけではなく、誰が参加でき、誰が取り残されたかを見る。
意図しない学びが生まれたなら、教員側の設計を見直す。
子どもの主体性を大切にすることは、教員が教育を控えることではない。
必要なことは明確に教え、そのうえで、子どもが自分で考え、試し、修正できる範囲を広げることである。
子どもが教員の意図とは違う考えを持ったときも、すぐに誤りとして閉じない。
根拠を聞き、教えるべき事実と、本人へ委ねる判断を分ける。
教育は、教員の答えへ子どもを近づけることだけではない。
教えることと、学ばせることは違う。
教えないことと、主体性を尊重することも違う。
子どもの主体性という言葉で教育する責任を手放し、教えた事実だけで学びが成立したと思う教員は要らない。
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