弱い人の気持ちが分からない教員は要らない
「そのくらい、やればできる」
教員にとって簡単なことが、子どもにも簡単とは限らない。
人前で答えること、友達へ謝ること、教室へ入ること、助けを求めること。
外からは小さく見える一歩に、本人は大きな怖さを抱えていることがある。
ここでいう弱い人とは、能力の低い人ではない。
力を発揮できない状況にいる人、失敗による不利益が大きい人、声を上げても聞いてもらえない立場にいる人である。
誰でも、場所や関係が変われば弱い側に立つ。
教員は、教室では強い立場にいる。
時間を決め、評価し、発言を選び、ルールを運用できる。
その強さに慣れると、できない理由を怠けと決め、言えない沈黙を納得と受け取りやすい。
弱い人の気持ちを分かるとは、何でも許すことではない。
本人の要求をすべて通すことでも、必要な努力を求めないことでもない。
教員が「分かったつもり」になることにも注意したい。
似た経験があっても、本人の苦しさまで同じとは限らない。
「あなたの気持ちは分かる」と結論づける前に、「どこが一番つらいか」「何なら試せそうか」と本人の言葉を聞く。
まず、何に困っているかを聞く。
観察した事実と教員の解釈を分ける。
課題の難しさ、周囲の反応、過去の失敗、家庭や身体の状態を確かめる。
そのうえで、守るべき基準は明確にし、そこへ届く方法を一緒に考える。
発表が難しいなら、話さなくてよいと固定するのではなく、二人の前で話す、録音を使う、一文だけ読むなど、次の一歩をつくる。
謝ることが難しいなら、謝罪を免除するのではなく、事実と影響を整理し、本人ができる形で関係の修復に関わらせる。
理解とは、基準を下げることではない。
必要な支援を使いながら、自分の力で基準へ近づけるようにすることである。
一人の教員だけで見立てを固定せず、記録をもとに同僚と確かめることも必要だ。
場面によってできることが違うなら、本人の弱さではなく、環境との組み合わせに手がかりがある。
教員自身も、分からなかった経験、失敗を隠したかった経験、誰かの助けで立ち直った経験を忘れない方がよい。
自分が強かったから越えられたのではなく、支える人や環境があったのかもしれない。
強さは、弱い人を急かすために使うものではない。
弱い立場からでも立ち上がれる条件をつくるために使うものだ。
自分の立場の強さを基準に子どもの困難を小さく見積もり、理解も支援もせず努力だけを求める教員は要らない。
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