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グランジとシューゲイザーとJpopとアニメ、あと何か?──初めての羊文学

羊文学を知ったのは「ミュージック・マガジン」2025年11月号だった。5thアルバム『Don't Laugh It Off』(2025年10月8日リリース)を記念して2025年10月20日に発売された号で、表紙と巻頭特集を彼女たちが飾っていた。

正直に言うと、それまでの認識は「ああ、いかにもアニメと相性のいいJ-POPだな」というだけだった。アニメの主題歌をやるバンド、というくくり以上のものを持っていなかった、、恥ずかしながらとてつもない偏見。

それが大きく変わったのは、この間私が論じたMAJ。その論考とは別の次元で彼女たちのパフォーマンスは素晴らしかった。轟音のギター。なのに声は最後まで冷徹だ。この落差はなんだ、と思った瞬間、私はもう虜になっていた。

「なんだこれは? 遅れてきたニルヴァーナか?」

そんな言葉が頭を過ってからというもの、YouTubeでMVを見漁る日々が続いている。

そう私の中であと赤い公園以来の存在として、毎日YouTube見まくって聴き漁っている。

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決定的な違い:連帯を拒む、閉じた部屋

羊文学の音を聴いていていちばん引っかかるのは、孤独であり、疎外感であり、断絶の感触だ。

たとえばビリー・アイリッシュを思い浮かべてみる。彼女もまた十代の苦悩や痛みを歌ってきたひとりだ。けれどビリーの歌はどこかで個人の痛みをシェアし、「私たちは孤独のなかで繋がっている」という連帯へ向かっていく。ライブの大合唱、SNSでの共感の連鎖──あれはあれで美しい。

対して羊文学の塩塚モエカは、そこにはいかない。
「みんなで手を取り合おう」とは歌わない人だ。
荒野のなかにたった一人、あるいはせいぜい「君と僕」の二人だけで、誰にも見つからないように息を潜めている。誤解を恐れず言えば、彼女の歌は我々が共に歌うことを拒否し、突き放すような冷酷さがある。
いや、歌うことを強要しない"奥ゆかしさ"というのが正解かもしれない。
そこが素晴らしい。

話は逸れるが、私はポニキャにいた時分、タイアップは、露出が増え楽曲に権威がつく──そういうビジネス的な手法だった。ところが羊文学の並走を見ていると、それだけでは説明がつかない。彼女たちの曲は作品に寄り添うどころか、作品の世界観そのものを強くリードする。むしろ主導権は曲の側にあるほどだ。結果として、原作や映像だけでは像を結びきらなかった部分に、曲が輪郭を与えてしまう瞬間がある。タイアップというより、価値の逆流だ。

初期の名曲『砂漠の君へ』には、誰かを傷つけるくらいなら音楽の方を選んだ、という趣旨の一節がある。あれは他者との安易な繋がりを最初から諦めたひとの、冷めた視線だ。丸めていない。むしろ尖ったまま茶の間に届いてしまっている。

彼女の音楽はスタジアムで肩を組むためのアンセムじゃない。自分の部屋のベッドの上、ヘッドホンの密室のなかで、誰にも侵されたくない領域を守るためのシェルターだ。この徹底して閉じた関係性の描き方が、実に日本的で、そしてどうしようもなく私たちを救ってしまう。

そういう意味ではMAJのオープニング映像で主人公の少女に図書館で寄り添う彼女たちの姿は、逆説的に印象深かった、いい意味で。


あと、音楽性にも触れておこう。

実にナチュラルに90年代以降のグローバルな音楽シーンが溶け込んでいて違和感がない。洋楽のフォーマットにJpopの違和感とエッセンスが溶け込んでいる、という意味では藤井風やOfficial髭男dismにも近い。

ただスリーピースのロックというスタイルへのこだわりが圧倒的にオルタナティブであり、差別化に繋がっている。


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名曲と、そのルーツを辿る

1. More than words

ベースの淡々とした疾走感の裏に、スマッシング・パンプキンズ、特に『1979』あたりの洗練されたメランコリーが潜んでいる。かと思えば河西ゆかりとのハーモニーが産み出す言葉は、日本語の抑揚とグルーヴがせり出してくる。洋楽インディーロックのミニマリズムを、J-POPの文脈でここまで完全に消化した曲は、そう多くない。ちなみにタイトルはエクストリームの名曲だけどね。

2. 砂漠の君へ

ルーツから先に言ってしまうと、ニルヴァーナの空白とチャットモンチーの衝動。3ピースの骨格だけで少女のリアルな内面を切り取ってしまう佇まいは、まさにその系譜だ。歌詞は極めて私小説的で、羊文学というバンドの原点がいちばん剥き出しで置いてある一曲だと思う。

3. 光るとき

アニメ『平家物語』のエンディング。コクトー・ツインズやスロウダイヴが鳴らしていたドリームポップの浮遊感が、「諸行無常」という和のモチーフに見事にシンクロしている。スピッツのように普遍的で美しいJ-POPのメロディでありながら、その奥には宗教的とすら言える祈りの気配がある。

4. 声

2025年ドラマ『119エマージェンシーコール』の主題歌。従来の「轟音ギターの壁」というイメージを裏切って、まるでオアシスのようにギターのクリアなカッティングを主役に据えた挑戦作だ。音の層をあえて引き算することで、逆にグランジ的な内省と葛藤がむき出しになる。BUMP OF CHICKENが培ってきた「アコースティックな手触りのなかに宇宙的な祈りを込める」という日本のギターロックの系譜に、この曲は確かに連なっている。

5. Burning

アニメ『【推しの子】』第2期エンディング。もっとも大衆的な戦場で、いちばんカオティックなオルタナ精神を叩きつけてきた曲だ。イントロの不穏な歪みからサビで一気に視界が開ける展開は、ソニック・ユースのアート・ノイズ的な不穏さと、スマパンの退廃的なエッジを両方引き継いでいる。作中キャラクターの表に出せない苦悩を、ノイズという抽象的な風景画で描きながら、ちゃんと大衆に届けてしまうバランス感覚が凄い。

6. Dogs

Netflix『九条の大罪』主題歌。これまでの「優しく包み込む羊文学」を自分で壊しにいった、バンド史上もっとも獰猛な一曲。とにかくカッコいい。ライブではJ-POP的な分かりやすさを薄めて、グランジのrawなエネルギーとシューゲイザーの容赦ないノイズを前面に押し出している。だぜ?と言いたくなるくらい歯を剥いている。ニルヴァーナの苛立ちと拒絶のスピリッツ、そしてNUMBER GIRLの実験的で金属的なギターの壁。「救い」とは優しくされることだけじゃない、という痛烈なメッセージが、この歪んだ音の壁から聴こえてくる。

7. ロマンス

で、ここまでの曲と並べると異色に見えるかもしれない。イントロのシンプルなギターリフから始まる、スリーピースの肉体感を活かしたストレートなロックナンバーだ。
「女の子はいつだって無敵だよ」というフレーズが繰り返されるが、これは誰かを励ます歌というより、塩塚モエカ自身に向けた自己暗示のように聴こえる。そのポップな構えに油断していると、間奏でシューゲイズ的な轟音がなだれ込んでくる──ダイナソーJr.がポップなメロディの裏でジェイ・マスキスのギターを爆発させる、あの快感と同じだ。地に足のついた歌声は、きのこ帝国時代の佐藤千亜紀を思わせる。可愛らしいタイトルの裏に、狂気すれすれの強がりを仕込んでしまう、そのひねくれ方がたまらなく羊文学的だ。

8. Feel

『サイレント・ウィッチ 沈黙の魔女の隠しごと』のオープニングに提供した曲。PJハーヴェイコートニー・ラヴ的な90'sガールズロックのキッチュな質感、彼女たちが体現していた「可愛さと凶暴性が同時に成立する」あの危うさを下敷きにしながら、そこにアニメOPらしい疾走感と艶をたっぷり足している。歌のなかの主人公も何かを抱えたまま笑っている──その二枚舌の呼吸が、たまらなく羊文学的だ。

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なぜ「圧倒的に新しい」のか

いま日本の音楽シーンの真ん中にあるのは、洗練されたR&Bやシティポップ、緻密な打ち込み、SNS発のキャッチーなポップスだ。そのなかで、3ピースのミニマルな骨格を崩さず、ギターを歪ませたまま、生々しい感情のレイヤーを歌うバンドはかなり珍しい。

5thアルバム『Don't Laugh It Off』というタイトルがすべてを物語っている。日常の小さな違和感や、個人の孤独を、世間は「繊細な感性」として片付けたり、SNSで消費しようとする。それに対して羊文学は、90年代のニルヴァーナが大人たちに中指を立てたのと同じやり方で、「これは私にとって死活問題なんだ」と、あのディストーションギターの壁で殴り返している。

彼女たちは90年代の海外オルタナを懐古的に再現しているわけじゃない。SUPERCAR、チャットモンチー、宇多田ヒカル、BUMP OF CHICKENといった邦楽の先人たちが証明してきた「異端性と、お茶の間に届くメロディと、日本的な情緒は両立できる」という魔法を、2020年代後半のいまさらに純化させて鳴らしている。

アニメソングという巨大な拡声器を使いながら、塩塚モエカが世界に突きつけているのは連帯ではない。「私はここに一人で立っている。あなたはどうする?」という、たったひとりの断絶だ。

あの日MAJで浴びた轟音の裏にあったものの正体が、ようやく少し分かった気がする。

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