「草いきれ」静かな怒りの匂い
「草いきれ」という言葉に、私はなぜか心を奪われる。
そう言うと、不思議そうな顔をされるかもしれない。
爽やかな夏を思わせる言葉ではない。
心地よい意味で語られることは、まずないだろう。
この言葉を目にするだけで、あの酷暑の空気がよみがえり、体が思わず身構える。
炎天下の草むらから立ち上る、むせ返るような熱気。
湿気を含んだ重い空気。
鼻を突く青草と土の匂い。
あの息苦しさの中に、私は自分の心を見る。
私の怒りも、「草いきれ」に似ている。
激しく燃え上がる怒りではない。
誰にも届かず、誰にも受け止められず、それでも胸の奥で熱を抱え続ける、静かな怒りだ。
その中に立つと、私は草たちが必死に生きようとする気配を感じる。
同時に、枯れて土へ帰っていく命の気配も漂う。
その匂いは、生への執着であり、死への抗いであるようにも思えてならない。
植物がこうした匂いを放つのは、生き延びるための戦略だという。
私のやり場のない怒りもまた、自分を守り、明日へ繋ぐための防衛本能だったのではないか。
そう考えると、あのむせ返る匂いが「怒り」そのものに思えてくるのだ。
そんな「草いきれ」を、俳人たちは見事に詠んでいる。
**草いきれ 人死にゐると 札の立つ**
――与謝蕪村
**怒りとは こんな日暮れの 草いきれ**
――岸本マチ子
蕪村の句を読むたび、草いきれの向こうに「死」が立ち上がる。
死の隣り合わせにあるからこそ際立つ生の熱量がある。
岸本さんの句を読んだとき、「ああ、こういう気持ちだ」と腑に落ちた。
それは、誰かを攻撃するものではない。
ただ、自分という存在が消えてしまわないよう、内側から必死に熱を発し続けている。
外からは見えないその熱気が、私の内側で「草いきれ」のように渦巻いている。
だからこそ、この匂いは私に「怒り」を思わせる。
二つの句を読むたびに、「草いきれ」は単なる夏の季語ではないと思う。
草たちが生きようとする力と、抗いようのない現実。
その相反するものが入り混じった匂いだからこそ、
私はこの言葉に惹かれ、足を止める。
誰にも届かなかった私の怒りが、そこには匂いとなって立ちのぼっている気がするからだ。
草いきれは私に問いかける。
「お前もまだ、生きようとしているのか」
その匂いの中で、黙ってうなずく。
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