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二種の「悔恨」について─マイスター・エックハルト



人生に後悔はつきものである。そしてその後悔は時に私たちを苦しめる。

ドイツの神学者、マイスター・エックハルトは『悔恨』には二種類あると言っている。一つは時間的・感性的悔恨、他は神的・超自然的悔恨である──

時間的悔恨はつねにますます増大する苦痛の中へ陥り沈んでいく、そして人間をば今にも絶望せざるを得ないような惨めさに陥れるのである。この場合においては悔恨は苦痛の中に止まったきり動かない、そこから何も生まれない。
これに反し神的悔恨は非常に異なっている。人間の心中に不満の感情が浮き上がってくるや否や、彼はただちに上に向かって己を引き上げ、あらゆる罪から永遠に逃れさって不退転の意志の中に身を置くのである。

マイスター・エックハルト「神の慰めの書」より


ちなみに『悔恨(かいこん)』はとは、過去の行動や決断に対して深い後悔と心の痛みを感じる状態を指しており(Weblio辞典より)、自分の選択が自分や他人に望ましくない結果をもたらしたり、他人に対して非適切な行為をした時に生じることが多い。つまり、「悔恨」は後悔よりもその痛みが深く、自分の行いを責め長く苦しんでいる状態である。
この状態を英語では remorse、エックハルトの生きた当時のドイツ語では riuwe(リューヴェ)と言う。
言い換えるなら、過去の自分の罪悪感に苦しんでいる状態とも言えるだろう。私自身もかつて、自分の弱さがもたらした失敗にずいぶんと長く憤りを残していたことがあった。他にも、自分が誰かにした行動を恥じて悔やんでいたことなどを思い出す。
エックハルトはこれを「時間的悔恨」と呼んでいる。


しかし、そのような苦しみに神が介入するならば、それは「神的悔恨」となる。つまり、その苦しみの念を神に一切委ねることで、魂は一切の惨めさや苦悩から解放され、私たちは神への信頼を一層高めることになる。さらに重要なのは、結果、そこから精神的な喜びの泉が湧き出るようになるということである。
つまり、『悔恨』は『悔い改め/回心』となって昇華され、さらには喜びとして還元されると、エックハルトは説いている。


私たちが、自分の弱さを痛感すればするほど、またはその罪過が大きければ大きいほど、神への許しと愛に結びつける因縁は増す。
神においても、私たちが自分の罪に思い悩めば悩むほど、その罪を許し、魂に近づきそれを追い払わんとしている、とエックハルトは言う。

神に祈る者が罪に思い悩むなら、罪を嫌う神が私たちの罪やその苦悩をそのままにしておくはずがない。神は迅速にそして無制限に許し、嫌なものを払い除けようとされるのだと。

神的な悔恨が頭をもたげて神を仰ぎ見るや否や、一切の罪という罪は私が私の目を閉じ得るよりももっと早く、神の深淵の中に姿を消してしまい、悔恨が完全でさえあれば何らの罪もかつて起こらなかったかのごとく全然無に帰し終えるのである。

同書より


私たちの回りには、日々様々な不慮の事故が起きている。その結果には、多くの人の感情が取り巻いていることだろう。しかし、どんなに自分の罪悪感に苦しもうとも、実際に起きた出来事の全容というものは、結局、神という存在だけが知るところなのである。

このエックハルトの言葉を読み、地球上にうごめいている大なり小なりの『悔恨』が、神のもとに引き上げられ、人々をその苦悩から解放して下さるよう心から祈っている。








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