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報道特集を偏向と呼ぶ偏向を黙らせる──高市早苗はなぜ「害悪」なのか?

憲法記念日の前夜の「報道特集」

5月2日、憲法記念日の前夜、TBS『報道特集』が一本の特集を投下した。

高市早苗が2004年、落選中に雑誌『Defense(ディフェンス)』に寄稿した「憲法改正のススメ」。そこには彼女の憲法観の原点が、飾り気なく記されていた。

「日本国民は、国防の義務を負う。有事の際、私権の一部制限に協力する」

これは映画か?はたまたNetflixの新作のキャラクターの言葉か?
いや、こんな幼稚なキャラクターではストーリーにはできない。
私は長い沈黙の後、そんな感慨に耽った。

これは単なる「改憲論」ではない。権利の主体としての「国民」を、義務の担い手として再定義する思想の宣言なのだ。
22年前に書かれ、今や総理大臣の椅子に座る人物が、いまだにこれを撤回していない。まさかの冗談ではなさそうだ。

番組が大反響を呼んだのは当然だ。
その後に続いた「偏向報道」という叫び声も、ある意味で予定調和だった。


「偏向」と叫ぶ者こそ、偏向の権化である

ネットを見れば、案の定だ。
「左翼TBS」「反日偏向報道」「高市叩きのための捏造」
馴染みのキーワードが怒涛のように押し寄せる。

だが、おまえらよく考えてみろ。

「偏向」とは何だ?

ジャーナリズムを学んだ者として言わせてもらう。
偏向とは、事実を歪め、文脈を切り取り、都合のいい情報だけを提示することだ。

TBSがやったことは、何だったか?
総理大臣自身が書いた論文を、その本人の言葉のまま紹介した。憲法学者・木村草太教授に学術的分析を求めた。
賛成派・慎重派双方の政治家に同じ時間を割いて発言の場を与えている。

これのどこが偏向なのか。

一次資料を示すことが「偏向」なら、彼らが望む「公平」とは何か?

答えは簡単だ。
都合の悪い事実を報じないことだ。
権力者の過去の発言を検証しないことだ。批判を封じ、疑問を持つな、と命じることだ。それこそが「偏向だ」。
偏向を叫ぶ者たちこそ、最も激しく偏向している。

ジャーナリズムの本質は「公正」であり、「権力への迎合」ではない。
私がかつて大学でデイヴィッド・ハルバースタムを読み込みながら学んだのはそのことだ。権力者に都合の悪い事実を報じることこそが、民主主義社会における報道の使命である。


近代憲法の本質を知らぬ者が憲法を語る危うさ

高市論文の最大の問題は、そもそも「憲法とは何か」という根本的な問いへの答えが、近代立憲主義の常識と正反対だという点にある。

憲法学者・木村草太氏が番組内で丁寧に解説していた。
憲法の本質とは何か。それは「国家権力を縛り、国民の権利・自由を守る」ことだ。国家というものは放っておけば肥大化し、個人の自由を侵食する。だからこそ人類は数百年かけて、権力を「法」で縛る仕組みを作り上げてきた。これが近代立憲主義の出発点であり、日本国憲法もその系譜に連なる。

ところが高市論文が目指すのは、その逆だ。

「国民は国防の義務を負う」「有事には私権の一部制限に協力する」。

これは国家が国民を縛る構造である。権力が国民に義務を課し、有事を口実に自由を制限することを、あらかじめ憲法に書き込んでおこうという発想だ。

国家が国民を守るのではなく、国民が国家に仕える。

これは近代憲法の論理とは真逆の、前近代的な「臣民」概念への回帰である。「GHQに押し付けられた憲法を日本独自のものに」という言葉は一見もっともらしく聞こえる。だが実際に「独自」の方向に向かっているのは、近代憲法の原理からさらに遠い場所だ。小学6年生が社会科の授業で学ぶ「国民主権・基本的人権・平和主義」という三原則から、著しく乖離している。


古賀誠という「生き証人」の重さ

番組で私が最も胸に刻んだのは、自民党元幹事長・古賀誠氏(85歳)の言葉だった。

「ドンパチで負けないのが強い国なのか」

「人生そのものが9条。残された力で、語り部として9条を守ろうということだけは言い続けたい。これで私の人生を終えたい」

古賀氏は自民党の重鎮だ。
護憲派の論客ではない。保守の本流を歩んできた政治家が、戦争体験を背骨に、「憲法9条は守るべき」と語る。これは単なるイデオロギーではない。生身の歴史の証言だ。

戦争は「ドンパチ」などという言葉で語れるものではない。人が死に、家族が引き裂かれ、文明が破壊される。古賀氏の「これで人生を終えたい」という言葉には、そうした体験の堆積が滲んでいた。

この声を「偏向」と切り捨てる者たちは、いったい何のために憲法改正を求めているのか。「強い日本」を夢見ているのか。ならば問いたい。「強さ」とは何か。軍備の充実が国民の幸福に直結すると信じる根拠は何か。


「公益」という美名の下に隠れるもの

番組を受けてSNS上に飛び交った言葉の中で、一つだけ本質を突いたものがあった。高市論文の「公共の利益や公の秩序を重視する」「自由や権利には責任と義務が伴う」という文言を受けて、こう要約した声だ。

「つまり『"公益"の前では、君の権利なんてゴミ同然』ってこと」

煽り表現だが、誤りではない。問題は「公益」「公の秩序」を誰が定義するか、だ。

有事の際に「公益」を判断するのは誰か。
内閣だ。首相だ。
つまり高市論文の論理では、有事に際して内閣が「これは公益のため」と判断すれば、国民の権利を制限できる。それを憲法に明記しようというのだ。

辻元清美氏が番組内で指摘した歴史的教訓を思い出してほしい。

戦前、大日本帝国政府は「国家非常事態」を口実に治安維持法を拡大解釈し、言論を弾圧した。議会を無視し、緊急勅令で国民の自由を次々と剥奪した。「有事だから仕方ない」という論理が、どこに行き着くかを、私たちの先人は血で学んだ。

現行憲法はその教訓から、緊急事態条項を置かなかった。
衆議院解散時にも参議院の緊急集会で国会機能を維持する仕組みを設けた。権力の集中を徹底的に警戒したのだ。

高市政権が今まさに推進しようとする緊急事態条項の新設は、この70年の「学習の成果」を抹消しようとする試みにほかならない。

忘れてはならないのは、高市氏が2012年の自民党改憲草案にも深く関与しているという事実だ。
あの草案には「公益及び公の秩序に反しない限り」という条件が基本的人権の条文に書き込まれていた。現行憲法の「公共の福祉」は長年の判例で運用範囲が絞られてきたが、「公の秩序」ははるかに広く、政権の恣意的解釈を招きやすい。
2004年の論文が、2012年の草案として結実し、2026年の今また条項として息を吹き返そうとしている。点と点が一本の線になる瞬間を、私たちは今、目撃しているのだ。


「害悪」と呼ぶ理由──思想の一貫性という罠

政治家の資質は能力だけで測れない。
その思想が、民主主義社会においてどういう方向に作用するかが問われる。

木村草太教授は語った。
「一度提案したことは今も考えている可能性が高い」と。
高市氏は論文を総理就任後にサイトから削除した。
「更新できなかったから」という説明は説得力を欠く。
削除とは意志の行為だ。
総理官邸のシステムが、個人サイトのコラム欄の更新を物理的に妨げることなど、あり得るない。その判断の理由を、彼女は今も語っていない。

民主主義のコストとは何か。
権力の座に就いた者が、自分の思想に公の場で責任を持つことだ。
22年前に書いた文章を問われて「差し控える」と答える指導者を、国民はどう信頼すればいいのか。
改憲を推進したいなら、自身の憲法観を堂々と開示することが先決だ。それを避けるのは、議論への招待ではなく、思想の密輸だ。

民主主義において、指導者の思想は公共財だ。
国民は、自分たちを率いる人物がどのような国家観・憲法観を持つかを知る権利がある。それを「プライバシー」や「過去の話」として封じるならば、民主的な選択の基盤そのものが崩れる。

「害悪」は言い過ぎかもしれない。
しかし私はあえて使う。近代立憲主義を骨抜きにし、権力が国民を縛る構造を憲法に書き込もうとする試みは、日本の民主主義にとって害悪だ。

それを「強い日本」というキャッチフレーズで包み、批判を「左翼の偏向」と切り捨てる手法は、まさにポピュリズムの典型的な構造だ。


ジャーナリズムの誇りと、ポピュリズムの海

ポピュリズムの海に漂わないこと。
それがジャーナリズムを学んだ者の誇りだと、私は信じている。

「報道特集は偏向だ」と叫ぶ人々は、おそらく番組を最後まで見ていない。あるいは見ていても、一次資料を「左翼の罠」と決めつけ、思考を停止している。それは批判ではなく、反射だ。知性ではなく、感情だ。

TBSがやったことは単純明快だ。総理大臣自身の言葉で、総理大臣の憲法観を問うた。それに答える責任は、高市早苗にある。「差し控える」という回答は、民主主義社会では通用しない。

憲法記念日の今日、私たちは問われている。この国が目指すのは、権力が国民を縛る国か、憲法が権力を縛る国か。

答えは、すでに70年以上前に出ている。それを忘れさせようとする力に、私たちは静かに、しかし断固として抵抗しなければならない。

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