『自伝的革命論 〈68年〉とマルクス主義の臨界』を読む

はじめに
まずもって、日本の新左翼(反-日本共産党系)学生運動の構造について振り返りたい。なぜならば、筆者が 〈68年〉について語る多くの著作物に接するとき、小阪修平の以下の一文が頭をよぎらないことがないからである。
ある媒質を通過する光が入射角の違いによって異なる出方をするように、60年代末の季節という環境にたいしてどのように入っていったかということによって、経験の質も出射角も異なってくる。〔略〕何年に大学に入り、入った時の大学がどういう闘争の状況だったかで、経験のありようがまったく変わっている。(『思想としての全共闘世代』小阪修平〔著〕ちくま新書P32)
加えて、だれが書いたものか記憶にないが、《大学新入生がどの党派に属するかは、どの大学のどの学部に入学したかでほぼ決まる》という言説も忘れることがない。この一文が意味するところは、新入生が学生運動に関心を示したうえ、どこの党派に属することになったかといえば、その新入生が入学した大学の学部自治会を支配していた党派次第だということである。もちろん例外はある。高校時代から政治活動を始めていた者は高校時代に属していた党派を主体的に選択しただろう。あるいは、それぞれの党派の主張を吟味したうえで、選択した者もいただろう。もしかしたら、ヘルメットの色とデザインを党派選択の基準とした者がいたかもしれない。しかし、それらは少数で、多数の新入生は学部自治会を掌握していた党派の勧誘を受けて、その党派に入ったと筆者は確信している。
第一章 学部における党派支配の構造化
〈68年〉、全共闘運動が社会の注目を集め、新左翼系学生運動と全共闘運動は同義のように語られてきたが、1969年をさかいに、両者の関係に変化が生じてくる。前者が上位に、後者がその下位に位置するようになる。
学部別党派支配の実態
1969年4月(新年度)、首都圏にある某大学文系教養学部の場合、経済学部=中核派、商学部=社青同解放派、文学部=ブント戦旗派、法学部法律学科=フロント、同政治学科=ブント旧マル戦派。のちに前衛、と色分けされていた。この大学には革マル派と民青がみあたらないが、国公立大学では民青が学部自治会を支配する比率が高かったといわれている〔註1〕。民青は、後述する東大闘争において、労働者を主体としたゲバルト部隊を派遣し、新左翼系全共闘に敵対した。東大は民青(日本共産党)にとって重要な拠点校だったからである。
新旧左翼を問わず党派が学部自治会の支配を目指す理由の一つは、そこに割り当てられた予算を取得し活動資金とするためである。日本の大学にはほぼキャンパスごとに学生自治会がある。全学→学部の縦割り組織で、学部ごとの選挙で学部自治会委員長が選出され、その上に全学学生自治会委員長が選ばれる。自治会費は全学生から授業料とともに徴収され、全学共通の予算(学園祭等)と学部別の予算に振り分けられる。党派は学部自治会執行部を掌握し、自治会予算の獲得に注力した。自治会の役割は、学内行事の運営、大学機構との交渉等である。また、学部ごとに自治会室があてがわれ、党派の学内拠点として、会議、勉強会等の場として利用された。
党派が自治会執行部を掌握すれば、その予算は自分たちの活動費として、たとえば、アジビラ印刷費、立て看板材料費、ヘルメット及びスプレー購入費、旅費などとして活用可能となる。なお不足分は、党費、街頭カンパ、活動家のカンパ等で賄われた。党派は学部自治会執行部を独占するため、党派間の暴力的対立を厭わなかった。
各大学自治会の全国組織が全国学生自治会連合会で「全学連」と呼ばれる。1960年安保闘争(以下〈60年〉と表記)においては、新左翼のブント(共産主義者同盟)が全学連主流派を形成し、民青は反主流派だった。1967年から開始された街頭ゲバ棒闘争における主役は、三派全学連(中核派、社青同解放派、ブント)と呼ばれたが、正式名称ではなく俗称である。また、革マル派は、革マル派=全学連を自称し、ヘルメットにZ(Zengakuren)マークを付していた。
学部ごとに党派が棲み分ける構造ができあがったもう一つの要因は、日本の左翼における伝統的組織づくりにある。それは日共によって培われたもので、学部→語学クラス(第一外国語および第二外国語の学習教室)単位に専従のオルグ(組織者の意。上級生、留年・除籍された者等)がその任を担った。オルグは勉強会、読書会、弱者救済活動等への参加を新入生に呼びかけ、それを足掛かりとして組織内に取り込み、シンパから活動家、そして誓約をともなう同盟員へと育て上げてきた。〈68年〉では、その伝統的構造が日共から新左翼党派へと拡散したばかりか、各派分立により多様化し、前出のとおり、学部別党派の色分けが構造化した。
かくして党派に取り込まれた新入生は、以降、敵対する党派間の内ゲバで殺人者となったり、その反対に殺害されたりという悲劇が繰り返された。このような日本の新左翼学生運動史における不条理な構造を忘れてはならない。
〔註1〕新左翼各党派は、党名、学生組織名、大衆組織名を変更することがしばしばであった。以下の名称は〈68年〉当時、一般に呼ばれた俗称と正式組織名について記したものだが、それらの多くは、1968年以降、改名、改称されている。
・民青;民主青年同盟/日本共産党の青年組織
・革マル派;日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革共同革マル派)。学生組織=マルクス主義学生同盟革命的マルクス主義派(マル学同革マル派)
・中核派;日本革命的共産主義者同盟(革共同)全国委員会(中核派)。学生組織=マルクス主義学生同盟(マル学同中核派)
・社青同解放派;日本社会主義青年同盟解放派
・ブント戦旗派;共産主義者同盟(ブント/共産同)戦旗派。学生組織=社会主義学生同盟(社学同)戦旗派。なおブントは分散型組織で、戦旗派のほかに、中央大学を拠点とした叛旗派、明治大学を拠点とした情況派、関西ブントなどがあり、その後、さらに分立していった。
・フロント;統一社会主義同盟(統社同)の学生組織=社会主義学生戦線の別称。統社同はのちに日本共産主義革命党(共革党)に改名。
・ブント旧マル戦派(のちに前衛等);共産主義者同盟マルクス主義戦線派(共産同マル戦派)。68年にブントから追放され、その後、前衛派、怒涛派等を結成。前衛派は青年組織である青年共産同盟(青共同)および大衆組織の安保粉砕共闘会議(安保共闘)を結成。
党派を超えた全共闘の出現
新左翼も日共の組織づくりを継承したのだが、〈68年〉になると全共闘運動という党派に属さない活動家集団(ノンセクト・ラディカル)が学生運動、とりわけ学内闘争を牽引するようになった。全共闘は党派を超えて、学部別に闘争委員会という大衆組織を作り上げた。全学共闘会議(全共闘)を支える下部組織が学部闘争委員会で、文学部ならば、略して「文闘委」と名乗った。組織体系としては、トップに全学共闘会議議長(委員長)、その下に各学部闘争委員長、そしてその下に各学部(別)闘争委員という構成になる。このように、全共闘という組織は外形的にはノンセクト主導にもみえるが、全共闘運動黎明期から、党派が介入していたことも事実であり、両者は混然一体となって〈68年〉の叛乱的状況をつくりあげていた。
特筆すべきは、全共闘が学部自治会を掌握するという組織論に関心を示さなかったことである。その一方で、党派は学生自治会組織の掌握に執着した。〈68年〉における学生運動の状況は、党派=自治会、全共闘=学部闘争員会という二重構造を呈していた。党派は自治会予算を獲得するため、無党派をよそおい、自治会ポストを獲得することもあった。全共闘運動は一過性の叛乱的性格が強く、情緒的な側面が否定できない。このことについては後述する。
全共闘運動の衰退
〈68年〉における全共闘運動黎明期、党派に拒否反応を示すノンセクトが存在感を示し、党派と距離をおいて学内闘争に特化した運動を展開し、社会的に認知されることとなったことは前出のとおりである。その顕著な事例が東大闘争で、無党派の院生が全共闘(全闘連/全学闘争連合)を立ち上げ、学内闘争を牽引した。東大全共闘議長は山本義隆というノンセクト派の大学院生が務めたし、日大全共闘議長の秋田明大もノンセクト派だったことはよく知られている。
ところが1969年春以降、全共闘運動は学内闘争から同年秋に控えた反安保闘争=対権力闘争=政治闘争へと変容しはじめる。党派が大学支配を強め、全共闘に参加している学生を自派に取り込むことに力を注ぐようになる。そのため、前出の某大学教養学部の事例のように、各大学の学部別党派支配が構造化した。同年6月、新左翼8派主導=8派共闘〔註2〕による全国全共闘会議結成大会を契機に、それぞれの全共闘は党派の大衆動員装置と化すとともに、ノンセクトは党派に吸収され、全共闘運動は溶解した。
〔註2〕8派共闘を構成した党派とは、①マル学同中核派(革共同全国委員会)、②社学同(ブント戦旗派ほか)、③社青同解放派、④学生解放戦線(ML/マルクス・レーニン)同盟、⑤第四インター、⑥フロント(統社同)。⑦プロレタリア学生同盟(プロ学同)/(共産主義労働者党)、⑧共産主義学生同盟/共学同(社会主義労働者同盟)。⑥⑦⑧は旧構改3派と呼ばれた。
第二章 孤独な革命家、黒木龍思の誕生
笠井潔は孤独な革命家である。少年期、社会に違和を感じはじめた彼は、中学卒業後にドロップアウトを決意し、高校を中退し大学進学を放棄した。
〈60年〉の残像
笠井がドロップアウトを決意したその源は、〈60年〉のあたかも祝祭のような革命運動の記憶だった〔註3〕。労働者、主婦、学生、演劇人・俳優等の芸能人、教師、大学教授・・・等で構成された大群衆がそれぞれの旗やプラカードをもって、国会をとりまく映像だった。その第二幕は、ついこのあいだまで敵国であり、敗戦を契機として支配者として君臨するアメリカからやってきた外交官を空港で待ち伏せて襲撃する学生たちの映像だった。第三幕は、国会を警備する警官隊が国会突入を図ろうとする学生を襲う凄惨な映像だった。警官が振り下ろす警棒はひ弱そうに見える学生の頭めがけて容赦なく振り下ろされ、学生の頭部は割られて鮮血が飛び散った。プチブルの子供たち学生が労働者の側に立ち、労働者・農民の子供たち警官がブルジョアを守るため学生を半殺しにし、一人の女学生を死に至らしめた。そしてフィナーレは国会議事堂を取り巻く無言の大群衆が日米安保条約自動延長を見守る映像だった。かくして、〈60年〉の幕は下りた。少年笠井は、この一部始終をお茶の間の白黒TVに映し出されたニュース番組を通して疑似体験した。

〈60年〉の政治的興奮は、安保自動延長をもって幕を下ろした。「安保反対」を叫び続けた群衆の無力感が社会全体を覆った。敗北感のなか、革命的左派は〈60年〉の総括を行った。それは「安保」への関わり方に応じて異なっていたものの、宗教的とも思える言説が彼らを支配した。そのことを大雑把に示せば、以下のとおりとなる。
その一つは、反スターリン主義の定着である。〈60年〉革命運動を圧殺したのは、既成左翼(社会党・共産党)指導部だということ。あれだけの人民が反体制運動に参加しながら、それを日本革命に導けなかった責任が社共にある、とりわけ、唯一の前衛党=日共の責任は重い、彼らはロシア革命を歪めたスターリン主義者なのだと。
二点目は、60年安保闘争を凌駕する革命運動を推進するには、学生が先駆的に大衆を牽引する必要がある、〈60年〉を唯一革命的に闘ったのは「全学連=ブント」だった、という〝ブント神話”の定着である。
三点目は、60年ブントを否定する動きの定着である。ブントは闘ったけれど、組織としての脆弱性という限界があった。そこから、ブントに変わる前衛党を目指すグループが生れた。
60年安保闘争の総括は分かれたけれど、〈60年〉-〈68年〉を通じて、反スターリン主義、学生運動の無謬神話、真の革命党建設というテーゼが新左翼党派のなかに定着した。なお、60年ブントの実態については後述する。
〔註3〕
笠井 大雑把に言えば、もう小学生の時点で〝戦後民主主義vs.ロマン的反動″という図式の中にいた。しかし60年安保の時にテレビで全学連が暴れているのを見て、〝こっちのほうがカッコいい!″と思ったので(笑)、極右をやめて極左路線でいくことにした、という原体験があるわけです。(『対論 1968』 P108/笠井潔 絓秀実 聞き手 外山恒一/ 集英社新書/以下「対論」という)
笠井 民衆の中に蓄積された蜂起の記憶のようなものが、運動を持続させたり高揚させる力としては〝組織″以上に大きいと思う。実際〝60年安保闘争″という大闘争の記憶が、ほとんど神話的な、〝歴史の始まり″のような出来事として人々の中に残ったわけです。(対論P238)
孤独な革命家志望者を受け入れたべ兵連
高校を中退した笠井はルンペンプロレタリアートという〝困難″な道を歩むことになる。ここでいう困難とは生活苦という世俗性だけを意味しない。日本における革命運動の入口は、大学生という身分を必要とすることが必須ともいえるばかりか、入学した大学の学部を支配した党派に入るという構造についてはすでに書いた。大きな大学に入れば、複数の党派と接する機会も増える。高卒社会人の場合は組合または市民団体が受け皿になるが、笠井が高校を中退した当時、反戦青年委員会をはじめとする大学以外の新左翼系団体はそれほど多くなかった。高校中退の青年を受け入れる新左翼系団体に巡り合ことはまれだった。そんななか、笠井は独力で読書サークルを立ち上げたり、反日共系全学連のデモに紛れ込んだりしたという(本書P14)。そんな笠井は、べ兵連という入口を見つけた。
ベ平連とは正式名称「ベトナムに平和を!市民連合」といい、1960年代、ベトナム戦争の激化にともない、ベトナム反戦を旗印に日本で結成された反戦市民団体である。米軍の北爆開始を受け、鶴見俊輔、高畠通敏、小田実らによって1965年4月に結成された。表向きはだれでも参加できるノンセクトの反戦市民団体であり、規約や党費の徴収はなく、参加、脱退が自由の任意組織だと報道されていたが、マルクス主義構造改革派(以下「構改派」という)の一派である、共労党の市民組織(別動隊)である。共労党幹部の吉川勇一が事務局長を務め、共労党と兼ねたメンバーには、(同党幹部の)いいだもも、栗原幸夫、武藤一羊、花崎皋平らがいた。
構改路線から暴力革命路線に大転換した共労党
笠井の革命家人生は、べ兵連=構改派から本格的にスタートしたのだが、この出発点は笠井の政治活動に微妙な影響を与え続けることになったように思える。なぜならば、そもそも、構造改革マルクス主義というのは、社会の構造を変革しつつ議会における多数派を目指す修正マルクス主義であり、暴力革命の否定を特徴とする。
共労党の原籍は日共で、は1960年代中葉、日共内に構改派グループを立ち上げ、党内闘争の結果、主流派から放逐され3派に分裂したなかの一党である。その後、〈68年〉になると、街頭実力闘争を敢行した新左翼各派の党勢が増すにつれて極左化を遂げ、構改主義からマルクス・レーニン・トロツキー主義に基づく暴力革命路線へと大幅な路線転換をはたした。
同党の発足から笠井の入党後にいたる路線変更を示せば、次の通りになる。①日共→②日共内分派形成→③(日共内)党内闘争→④敗北・放逐→⑤マルクス主義構造改革派の政党=共労党結党→⑥マルクス・レーニン・トロツキー主義(暴力革命・プロレタリア独裁)に路線変更→⑦共労党左派が分党=赤色戦線を結成。
学生組織においては、①②③④民青→⑤民主学生同盟(民学同)→⑥プロレタリア学生同盟(プロ学同)→⑦三里塚を闘う青年同盟(労学農共闘)=共労党左派=赤色戦線
共労党を結党した幹部たちは、そのときどきの時流にのる「政治屋」ではないか。笠井は⑤から⑥という、大転換の渦中、1968年に共労党に入党し、同党を構改主義からルカーチ主義への転換を目指して同党およびプロ学同の幹部として通過した。その間、学生組織拡大強化を果すため、当時、高校卒業資格を問わない私立大学に入学した(後に除籍)〔註4〕。
笠井は本書において、共労党指導部批判を繰り返しているし、彼が体験した党内主導権争いとその不毛さについて詳述しているが、一方で、同党幹部から受けた援助、指導等に謝意も表している。とにかく彼は同党の学生組織にとどまり、党改革に情熱を傾け続けた。笠井が共労党から離れなかった理由を本書から明確に読み取ることができないので推測になるが、当時の共労党幹部(いいだもも、武藤洋一ら)は、〈68年〉当時、新左翼論壇を賑わせた人物であり、多くの論考を新左翼雑誌に寄稿していた。それらの価値をどう定めるかは別として、彼らが「書ける知識人」〔註5〕だったことはまちがいない。笠井の資質もその範疇に属していることは、本書に収録された「黒木龍思」名の論文が実証している。
加えて、小党といえども、共労党には組織があった。日共から除名された後、民主学生同盟(民学同)という学生組織を残していた。笠井は大学生となることを拒み、大学よりも選択肢が少ない市民団体を入口としてマルクス主義構造改革派の下部組織に滑り込むかのようにして政治運動にかかわり、ついには、学生戦線拡大のために、一度拒否した大学に入学したことはすでに書いた。
「共労党だろうが共産同だろうが革共同だろうが、たいして変わりはしないのだ」という見方もあるのかもしれないが、笠井の革命家としての出発地点から通過の道のりは周縁的だった。このことは注目していい。
〈68年〉当時にブントや中核派や解放派で活動していた同世代の回想録は目につくが、それ以外の小党派の活動家による類書は少ない。本書の新稿部分は、二十歳を挟んだ6年間を共労党の党員として生きた者の当時の証言でもある。(本書P6)
前出のとおり。共労党の出自は、暴力革命よりも議会内多数派を目指す修正主義を綱領とする党派であり、その学生組織の名称は前出のとおり、日本共産党の学生組織、民主青年同盟とよく似た、〝民主学生同盟″だ。笠井は構造改革マルクス主義を出発点とし、〈68年〉を境に党内に暴力革命路線を提起し、共労党の極左路線を牽引した。革命運動の終わりは1972年の三里塚闘争。このとき、共労党左派赤色戦線の実質的リーダーとして、他党派と共闘し、赤色三派の形成にまで至った〔註6〕。
彼はまさに、「連帯を求めて孤立を恐れず」 という表現にふさわしい革命家であるが、彼が属した政党の振れ幅は異常に大きかった。しかも小党のなかのさらなる小集団が彼の革命家としてのポジションだった。
〔註3〕
笠井 共労党に入党したのは68年の3月で、その頃はまだ高校を中退してブラブラしてるような立場の人間には運動を担うことができなかった。〔中略〕学生運動というのは当時の自治会の運動だから、クラスに出向いて演説してビラ撒いて、というのが基本。〔中略〕学生運動をやるためには〝大学生″にならなきゃいけなかった。そして67年の10.8(ジッパチ)が到来する。本格的に運動をやるには学生にならなければならない。〔中略〕和光(大学)は入学試験にさえ合格すれば入れてもらえる素敵な大学だった(笑)。(対論P40-41)
〔註4〕
絓 共労党って、〝知識人集団″みたいなところがある組織だし、その次代を担う人も育成しなきゃならないだろうから、笠井がその候補生として目をつけられたわけだよ。(対論①P39)
〔註5〕
笠井 そんなこんなで入党し、〝ルカーチ主義党″建設のため頑張って、共労党左派-赤色戦線の形成まで何とか持っていったんだけど、最終的には壁にぶつかって崩壊してしまう。白川真澄がボスだった京大派との闘争に時間とエネルギーを使いすぎて・・・(対論P40)
第三章 階級形成論から世界共産主義へ
階級形成論は、カール・マルクスの『共産党宣言』第二章を出発点とする。同章は共産主義者とプロレタリアとの関係が述べられた箇所で、次のように書かれている。
『共産党宣言』
共產主義者󠄃は一般のプロレタリヤに對して、どんな關係にあるか。
共產主義者󠄃は勞働者󠄃の諸󠄃黨派󠄄に反對して、別個の一黨派󠄄をつくるものではない。
彼らは全󠄃プロレタリヤ階級の利害󠄆から分離した、何らの利害󠄆をもつものではない。
彼らは特殊の原則を定めて、プロレタリヤの運󠄃動をその型に入れようとするものではない。
共產主義者󠄃が、プロレタリヤの他の諸󠄃黨派󠄄と異なるところは、ただこれである。すなはち、一面においては、プロレタリヤの種々なる一國的鬪爭に對して、その國籍から獨立した、全󠄃プロレタリヤ階級の共通󠄃利益󠄃を指示し、標榜する。そして他の一面においては、プロレタリヤとブルジョアジーとの鬪爭が經過󠄃する種々なる發展段階に對して、常に運󠄃動全󠄃體の利益󠄃を代表する。
故に共產主義者󠄃は、一面、實際上には、全󠄃世界の勞働諸󠄃黨派󠄄の中において、最も大膽な、いつでも全󠄃黨を推進󠄃させる一部分である。そして一面、理論上には、プロレタリヤ運󠄃動の條件、進󠄃路、およびその總結末に關し、プロレタリヤの他の大部分よりも、一そう明晰な洞察をもつてゐるものである。
共產主義者󠄃の直接の目的は、他のすべてのプロレタリヤ諸󠄃黨派󠄄のそれと同一である。すなはちプロレタリヤを一階級に結成すること、ブルジョアの支配權を顚覆すること、プロレタリヤの手に政權を握ること。(『共産黨宣言』カール・マルクス、 フリードリヒ・エンゲルス〔著〕インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/) 堺利彦、幸徳秋水〔訳〕》
『共産党宣言』は1848年ロンドンで出版されたものだが、そこにあるように、共産主義者はプロレタリアを一階級に結成しなければならない、とある。19世紀中葉、プロレタリア階級は社会に発生したのちに群生したが、一階級としての結成をはたせずにいた。それから120年経過した〈68年〉当時も一階級としての結成をはたせずにいたし、今日(2024)においても未達成である。孤独な革命家(笠井潔)がプロレタリア階級結成に情熱を燃やし、その方法論を書き連ねたことは至極当然のことだった。
階級形成論と内ゲバの論理
新左翼の一派である革マル派の階級形成論は「プロレタリア的人間自覚の論理」といわれ、真の共産主義者が立ち上げた唯一の前衛党の下、すべての人間が「プロレタリア的人間」と自覚するとき、共産主義革命が成就する、と説く。いわば人間革命ともいえよう。
これと似た概念として、「自己の共産主義化」というものがある。これは連合赤軍が山岳アジトにおいて、そこに参集した若者を連合赤軍兵士へと鍛え上げる際、同軍幹部が軍事・規律訓練の一環として使用したものである。訓練になじまない者、ブルジョア意識に毒されているとされる者を粛清するとき、粛清をためらう「未熟な兵士」を鼓舞するため投げかけられたという。連合赤軍の場合は山岳アジトにおける私刑執行という異常な状況であるから、階級形成とは異なるものかもしれないが、連合赤軍の「自己の共産主義化」と、もっとも過激な内ゲバ闘争を中核派に対して敢行した革マル派の「プロレタリア的人間自覚の論理」とは通底している。
『共産党宣言』に示された、「共産主義者の直接の目的、すなわちプロレアリアを一階級に結成すること」が、〈60年〉-〈68年〉を通じてあたかも啓示のように学生革命家を呪縛し、対権力闘争が行き詰まった時、対立する〈他者〉を階級形成を阻害する者と規定し殲滅対象とみなしたのである。
革命論の深化と変遷
黒木龍思というペンネームで著わされた笠井の革命論のうち、本書に収録されたものは以下のとおりである。発表された年、タイトル、大雑把な内容を明記しておく。
【1】1968年;「階級形成論の方法的諸前提」
【2】1969年:「戦術=階級形成論の一視点」=同論文にて、先進工業国における評議会(レーテ)と街頭占拠行動(叛乱)の連動 が提起される。【3】1970年:「革命の意味への問いの究明」=ここでは、近代主義的マルクス主義批判と第三世界(今日(2024.6.25)ではグローバル・サウスといわれる)を巻き込んだ革命論が提起される。
【4】1971年;「戦後解体期の時代精神――長崎浩論」=長崎の『叛乱論』に係る評価と批判 である。
【5】1972年:「日本革命思想の転生――近代主義革命への〈ロマン的反動〉批判」=ロマン的反動とは、誤った近代主義批判をいう。同論文でそれを批判した。
【6】1972年;「「近代世界」の基礎構造と「第三世界解放革命――世界共産主義」」
【7】1974年;「ふたたび「革命の意味」を問うこと」=共労党離党、革命運動の停止を契機とした自己総括が示される。
以上の(黒木龍思名で書かれた)笠井論文は、ルカーチ主義と階級形成論からはじまり、近代主義的マルクス主義批判と第三世界の「発見」、そして、長崎『叛乱論』の評価と批判を経て、第三世界解放革命=世界共産主義の提唱にいたり、革命運動からの離脱で終わる。
第四章 ルカーチ主義とはなにか
笠井は1968-1969年にかけて、構造改革派マルクス主義政党である共労党をルカーチ主義に路線変更しようとしたことは前出のとおり。前掲の【1】【2】はルカーチに強い影響を受けていたことは明白であると同時に、笠井による、ルカーチ主義に基づく結党と革命遂行の決意表明ともいえる。そのルカーチの代表作ともいえるのが『歴史と階級意識』である。
『歴史と階級意識』
同書の構成は以下のとおり。
第1章 正統的マルクス主義とはなにか
第2章 マルクス主義者としてのローザ・ルクセンブルク
第3章 階級意識
第4章 物象化とプロレタリアートの意識
第5章 史的唯物論の機能変化
第6章 合法と非合法
第7章 ローザ・ルクセンブルクの『ロシア革命批判』についての批判的考察
第8章 組織問題の方法論
(『歴史と階級意識』(ルカーチ著/ルカーチ著作集9/白水社刊))
ルカーチ(1885-1971)は、ハンガリー・ブタペスト生まれの革命家。彼の思想的自己形成は、当時支配的であった新カント派からドイツ・ロマン主義および神秘主義を経てヘーゲル弁証法およびマルクス主義へという軌跡をえがいていった。
第一次世界大戦が終結した直後(1918)にハンガリー共産党に入党し、ハンガリー革命に身を投じた。1919年3月、ハンガリー革命は成功、ベラ・クーンの革命政権が成立し、彼は革命政権の教育人民委員となって指導的な地位についた。だが革命政権はルーマニア軍の武力千渉にあって短期で崩壊し、ルカーチはウィーンへの亡命を余儀なくされる。反革命政府(ホルティ反動政権)は欠席裁判のままルカーチに死刑判決を下したが、ウィーンの警察によってシュタインホーフ精神病院に収容されることとなった。
収容中、ルカーチは活発な文筆活動を1929年までウィーンで続けた。彼の代表論文である「物象化とプロレタリアートの意識」「組織問題の方法論」は、このシュタインホーフ精神病院で書かれたもので、ハンガリー革命の思想的総括というべきものだ。〔註6〕
〔註6〕『ルカーチ著作集9』「解説」城塚登・古田光〔著〕より抜粋。(城塚、吉田は著作集9の訳者である)
笠井は同書の重要性について、論文【1】において、以下のごとくまとめている。
(1)歴史におけるプロレタリアートの使命は、国家を止揚し、無階級社会を建設するという政治的使命だけでなく、歴史に真理をもたらす哲学的使命であること。
(2)知のブルジョワ的形態が、例外なく「主客の二律背反」に陥ることをもってその方法的限界を暴露していること。
(3)主客の二律背反を止揚し、全体性における知を歴史にもたらしうるのはプロレタリアートのみであること。だからプロレタリアートは「知の全体性」の担い手であること。
(本書P42)
さて、『歴史と階級意識』(以下「同書」という)であるが、その概要については、『ルカーチ著作集9』の訳者、城塚登・古田光による巻末解説の助けを借りて追ってみよう。
(一)修正主義が跋扈した時代に正統的マルクス主義を再構築
同書が著わされた時代背景が重要である。ロシア革命(1917)後、ドイツ(1918)、ハンガリー(1919)における社会主義革命は挫折した。ハンガリー革命に関与したルカーチは、反革命政府から死刑判決を受け、ウイーンでの亡命生活を余儀なくされたことは前出のとおり。
反革命の逆風とともに、修正主義、社会民主主義がヨーロッパに台頭した。そんななか、ルカーチは同書において、マルクスの弁証法を、主体的人間の実践を貫くもの、「唯物弁証法は革命的弁証法である」として再建することに注力した。前出の笠井の(2)(3)を換言すれば、思考と存在、理論と実践、主体と客体といった固定した二元性――近代の合理性のもつ限界――を乗り越えるものが「革命的弁証法」である、となる。
プロレタリア階級の自己認識がそのまま社会全体の正しい認識となり、しかもこの現実認識が闘争において自己主張する条件をつくりだし、社会変革を進める過程となる。プロレタリアートは、歴史過程における主体と客体との分裂と統一という弁証法を身をもって生きるものであるから、そこでの意識化としての理論は、ただちに歴史過程を革命的におし進める実践となる。
ルカーチは、プロレタリアートそのものにおける階級意識の革命的機能を解明しようとした。なぜならば、前出のとおり、ドイツ革命、ハンガリー革命の挫折がプロレタリアートの自然発生的意識に依存したためだという反省が込められたからである。
(二)階級形成と党の役割
ルカーチは、階級形成と党の役割について次のように書いている。
階級意識は、プロレタリアートの「倫理」であり、その理論と実践の統一であり、その解放闘争の経済的な必然性がそこで弁証法的に自由に転化する点である。党は階級意識の歴史的な形態として、またその行動的な担い手として認識されるが、これによって同時に党は闘争するプロレタリアートの倫理の担い手ともなるのである。党のこのような機能によって、党の戦略は規定されるべきものである。党の戦略は必ずしも常にその時々の経験的現実に合致しているとはかぎらないし、またそのような時には党の戦略がまもられないこともありうるだろうが、たとえそうだとしても、歴史の必然的な歩みは党に名誉回復の機会をもたらすであろうし、そればかりではなく、正しい階級意識や正しい階級的な行動のもつ道徳てな力も、――実践的・現実政治的に――その実を結ぶことになるであろう。(「マルクス主義者としてのローザ・ルクセンブルク」/『ルカーチ著作集9/歴史と階級意識』/白水社刊(以下「『著作集9』という)(P93)》
生産過程のなかの一定の類型的状態に基礎づけられ、それに合理的に適合する反応が階級意識なのである。したがってこの階級意識は、階級を構成する個々の人間が考えたり感じたりするなどのものの総計でもないし、その平均でもない。しかも総体としての階級の歴史的に意味をもつ行為は、結局のところこの階級意識から規定されるのであり、個々人の思考などによって規定されるものではない。そしてそれはただこの階級意識からのみ認識されうるのである。(「階級意識」/『著作集9』 P108)
階級意識は――抽象的に形式的に見るならば――同時に、自分の社会的・歴史的な経済状態についての、階級的に規定された無意識なのである。この社会的・歴史的な経済状態は、一定の構造関係、すなわち生活のあらゆる対象を支配しているようにみえる一定の形態関係としてあたえられている。したがって、このような事態に含まれている「虚偽なもの」、「仮象」は、けっして任意なものではなく、まさに客観的・経済的な構造の思想的表現なのである。(同 P109)
まさに暴力の問題のなかにこそ、すなわちまさに階級と階級とが赤裸々な生存闘争をおこなう状況のなかにこそ、階級意識の問題が最終的に決定を下す契機として姿をあらわすのである。(同 P111 )
資本主義とともに、身分構成の廃棄とともに、純粋に経済的に組織された社会の建設とともに、階級意識は意識されうるという段階にはいった。いまや社会的闘争は、意識をめぐってのイデオロギー的闘争、すなわち社会の階級的性格の隠蔽または暴露をめぐってのイデオロギー的闘争というかたちであらわれるのである。だがこの闘争の可能性は、すでに純粋な階級社会の弁証法的矛盾、内的崩壊を示しているのである。(同 P120-121)
・・・プロレタリアートの動揺や不明確さそのものは、ブルジョア社会の危機の兆候である。資本主義の産物であるプロレタリアートは、必然的に自分を生みだしたものがとる存在諸形態に従わなければならない。この存在諸形態は、非人間的なもの、物象化されたものである。たしかにプロレタリアートは、たんに「(非人間的な存在形態)」で存在しているということだけで、〔すでに〕この生活諸形態を批判し否定していることになる。だが、プロレタリアートは、資本主義の客観的危機が完全に実現するまでは、つまりプロレタリアート自身がこの危機を完全に洞察するまでは、すなわち彼らが真の階級意識を手にいれるまでは、物象化をたんに批判するものにとどまり、またたんなる批判として、否定されたものの上にただ消極的に超越するだけである。いや、さらにいえば、批判が一部分のたんなる否定以上にできることができない場合は、つまり批判が少なくとも総体をめざさない場合は、その批判は一般に、否定されたものを乗り越えてはいないのである。このような批判、資本主義の立場からこのような批判の性質は、さまざまの闘争分野がばらばらに分離しているというところに、もっとはっきりと現れている。すでにこの闘争の分離という事実が、プロレタリアートの意識がさしあたりなお物象化に屈服している、ということを示している。(同 P151-152)
(三)弁証法を放棄した「修正主義」「科学的認識」を批判
もう一つは、ブルジョア的な科学の事実認識の方法と、弁証法との差異という問題意識である。ルカーチは、当時の「修正主義」が事実の科学的認識を唱えて弁証法を放棄したことを批判した。彼らすなわち事実認識を強調する者は、自然科学的方法の妥当性を論拠とする。自然科学のいう「純粋な」事実というものは、他の現象の介在によって攪乱させられずにその合法則性を基礎づけうるような環境において、生活現象あるいは思考上、置き代えることによって成立するにすぎない。一方、ルカーチは、事実とはすでに孤立化と抽象化とを経たものだと考えた。抽象化を前提する自然科学的・実証的方法をもって社会現象を把握しようとすれば、孤立化された事実や部分体系がどのような構造的・歴史的な連関をもつかを見ぬくことはできない。そして傍観的な事実認識と主観的な当為との分裂が生じてくる。ルカーチの弁証法の立場では、諸現象を直接的な所与の形態から解きはなち、諸現象をその中心または本質に関係づけ、またこれらの現象的性格や仮象を、歴史的な社会の構造的基礎から必然的に生じた現象形態として把握しようとする。こうして社会生活の個々の事実が歴史的発展の契機として「総体性」のなかに組みこまれたとき、はじめて事実の認識から脱却して「現実性」そのものの認識に到達する。このようにルカーチは、「直接性」のなかに埋没しているブルジョア的思考、実証的科学の方法を批判した。
(四)物象化論にてブルジョア的な思考や意識の根本的陥を指摘
ルカーチの思想における最重要な問題提起は、「物象化」についてであろう。ルカーチは、マルクスの「資本論」における「商品の物神性」の指摘を物象化の現象の原型とした。
商品形態においては、人間に対してかれら自身の労働の社会的性質が、労働生産物自身に具わった対象的性質、社会的な自然属性としてあらわれ、生産者の総労働に対する社会的関係が対象物の社会的関係としてあらわれるということ、つまり具体的な人間活動や人間関係が、物(商品)の自己運動、物的諸関係としてあらわれることが、物象化の基本現象なのである。ルカーチの独自な立場は、商品形態があらゆる社会現象の基本的カテゴリーとなった資本主義社会においては、この物象化が生産過程の抽象化(合理化)をもたらすだけでなく、政治(国家権力)の合理的組織化(官僚制)、法律制度の合理化をもたらし、さらにはイデオロギー(諸科学や哲学)の合理主義的・実証的な孤立化・固定化をもたらしたとし、ブルジョア的な思考や意識の根本的陥を指摘するところにある。(解説/『著作集9』P556)
(五)共産党のあるべき姿を明示
共産党という組織が陥りやすい諸問題を指摘し、その解決の道筋を明示した。中欧における革命の挫折のなか、当時の革命論に両極の誤謬が顕著になった。その傾向とは、〈合法の白痴病〉と〈非合法のロマン主義〉であり、それを止場する必要を説いた。また、社会主義社会における自由や民主主義の問題、党の官僚主義化克服の問題などを論じた。
(六)革命の主体はあくまでもプロレタリアート
ルカーチは革命の主体をあくまでもプロレタリアートだと考える。彼はいう。
一般に少数者による支配というものは、直接的にではなく間接的に革命的であるような諸階級をイデオロギー的に引きずってゆき、それらの階級にみずからの権力を支持してもらうか、または少なくとも権力闘争において中立を守ってもらうことが可能な場合にのみ、もちこたえうるものである。(さらにまた、革命的な階級のある部分をも同じように中立的にしようなどという努力が起こってくることも、自明のことであろう)このことは、ブルジョアジーに、とりわけ時代が進むにつれてますます顕著に、関連することである。ブルジョアジーは、事実上の力を直接的ににぎっているという点では、以前の諸支配階級(たとえば、ギリシアの都市国家の市民、封建制の最盛期における貴族など)にはるかにおよばない。ブルジョアジーは、一方では、競争相手である以前の支配階級と講和したり、妥協したりすることによって、以前の支配階級が使いこなしていた権力機構を自己の目的に奉仕させうるようにする、ということをいっそう強く頼りにしながら、他方では、権力(軍隊・下級官僚など)の事実上の行使を、小市民、農民、被抑圧民族などの手にゆだねざるをえなくなっているのである。もしも危機の結果として、こうした諸階層の経済的状態が変動し、それらの素朴で未完成な結合とともにブルジョアジーによって指導されている社会体制が動揺するにいたるならば、ブルジョアジーの全支配機構は、いわば一挙に崩壊してしまうこともありうるだろう。そのとき、プロレタリアートは、勝利者として、唯一の組織化された力として立ちうるのであり、しかも、その場合、一般に真剣な闘争はおこなわれないであろうし、ましてやプロレタリアートがその闘争で現実に敵を打ち負かすということもないであろう。
事実、これらの中間層の運動は自然発生的なものであって、自然発生的なものでしかない。これらの運動は、事実として、盲目的に「自然法則的に」作用する、社会的な諸自然力のたんなる結果にすぎない。そして、このようなものとして、これらの運動そのものもまた社会的な意味において――盲目的なものなのである。これらの運動が成果をあげるかどうかということは、それらの運動にとって外的な条件によって規定される。というのは、次のような諸事情があるからである。つまり、これらの階層は、社会全体の改造に関係しうるし、またすでに関係しているような、階級意識をまったくもっていないからであり、したがってまたこれらの階層は、つねに、もっぱら特殊な、外見的にもけっして社会全体の客観的利益とはみえないような階級的利益を代表するにすぎないからである。(「組織問題の方法論」/『著作集9』P502)
1968-1969年のあいだ、笠井もルカーチと同様に、中間層(小市民、農民、被抑圧民族など)を革命の主体とは考えていなかったし、プロレタリアートが階級意識をいかにもちうるかが最大の関心事だった。
では資本主義社会における学生はいかなる階層に属するのか。ルカーチが学生という階層にふれた形跡は、管見の限り見当たらないが、引用における「中間層」に該当すると考えて不自然ではない。20世紀初頭、学生が階層として社会に異議申し立てを起こすような社会的環境は準備されていなかったが、20世紀中葉の〈68年〉には、資本主義各国において、学生が叛乱を引き起こした。笠井も「学生運動」に参加するためだけに、大学生という階層を選ばざるをえなかった。
そんななか笠井は、自らをルカーチに仮構し、共労党下の学生組織および労働者組織に向けて、階級形成論を書き下ろし、革命運動を実体的に経験した。
第五章 1969.秋期決戦の敗北と無期限権利停止処分
新左翼各派が「決戦」と位置づけた反安保闘争の頂点である1969年10月・11月の街頭闘争は不発に終わった。その闘争中、笠井は他党派および共労党主流派が選択した中央決戦政治闘争(中央権力闘争)とは一線を画し、彼独自の労働の現場における山猫スト(マッセンスト)〔註7〕に政治生命を賭けたが不発に終わった。
敗北と処分
笠井の企ては、共労党指導部から分裂行動とみなされ、規律違反によりプロ学同から処分される。笠井は1969年秋におけるみずからの一連の政治過程を次のように総括している。
処分の対象とされた分裂行動の原因には、叛乱型政治闘争と攻撃型政治闘争の対立があった。いいだももなどの東京の知識人党員グループと、白川真澄を象徴的人格とした関西の民学同OBグループによる相互不信と暗闘に巻きこまれ、翻弄された気もする。発想も問題意識も組織としての背景も異質な、関西中心の民学同左派に合流してプロ学同を結成したのが間違っていたのか。ルカーチ党を創る目的で共労党に加入するという発想が、はじめから実現ゼロの夢想にすぎなかったのか。(本書P149)
〔註7〕山猫スト(マッセンスト);一部の組合員・労働者が組合や争議団の内部規律を無視して行うストライキのこと。
ここで共労党およびその学生組織であるプロ学同が抱えていた路線対立の詳細を書くことをひかえたい。とにかく笠井はその後処分を解かれ、共労党・プロ学同に復帰する。ときは1970年、赤軍派のハイジャック、京浜安保共闘による交番襲撃による死者がでるなど、新左翼学生運動に激変の予兆が出始めていたころである。
笠井の革命論に影響をおよぼしたのは、大阪からやってきた戸田徹との出会いだった。戸田は、〈68年〉新左翼革命運動を領導してきた岩田宏『世界資本主義論』、一向健(荒岱助)『過渡期世界論』、そしてその延長線上に構築された、笠井が所属する共労党幹部のいいだもも・白川真澄の『現代世界革命論』を批判した。笠井は、《戸田論文は、「今日『先進国』プロレタリアートが普遍的階級に自己形成するのは第三世界解放革命闘争への合流をかちとり、そのことを通じて帝国主義的国民としての自己の定在を解体することによって帝国主義打倒の共同の戦列を構成しうること、今日のマルクス主義者は第三世界解放革命の意義をその世界史的根拠までさかさかのぼってとらえかえすという困難な理論課題を自らに課すことを抜きにその歴史的任務の完遂はありえないことを、かさねて強調しておかねばならない」という結語で終わっている(本書P155)》と賛意を表している。
戸田の「第三世界革命」論を絶賛し、彼と共闘して、共労党・プロ学同の新体制=いいだもも・白川真澄および彼らが指針とする『現代世界革命論』と対決することを決意する。この時点で、笠井がルカーチ主義からの離反を意識しはじめたことが読み取れる。ルカーチはその革命論のなかで、資本主義下のプロレタリアートが革命の主体であることをつねに強調していたからである。ルカーチは次のように明確にそのことを強調している。
ブルジョアジーとプロレタリアートだけがブルジョア社会の純粋な階級である。〔中略〕その他の初期階級(小市民とか農民)の態度は、動揺していたり発展に対して不毛であったりするので、それはこれらの階級の存在が、もっぱら資本主義的生産過程におけるかれらの地位に基礎づけられておらず、身分的な社会の残存物と離れがたく結びついているからである。したがってこれらの階級は、資本主義的発展を促進しようと努めたり、あるいは自分自身を越え出ようと努めたりしない。(「階級意識」/『著作集9/P122)
ルカーチ主義的革命党
ただし、笠井は復帰した共労党のあるべき姿について、ルカーチが構想した革命党に近づけようという志だけは手ばなさなかった。笠井におけるあるべき革命党は、ルカーチの「組織問題の方法論」(『歴史と階級意識』第8章)を教科書としている。ルカーチは次のように書いている。
・・・あらゆる党員が各自の全人格を傾け、全生活をあげて党活動に専念するとしても、党員の意志と党指導部の意志とのあいだの活発な相互作用のために、指導部に対する党員の意志と願望、激励と批判を実現するために、考慮しなくてはならないことがある。それは集中と規律の原則にほかならない。党のあらゆる決定は、すべての党員の行動のなかに、その効果をおよぼさねばならないし、またあらゆるスローガンから、個々の党員の行為、しかもその肉体的・精神的な生活の全体を賭けた行為が生まれてこなければならないのであるが、そうであればこそ、かれらは、直ちに批判をおこないうるだけでなくて、おこなわざるをえないのであり、また直ちにその経験や思慮などを生かしうるだけでなくて、生かさざるをえないのである。もしも党が、一般の党員大衆から孤立した、しかも党員大衆に対して日々たんなる傍観者的な役割しかはたせないような、たんなる職務上の階層的秩序から成り立っているとすれば、そしてまた全体としての党の行動が、たんに一時的なものであるにすぎないとすれば、党員のなかに、党の日々の行動に対するある種の無関心、すなわち盲目的な信頼と冷淡さの混ざった無関心が生ずるであろう。かれらの批判は、せいぜいのところ(大会などでおこなわれる)事後の批判、未来における行動の真実の方向に対してほとんど決定的な影響をあたえないような批判でしかありえない。
これに反して、党員全体が、党の日常的活動に積極的に参加するということや、その全人格をあげて党のあらゆる活動のために尽力しなければならないということこそ、一方では、党指導部に対して、自己の決定を党員に実際に理解させ、その正しさを党員に納得させることをうながす、唯一の方法にほかならないのである。なぜならば、もしそうしなければ、党員はその決定を正しく遂行することができないだろうからである。(党の組織が完全であればあるほど、そしてたとえば労働組合フラクションなどの成員としての――党員のすべてに課せられる職務が重大であればあるほど、こうした必然性はますます強まってくる。)他方では、行動がはじまる前の、そしてはじまってからの、こうした協調は、党全体の意志と中央部の意志とのあいだの、まさにこうした活発な相互作用をもたらすにちがいない。
そしてまた、決意を実際に行動に移すことに対して、これを制限したり、是正したりするような影響をおよぼすにちがいない。(この場合にも、集中と規律が強化されていればいるほど、こうした相互作用もますます大きくなってくる。)
こうした傾向がより深く自己を貫徹すればするほど、ブルジョア政党の構造から受けついだ、指導者と大衆のけわしい、越えがたい対立はますます消滅してゆくのである。その場合、職務上の階層的秩序の交代も、そうした対立をますます消滅させてゆく方向にはたらく。しかも、この――まださしあたり――避けられない事後の批判というものは、ますます具体的経験と一般的経験との交換、戦術的経験と組織的経験との交換に変わってゆき、これらの経験もまた、ますます将来に対して備えるようになってくるのである。〔中略〕共産党は、そのすべての党員の活動の世界となることによってのみ、不可解な出来事の必然性に対するブルジョア的人間の傍観者的な役割をまたそのイデオロギー的な形態であるブルジョア民主主義の形式的な自由を、真に克服しうるのである。権利を義務から分離することは、能動的な指導者が受動的な大衆から分離し、指導者が大衆に代わって行動する場合にのみ、したがってまた、大衆が宿命論的・静観的態度をとる場合にのみ、可能である。しかし、真の民主主義、すなわち権利と義務の分離の止揚は、なんら形式的な自由ではなく、総意を形成する人びとの、緊密に結合された、連帯的な活動にほかならないのである。〔中略〕
組織問題は、革命的な発展のもっとも深い、もっとも精神的な問題であって、まさにそうであればこそ、たとえいまとりあげて実行に移せないにしても、前のような問題を革命的前衛の頭に入れておくことが、どうしても必要だったのである。〔中略〕ロシアにおける党の浄化は、発展のさまざまな段階に応じて、きわめてさまざまな方法でおこなわれた。昨年〔一九二一年〕の秋におこなわれた、最近の浄化の際には、党の外にいる労働者や農民の経験と意見を利用して、これら大衆を党の浄化作業に参加させる、という非常に興味深い、しかも重要な原則が、いろいろと取り入れられた。もっともその場合党がこれら大衆の意見をなんでも盲目的に受け入れたというわけではなく、腐敗し、官僚主義化した分子、しかも大衆から遊離して、革命的に信頼できなくなった分子を排除するに当たって、大衆の勧めたことや拒んだことが大いに参考にされたというまでのことである
こうした組織上の方策が、共産党の権威を高めるためのすぐれた戦術的方策であると同時に、党と勤労大衆の関係を強化するためのすぐれた戦術的方策でもあるということは、これ以上説明するまでもなく明らかなことであろう。
そこで、共産党のより発達した段階では、この党のきわめて内的な要務は、党と階級のきわめて密接な内的関係を示すものである。それは、意識的な前衛が広汎な大衆から組織の上で明確に分離していることが、いかに階級全体の統一的、弁証法的な発展過程の一契機であり、階級全体の意識の発展の一契機であるにすぎないか、ということを示している。しかもそれは、同時に、この過程が、歴史的な意義をもつ現在の瞬間の必然性を、明確に、力強く媒介すればするほど、ますます明確に、かつ力強く、個個の党員を、その活動において、個人として把握し、利用し、発展させ、批判する、ということを示しているのである。全体としての党は、プロレタリア階級を真に統一するために、革命的な統一と結集とをめざす行動を通して、民族や職業などにもとづく、生活の現象形態(経済と政治)にもとづく、物象化された分裂を止場する。と同時に、それは、これと同じように、個々の党員に対して、まさにきびしく統合された組織を通して、この組織から生まれる鉄の規律を通して、全人格の傾注を要求することを通して、資本主義社会のなかで個人の意識を包んでいる、物象化された外被を引き裂いてしまうのである。こうしたことは、われわれがいまはじめてその出発点に着いたばかりの、長期にわたる過程である。しかし、そうだからといって、ここに現われてくる原理、すなわち近づきつつある「自由の国」を、階級意識にめざめた労働者の要求として。しかも今日可能なかぎり明確に、認めようとする、われわれの努力が妨げられるということは、けっしてありえないし、またあってはならないことである。共産党の形成ということが、階級意識にめざめた労働者の意識的な作業にほかならないからこそ、正しい認識にむかってのあらゆる歩みは、同時に、それを実現する方向にむかっての歩みでもあるのである。(「組織問題の方法論」/『著作集9』P546-550)
第六章 ルカーチ、レーニンからグラムシ、マオイズムへ
1970年、笠井は本格的にルカーチ批判に転じる。
中央決戦政治への疑い
「戦術=階級形成論の一視点」では、ボリシェビキ党を「媒介者の党」に読み替えようと試みたが、1969年を通過したのちの「革命の意味への問いの究明」では、すでにレーニン主義へのへの距離感が生じている。秋期決戦に向かう過程で闘うことを強いられた俗流レーニン主義の二本柱、「プロレタリアートの百歩先を得意気に歩こうとする」前衛主義と中央決戦政治の根拠が、レーニン主義それ自体にあるのではないかと疑いはじめたからだ。革命のパターンとしてはソヴィエト型から人民戦争型へ、理論としてはルカーチ=レーニン主義からグラムシ=マオイズムへのシフトを、この時期には模索していくことになる。(本書P167)
その萌芽は、前出のとおり、1969年秋期決戦における闘争戦術をめぐる共労党中央と笠井の見解の相違に起因した。繰り返せば、笠井は新宿郵便局の占拠とストライキ(評議会)を街頭占拠行動(叛乱)と連動させることで決戦の展望を具体化しようとした。笠井が選んだ戦術は、他党派、なかんずくブント戦旗派に代表される「中央権力闘争」(中央権力=官邸、省庁等が集中する霞が関周辺)を攻撃するという戦術を否定するものだった。「中央権力闘争」は、結果として、権力側の圧倒的暴力の前に封じ込められ、新左翼各派の敗北で終わった。
笠井はこのとき以降、長崎浩の『叛乱論』に傾倒し、共感・賛辞を惜しまなくなる。
高橋岩木は、《長崎「叛乱論」の基本的な意義は、叛乱を史的唯物論の経済法則に照らして予言される客観的勝利としてではなく、社会に常に伏在する潜在的な力として捉えたことだった。黒木(笠井)における長崎への共感は、ハイデカー哲学の受容とも連動することで、ルカーチ的な革命をスターリニズムを含む近代世界総体への叛乱として捉える方向に向かう。(本書/解説P405-406)》と指摘している。
先回りしていうと、長崎『叛乱論』は、笠井の「近代主義としてのマルクス主義批判」と「第三世界革命論」の間に位置する。笠井は、長崎『叛乱論』を手掛かりとし前者乗り越え、後者に行き着く。では長崎『叛乱論』とはどのような思想なのだろうか。
叛乱とその本質
笠井は叛乱について、次のようにきわめて簡潔に書いている。
叛乱の歴史はマルクス主義の歴史よりも古い。この自明の前提が、なぜかくも深く隠蔽されてしまったのか。マルクスからレーニンにいたる半世紀のあいだに、科学的社会主義による叛乱現象を階級闘争理論の枠内におしこめようと、人々はやっきになってきた。〔中略〕全共闘運動と総称される、60年代後半から70年代初頭にかけてこの国を襲った大衆的政治経験は、少なくとも叛乱を科学的社会主義による合理化と固定化から解放することで、人々を叛乱という現象そのものに直面させた。であるからこそ、それは近代知性にたいする攻撃ともなり、また階級闘争理論にもとづく指導を拒絶して「展望なき叛乱」に終始したのだ。
全共闘運動を生きた主体にとって、叛乱が道具でもなく、それ自体で充実した完璧な瞬間を創りだす生経験の全体性に他ならないことは明白だ。叛乱とは、あれこれの「理想的な」社会経済状態を実現するための物理力なのではない。叛乱の本質はイデアルな世界変容であり、生体験の根源にむかって殺到する集合的投企に他ならない。曖昧な実感のなかで、このことは充分に承認されてきたように思われる。しかし、その意味はなお徹底して問われているとはいえない。全共闘以後十年の時代の地平が、革命の意味への問いを重ねて深く要求してきているにもかかわらず。(本書P377-378)
この引用に続いて、武藤一羊の『フランス五月革命の教訓』を引用し、《ここで語られている「バリケードの夜と大衆デモがつくりだした魔法(マジカル)のような雰囲気について、それは誰もが実感しながら、「なんと説明していいかわからない」と、誰もがそれについて語ることを「ためらう」と表現する。
そして笠井は、現象学における事物の意味の無限という主張、すなわち、事物の多義的な意味が一義的に狭められていく「意味の沈殿作用」を介して、「私たちの生活世界とは、私をとりまく事物と他者たちが、すべてその豊かな意味の多義性を沈殿させられ、機能的に一義化させらているような世界なのだ」と喝破する。
意識の超越性が事物に無限の意味を能与しうるにもかかわらず、私たちが事物の意味を記号化するようにしてしか存在できないのはなぜか。それはニーチェが語るように人間という存在が二つの極をもった過渡的な存在だからだろう。人間は事実性と超越性とに引き裂かれている。人間存在の超越性は、陽光にきらめきながら落下する一滴の水に全宇宙を視ることもできるのに、記号的世界は住人の水滴で床が濡れることを心配するばかりなのだ。そして、このような人間存在の事実性あるいは条件性の地平の上に、マルクスが歴史の土台と呼んだ全構造が聳え立っている。(本書P379-380)
続いて、先の引用、「誰もが実感しながら、なんと説明していいかわからないもの」、誰もがそれについて語ることを「ためらう」という、「バリケードの夜と大衆デモがつくりだした魔法(マジカル)のような雰囲気」の正体を明かす。笠井はエリック・ホブズボームの『叛乱の原初的形態』で考察された「千年王国主義的運動」をヒントとして、千年王国主義的運動および他の前近代的な叛乱現象すべての特質について、それらは〝特定の利害集団の自己利害貫徹の運動ではなかった点″を挙げ、〝叛乱とは人間の存在条件の固定化・形態化がもたらした世界の記号化への意味の叛乱に他ならない(本書P381)″と定義する。
叛乱が叛乱となるためには、まず利害集団としての共同体が解体され、それが新しい集団に再編、むしろ再生されねばならない。より直接的には、共同体が疎外し共同規範としての共同観念(倫理/エティック)から私が離脱し、そのような無数の私のあいだに新しい規範が形成されるのでなければならない。その意味は二重である。第一に、叛乱の真の根拠は意味的なものであり、決して経済的な利害やその観念化としての共同規範(エティック)にあるのでない点。第二に、倫理的(モラリスティック)なるものの叛乱は同時に私(わたし)的なるものの叛乱であり、決して自生的な共同性の叛乱ではありえない点である。つまり、叛乱の根拠は、利害集団から離脱した〈私〉が、共同利害の観念形態とは異なった新しい倫理主体として自己を超越することによってのみ形成されうる。(本書P381)》
笠井がここで展開した叛乱論は、東大全共闘リーダー、山本義隆の自己否定と近い。山本も、大学機構という利害集団のなかの経済的な利害そのもの、かつ、その観念化した共同規範に叛乱したわけではなかった。山本は、利害集団である大学機構から離脱した〈自己=私〉が「新しい倫理主体として自己を超越する」すなわち「自己否定」することによって自己形成しようとしていったはずである。このような笠井の叛乱に係る共感的論理は、〈68年〉における全共闘運動を主導したノンセクト・ラディカルの運動(60年代の大衆ラディカリズム)のなかに、叛乱の本質を再発見したかのように思える。
しかし、笠井は全共闘運動およびそれと並走した新左翼の倫理性について、次のような反省の意味を込めた一文を加えることを忘れなかった。
叛乱の根拠としての私的=倫理的なるものについての思想的な無自覚は、結局、60年代の大衆ラディカリズムをふたつの方向に分解させ、崩壊させることになる。第一は叛乱を集団の利害貫徹運動に還元する方向であり、それは実質上の社民化に帰着した。第二は私的=倫理的なるものの部分的なウルトラ化と固着の方向であり、それは連合赤軍事件、東アジア反日武装闘争事件、そして革共同中核派の反革マル戦争という現実を生みだしてきた。(本書P384)
長崎『叛乱論』とはどのような思想なのか
笠井による長崎浩論はきわめて難解である。本書に収録された笠井の「戦後解体期の時代精神――長崎浩論」を読み込んでみよう。
(一)〈60年〉と〈68年〉
1937年5月生まれの長崎浩は笠井(1968-)より10歳年長である。長崎は東大本郷時代にブントに参加し、60年安保闘争を闘った。笠井は長崎との世代の差、政治経験の違いを前提としつつ、長崎批判ではなく、〝うちなる『叛乱論』の解体(本書P214)″を目指して立論することを明言する。
十年ほどの年代差異性に規定された二様の戦後体験の、六〇年代後半における思想的交差の意味を了解すること。その交差が白日に一瞬の暗い火花を散らしたような、微妙な異和感の意味を了解すること。可能な方法はこれ以外にあり得ないと思われる。この長崎論にもしも幾分かの時代的意味が認められるとすれば、それは一瞬の交差ののちに遠ざかりゆく二様の時代経験を、次の時代への二つの軌跡として了解する点においてだろう。(本書P215)
笠井は、《長崎の「政治的なもの」にたいする思考の原点は60年安保闘争の経験にある(本書P215)》と断言する。そしてそのうえで笠井は、長崎の〈60年〉における政治経験を次のように概説する。
長崎は〔中略〕、「未知なる大衆」とも「言葉の魔力」とも無縁に自己形成せざるをえなかった。長崎の世代は、いわば1917年2月から10月の激動のなかの、たとえばペテルブルグ駅舎前に集まった群衆に向けて「4月テーゼ」を読みあげたレーニン、単身クロンシュタットにのりこみアジテーションのみを武器として数千の軍隊を蜂起の側に獲得したトロツキーを、その鮮烈な政治経験において追体験したのである。(本書P218-219)
笠井の長崎評は誤りではない。なぜならば、笠井が長崎の著作である『叛乱論』から次の箇所を引用していることで実証されるているからである。
私(長崎)は私の「政治の経験」がどこで受容されたかを記述してみた。それはアジテーターの立場よりする「アジテーターと大衆とのたしかな関係だったのであり、いいかえれば私はそのときレーニン主義を通じて叛乱をかいま見ていたのだと思う。もちろん叛乱というも恥ずかしいささやかな闘争にすぎなかったし、アジテーターとしての経験もレーニン主義の実験のごときものだった。(略)私たちはレーニン主義をプロセスとしてみていたことはたしかである。「大衆の高揚」を一つの生成としてとらえ、これにかかわりつつ自らをも運動させていった。このような生成の過程が私たちにとって政治だった。(『叛乱論』長崎浩〔著〕)から再引用/本書P219)
(二)〝乗り越えられた前衛″だった長崎および60年ブント
長崎が〈60年〉、アジテーターとして、大衆の叛乱をかいまみ、その高揚を一つの生成としてかかわりつつ、自らをも運動していたという記述を疑うことは難しい。その原体験から叛乱論が書かれたという笠井の断言は繰り返すが、誤りとはいえない。
だがしかし、筆者は、長崎の記述をそのまま了解した笠井に不信を抱かざるをえない。なぜならば、長崎が大衆とのたしかな関係を築いたという記憶に筆者は疑問を抱いているからである。
長崎の「私ごとを語る」〔註8〕いう回想録の中に、「ブントと島成郎」という章があり、60年安保闘争におけるブントの狼狽ぶりが記されている。それによると、長崎は当時、東大本郷のブントの活動家で、東大本郷ブントは、島成郎(1931-2000)が率いるブント中央と対立関係にあったという。これからの記述は、両者の微妙な関係性を前提にして読んでいただきたい。そこには、なんと、長崎たちが島の国会突入指令に反発し、現場で突入を図る学生を制止する側(反中央)にまわったことが書かれているのである。
〔註8〕「私ごとを語る」;『叛乱を解放する――体験と普遍史』長崎浩〔著〕に収録/月曜社刊
(島さんが『ブント私史』で言っているように、)このとき(4.26国会前闘争)、東大の教養学部と本郷(長崎たち)が中心になって、学生が装甲車を乗り越えて国会前に殺到していくことを、むしろ阻止するようになった。言ってみれば、公然たる反対ですね。しかも学生の前で演じた。学内でまだ運動が初期段階にあるという政治的配慮があった上に、反中央の姿勢がこうしたミスを生みました。(「私ごとを語る」P155)》
これが発祥地点になって、しかも東大細胞だけではなくブントという党自身が、学生のみならず一般市民に乗り越えられていく。5月から6月までの国会周辺の安保闘争です。それまでは、国民会議の第何次統一行動というようにスケジュールを決め、国会に労働者と学生がデモにいって、そのなかで全学連が跳ね上がるというかたちを繰り返してきたわけですが、もはや連日、国会前が人で溢れ返る。統一行動もへちまもないような、一種の首都圏市民の叛乱状態が、連日くりかえされることになった。
(中略)
たとえば5月20日のことですが、全学連書記長の清水丈夫(1937-)が国会の前で、宣伝カーの上から、「これから全学連は新橋デモに移る」と提起したけれども、ヤジり倒された。統制がきかないわけです。国会前に連日人は集まりますが、それから何をすればいかという展望が全く出ないわけですから、この人たちに濃淡の差はあれ、焦りと欲求不満が蓄積していくわけですよ。(同 P157-158)
島が率いるブント中央が無方針で、自分が属していた本郷細胞がその被害をこうむったかのような長崎の書きぶりが気になるものの、明らかに社共(既成左翼)もブント(左翼反対派)も、大衆に乗り越えられていたことは明らかではないか。
もうひとつ、『長崎叛乱論』のキイワードであるアジテーターにふれておこう。笠井は長崎の政治経験をペテルブルグ駅舎前のレーニン、クロンシュタットのトロツキーにアナロジーした。ところが、長崎自身は〈60年〉における国会前闘争におけるアジ演説についてこんなことを書いている。
島さんに言わせれば、(略)この4.26で国会通用門前の装甲車を乗り越えて進むという戦術を、彼一人が発案して全学連幹部と拠点大学とを説得して回った。唐牛であり、後に革共同に行く陶山(健一)であり、篠原浩一郎 であり、これらの第一級のアジテーターをそろえて、車の上から学生に対する猛烈なアジテーションを続ける。(後略)
その結果として、我々(長崎ら)の制止を振り切って学生が国会前に殺到する。(同 P155)
この会議で北小路敏が・・・京都から呼ばれていたのです。彼は会議のあいだずっと眠っているのです。こいつ現場で大丈夫かなと懸念しました。ところが、当日の国会前では我々の主張をそのまま見事なアジテーションにして、学生に向けてアジった。大衆政治家として天性の男の一人ですね。当時の全学連にはこういう才能の持ち主が何人もいたんです。(同P160)
唐牛健太郎(1937年生まれ) 、陶山健一(1936年生まれ) 、篠原浩一郎 (1938年生まれ) 、北小路敏(1936年生まれ) といえば、日本の新左翼運動史に名を刻む面々であり、1937年生まれの長崎と同世代である。長崎が彼らと並んでどのような場面でいかなるアジテーションをしたのか筆者が知る由もないのだが、長崎がブント内で国会突入を制止する側にいたことから推察するに、彼がアジテーターと大衆という関係を実際に築いていたことには疑問が残るばかりか、本当にアジテーションをしたのかどうかさえ疑わしい。
(三)観念としての「大衆/アジテーター」
〈60年〉の政治過程において、自らの政治経験を原点として生み出されたという『長崎叛乱論』だが、それはおそらく、長崎自身が60年ブント神話とともに、自らを神話化したもの、実態上は安保ブントさえもが「乗り越えられた前衛」であったことの隠蔽工作から生まれたものだろう。〈60年〉をもっとも過激に、そして果敢に闘った唯一の前衛党というブント神話と混然一体となった長崎の「記憶」ではないのだろうか。長崎自身による60年安保闘争のブントの実態的記録である「私ごと」を読むかぎり、大衆の沸点に近づきつつある叛乱エネルギーをもてあまし、狼狽し、かつ長崎自身はその爆発を抑制する側にあり、学生新聞に「乗り越えられた前衛」と揶揄された60年ブントを原体験とする叛乱論は「体験」から築き上げられた思想ではないことだけは確かである。
長崎は「私ごと」というかたちで60年ブントにおける自己の立ち位置と実態を封じ込めた。そのうえで、観念的でありながら実体験を偽装した関係性、すなわち、「大衆/アジテーター」を構想し、叛乱を体験したかのように叛乱論を立ち上げた。しかしそれは疑似的なものだったのだが。〈60年〉の政治的高揚期において見た(と思い込んだ)叛乱が原初の叛乱であり、その後、国会を包囲した大衆が消え、政治の季節の終焉において、長崎は叛乱を新たに規定し提示したのではないか。
(四)近代と叛乱
長崎により新たに規定された叛乱とは、それが「根源的には近代への叛乱」であるみなすことだった。笠井は長崎の「近代/叛乱」について、実に簡潔にまとめている。笠井は、本書にて、長崎の一節を引用したあとで、こう書いている。
(長崎の〔近代/叛乱〕についての)問題はつまるところ「近代人の自己と反自己の葛藤」であり、「アジテーターと大衆の死闘」もまたこの「葛藤」の政治的表現にすぎない。叛乱をめざす政治がこうしたものである以上、叛乱は根源的には「近代への叛乱」であるとみなされる。すなわちアジテーターといい大衆というのも、近代を乗り越えた人間の全体性を表現する行為全体の二様の呼び名である。両者は近代の根幹をなす行為の規定性とこれが忘却した闇との相克をあらわす関係概念としてとらえらえたときには、叛乱者のうちに内在化される。このように長崎は、一切の根拠を近代の歴史的地平にさしもどすことを要求する。(本書P224》
この転換は、長崎が政治の叛乱というものが、つまるところ、近代人の内部におきる外部との断絶によって生起すると考えたことによる、と笠井は説明する。
(長崎がえた)結論の第一は「近代の叛乱として叛乱はつねにある」ということ、第二は「叛乱が権力を獲得するかいなかは本質的ではない」ということだ。前者は大衆的自然発生性の純粋化と普遍化であり、「レーニン主義の復権」から出発した長崎にとっては、後者とともに視点の根底的な転換を意味するものだ。だから長崎は「宿命的な叛乱の頽落」として、レーニン主義を、そしてその双生児たるアナキズムを検討しなければならない。(本書P226)
(五)全共闘運動の内にあって「醒めた者」
笠井は長崎の叛乱論の整理ののちに、〈60年〉と〈68年〉という、長崎と笠井の政治経験の時代的差異に戻る。笠井は、(長崎は)人が叛乱者となるのは「権力体験」だといい、60年代を戦後期の固有だった構造が急速に解体され、日本の近代社会が完成形態に接近していく過程として捉えている、と指摘する。そして、笠井はそのことに反発して、次のように書く。長いが、筆者にとって印象に残る箇所なので引用する。
高度経済成長下の日本社会が市民社会的成熟を遂げて、純粋近代が露呈されてきたという長崎の時代把握は妥当だったのか。私たちは全共闘運動のなかでなにゆえ「孤独」だったのだろう。〔中略〕たしかに全共闘運動の参加者たちの多くが「高揚する叛乱の内部での熱い融合状態」、「私」と「われわれ」の特権的合一、あるいは神津陽によれば「行為の共同性と関係の革命」などなどの実現を夢想した。夢想だけではなく、それはもう〝萌芽的″に実現されていると思い込む者さえもいた。しかし、こうした祝祭ぶりのなかでひそかな後めたさがあることを一瞬忘れながらも、祭りが高揚するほどにある種のしらけた意識がその裏で成長したことを、私は想起することができる。それは異様な感覚だった。
私が自己と世界との敵対関係を自覚するにいたったのは、完全に無機的な「孤独な群衆」の位相においてではない。疎外態はむしろ、無機的なマスの内に形成される大小の無数の社会的共同体の「内では共有、外には占有」という構造にあった。伝統的共同体ではない、大衆社会状況のうちに自然発生する小共同体からさえも分泌される疎外と受苦の経験。この体験から、純粋な主観性こそ自らの道であるという決意が生じる。なれあいの共同体を敵とし、ひたすら内なるモラルは、ここにあるのではないか。全共闘運動はそのあとである。
科学的でもなく説得的でもない観念(綱領と戦略)に純化し、ぬるぬると共同体への密通を欲求する自己の肉体を限界まで酷使した時、轟轟たる「民主的世論」の非難と「暴力学生」呼ばわりを受けた時にこそ、他者とのいかなるなれあいをも拒否しえたというささやかな感動は訪れた。1967年の闘いを生きた多くの叛乱者が68年と69年の学生叛乱に際して、硬直した政治主義者の貌をまとったのは相応の理由がある。一切の共同性への禁欲と他者との闘争をモラルとした者たちにとって、流行の「祝祭としての叛乱」や「コミューン的共同体」はなんといかがわしく感じられたのだ。私たちは全共闘運動の内にあって「醒めた者」であることを強いられ、それによって、祝祭のうちなる孤独をこうむったのである。(本書P227-228)
(六)私にとっての60年代
長崎にとっての60年代は、近代への純化過程だった。日本社会における近代の形式的規定性が実存との間にもたらす矛盾、この矛盾を日常的に生きる大衆の「行為の本質への飢餓」こそが叛乱と叛乱をめざす政治の基礎である――と思考した。
これにたいし、10年遅れの笠井は、〝深まる近代がその手によって破壊した前近代的諸構造を、それをも自らのたえまない拡大と膨張のために変型し再生産していく過程として体験された(本書P228)″という。
笠井は続けて――
大衆社会の到来が「砂のような大衆」一般の創出とともに、近代の延命のため一層奇怪に変型された日本的共同体によってまずもたらされた。深まりゆく日本近代が、他ならぬ「近代と前近代との奇怪なアマルガム」の高度化として進行した独特な性格のために、60年代ラディカリズムは現象学的な鈍化された主観主義を、あるいは近代主義の極北を希求することになったのではないか。理論(対象的知)による形式合理的関係以外にいかなる同志的結合もありえないと思いさだめて、あらゆる共同性への欲求を禁欲した私たちは、革命に迫るまで極限化された近代主義によって、逆説的にも長崎浩の思考と交差することになる。長崎が想定した「純粋近代」における叛乱と政治の世界に幻惑されて、私たちはそれをほとんど愛したとさえいえる。『叛乱論』の世界はあくまでも魅惑的だった。
理論に対するニヒリズムと、にもかかわらず理論だけが政治的関係を媒介するのだという強固な確信は、日本近代がなおも温存した日本的共同体の、個の確立も真の自立もない相互もたれかかり合いの無責任的体系、森崎和江のいう「日本民衆の薄笑い」の構造に対する、私なりの対決から生じてきた。近代に組みこまれた日本的共同性は、日本近代の成熟によって自然消滅していくことなどなく、近代のもたらす受苦的経験をいっそう増幅し、それへの抵抗と解放すら「ふるさと」の幻想に吸収していく特殊な抑圧の構造である。このことを60年代の経験は疑いないものとして教えていた。(本書P228-229)》
笠井は全共闘運動に内在したコミューン的空間性、祝祭的情動にたいして批判的である。それらよりも、党と大衆組織を介して、自己の思想と行動を純粋に綱領と戦略に純化し、誓約に基づき闘う、近代的マルクス主義革命の活動家を志した。そのうえで、所属する共労党をルカーチ主義革命党として左旋回させつつ、69年秋期決戦にむけて全身全霊を傾けた。そのことは近代主義(的マルクス主義、レーニン主義)に基づく、(近代的)プロレタリア革命への道だった。
しかし、笠井は同時に、1960年代の日本社会が一方で近代化を完成しつつ、その一方で日本的共同体が増幅する現実の過酷さに苛立った。彼は近代主義としてのマルクス・レーニン・ルカーチへ投企したが、それと無関係に、重く湿った空気感のような日本的共同体を拒否しようとした。長崎と笠井における叛乱をめぐる差異は、両者の世代(政治経験)および日本社会にたいする感受の相違に起因する。
戦後精神にたいする長崎との評価の相違もまた、二人の60年代了解の相違にかかわってくる。戦後の終焉を近代の純化とみるのか、近代と前近代の不可解なアマルガムの自己増殖とみるのか、この一点に二つの戦後経験を重ねあわせる作業から、戦後期の黄昏のうちで一瞬暗い火花を散らした長崎と私との交錯は、その意味を幾分かであれ露わにしえたのではないか。次には、69年秋期の政治体験を契機に開始され、刻々と深まりつつある両者の思想的隔たりの意味するものについて語らねばならない。(本書P233-234)
笠井のいう隔たりとは、第一に、長崎が「前近代的なもの」を方法的に捨象したのにたいし、笠井が、〈第三世界〉と〈日本的特殊性〉を叛乱論のうちに措定したところである。笠井は、長崎がそれらを捨象したのは、清水幾太郎、姫岡玲児、そして長崎に共通する発想だという。その発想とは、構造改革論、計量経済学の流行という、60年代における思想風俗と通底するともいう。
ただし、これらは、60年安保闘争の思想的挫折を媒介として形成された「戦後解体期の時代精神」に共通する発想だとしながらも、〝叛乱論の独特の性格は、深まる近代をニヒリズムとともに革命、あるいは叛乱の側に奪還した点にあり・・・「情報理論」や「離陸」といったニューモードの近代主義に足をすくわれるのではなく、逆にそれをもって(さまざまなヴァリエーションがある疎外論に依拠することなく)叛乱を措定しかえしたところに、60年安保の挫折からネオ近代主義へという凡庸な軌跡を超える長崎の思考の固有性があった”とも弁護する。
第二は、長崎叛乱論では、党が無構造的なものとして措定され、「党」はアジテーターの集合態とされ、その内部構造の分析が捨象されている点。そして第三は、ファシズムの大衆運動と革命的叛乱との本質的性格についての論理展開が不十分だという点。第四は、――それは笠井の次なる革命論の核心部分でもあるのだが、――第三世界との直面である。笠井はそれを、〝「認識の武器としての理念型的近代」と「批判の方法としての純化された近代」を、一挙かつ同時に破壊する出来事だった″と書いている。
世界了解においても政治了解においても、長崎と私はかつての交錯ののち、再度交わることのない二様の軌跡を描いて中空を離れ続けている。長崎が〈アジテーターの遍歴史〉によって『叛乱論』――『結社と技術』の軌跡の深化を目指すのだとすれば、私たちは「大衆叛乱」の地平を超え「人民の革命戦争」へ前進しなければならない。二様の戦後体験の交錯はその意味をあらわにしたであろうか。(本書P240)
第七章 第三世界革命への合流
ときは1971年――全共闘運動および新左翼各派が目指した中央権力闘争はすでに敗北した後である。情況としては、学生自治会を基礎とする戦後学生運動が終焉し、新しい活動家は大学ではなく地区に組織された叛軍闘争、入管闘争から登場してきていた。笠井が属していた共労党の学生大衆組織であるプロ学同は地区青年同盟、プロ青同、赤色戦線とそれぞれの母体ごとに組織名を変更していたのだが、赤色戦線がそれらの総称として定着していた。
赤色戦線を含む新左翼各派が取り組む最重要政治課題は、成田空港建設による強制土地収用を阻止する三里塚農民に連帯する闘争だった。笠井はこの闘争こそが、帝国主義本国市民社会における人民武装闘争・人民権力闘争に転化する場と規定した。そこから笠井は、グラムシの「陣地戦」、毛沢東の〝農民に依拠し、農村を革命の根拠地とする″「人民闘争革命論」の再評価へとつなげていく。人民による社会権力の奪取と占拠の持久的闘争は、中欧から遠く隔てた東アジア中国に共通する革命論であると。
そこから、先進資本主義国、資本主義が未発達な中国、そして第三世界の旧植民地・従属国それぞれの社会の状態に合わせた、持久戦・陣地戦による「人民権力闘争」が浮上する。そこには〝プロレタリア革命″の影は薄く、プロレタリアをふくむ〝人民″が革命主体として登場する。
人民権力闘争
近代的な主権国家体制が未整備な第三世界諸国では、地理的な解放区の獲得による法的・政治的な二重権力状態を持久的に形成するための条件がある。これにたいし先進諸国では、市民社会の諸文節を占拠した人民諸権力が主権権力の支配を脱して、法的・政治的な自立を獲得することは困難にしても、ヘゲモニー的な二重権力を構築していくことは可能だろう。実際に三里塚には武装した反対同盟農家による、警察権力が容易には立ち入ることのできない自律的空間が形成されている。(本書P200)
前出のとおり、笠井は、長崎『叛乱論』を近代世界総体への叛乱として捉えることにおいて評価した。しかし笠井はそこにとどまらず、第三世界革命への合流として捉えることで、長崎から離れていった。この変容を「うちなる『叛乱論』の解体」と宣言した。そのなかで、長崎『叛乱論』が叛乱の経験を純粋に記述するがゆえに叛乱とファシズム的叛乱が十分に区別されないこと、叛乱が国家、党といかに向き合うべきかという点にも答えられていない――と批判した。
笠井の「第三世界革命論」は日本の新左翼が形成した、以下の潮流に対する批判的整理から準備され、「ロマン的反動批判」と名づけられた。批判の対象は以下の4点である。
東アジア反日武装戦線に代表される無党派地下グループの爆弾闘争であり、笠井はそれを「人民なき人民戦争」とシニカルに評した。
その思想的背景となっている太田龍の「原始回帰思想」批判
津村喬の「民族的責任論」(中核派の「血債主義」も津村の思想の延長線上にあるとする。)
滝田修の「戦士的共同体」論批判
第三世界革命論の挫折と共労党脱退
「第三世界革命論」はめくるめく観念の産物であることは疑いようがない。これはブント戦旗派の一向健(荒岱助)が『過渡期世界論』のなかで第二世界(ソ連・東欧・中国等)を疎外された労働者国家群と規定した「世界観」と大差ない。日本国内における学生とプロレタリアートがともに階級意識を形成することすらかなわなかった〈68年〉の政治経験を経たあとにおいて、第三世界のどの国のどのような組織と連帯することができるのであろうか。一向健は〈第一世界=日本国および海外の資本主義(帝国主義)国家群〉と〈第二世界〉を、戸田は〈第一世界〉と〈第三世界〉を――同時革命の対象として選択したという違いがあるだけで、観念の上昇過程にあるという意味で等しい。世界地図を広げて、「第一」と「第二」を赤く塗ったのが一向健であり、「第一」と「第三」を赤く塗ったのが戸田・笠井である。
共労党左派の戸田・笠井は、観念の広大さをもって、共労党主流派(新体制)の指針である「現代世界革命論」を凌駕(論破)する武器にしようとしたように思える。
笠井は日本国内における三里塚を第三世界として認識し、そこに革命運動の実体をみようとした。しかしながら、それもかなわなかった。三里塚は農村地帯だが、第一世界のそれである。そこは〝深まる近代がその手によって破壊した前近代的諸構造を、それをも自らのたえまない拡大と膨張のために変型し再生産していく過程″にあるところである。
そればかりではない。笠井もいうように、近代ベビーブーマーが大学を卒業していく1972年をさかいに、〈68年〉という政治情況は変容した。共労党をふくむ新左翼各派も「危機の淵に突き落とされた(本書P351)」。
1973年、共労党東京都委員会が解散を決定、左派共労党は実質的に解党した。こうして、笠井潔=黒木龍思の革命家人生は終わった。
おわりに
笠井の1972年の論文〔「近代世界」の基礎構造と「第三世界革命論――世界共産主義」〕の第2章「本源的蓄積と「世界貨幣」」は、世界商業および世界市場経済史的領域の検討から立論を開始している。16世紀における「資本の近代的生活史」の解明である。検討に供したテキストは大塚久雄の『近代欧州経済史序説』『経済学と歴史認識』、マルクスの『経済学批判要綱』『イギリスのインド支配』『中国とヨーロッパにおける革命』『資本論』などであるが、そのなかで、笠井はマルクスのインドに関する論考にふれている。
「イギリスのインド支配」(1853年6月25日付)では、インド問題への総括的視点が以上のように語られている。この論説で検討されている当時のマルクスの問題意識は、次のように整理することができる。
第一に、アジア的生産様式とアジア的「村落共同体」への独自の認識である。「これら二つの事情、――一方においてヒンズー人が東洋のすべての国民とおなじくその農業と商業との基礎をなす包括的な公共事業の配慮を中央政府にまかせていたという事実。他方においてこのヒンズー人が、全国に散在していて、農業的労働および手工業的労働の家内的結合によってわずかに小中心に総括されていた事実――これらの事情が遠い昔から一個の特別の社会組織、いわゆる村落制度をつくっていて、この組織がこれらの小中心のおのおのにおいてその独自な組織と独自の生活とをあたえてきた停滞的なアジア的生産様式の形態的特質を、マルクスは、手工業と農業との家内的結合が形成する無数の「小さな中心」の全国的散在と、このような村落共同体を基礎とする自給自足の経済構造、そして無数の共同体を外的に支配するアジア的専制の複合として把握している。「住民は王国の瓦解も分割も意に介しなかった。村の内部経済はそれにもかかわらず、手を触れられずにとどまった」。(本書P328-329)
笠井が引用したマルクスのインド論において、筆者がとりわけ注目したのは太字の箇所である。21世紀の日本社会を支配する空気は、19世紀中葉のインド社会に極めて近いように思える。
日本には、人々がそれぞれが属する学校、企業、組合、団体、町(村)内会、諸々のクラブ等の小集団あるうえに、近年では、ネット上の巨大SNSを運営するプラットフォームという「小集団」が加わった。そしてそこに「小さな中心」が形成されている。
一方、小集団の外側には、あたかも合法的な国家権力(行政、司法、立法)があるかのようにみえるのだが、実体的には米国とその傘下にある少数の日本人パワーエリートによる、天皇家を頂点とするアジア的専制支配が貫徹している。なお、いまからおよそ80年前までは、天皇を頂点とする専制的国家が君臨していたのであったのだが。
今日の日本(社会)は「日本政府がいくら腐敗しようとも、政治家がいかに不正を行おうとも、各人の公費負担がいくら増えようとも、いやおそらく、自公政権が瓦解し、「あるいは日本が(かつてのインドのように)分割されても、意に介しない」のではなかろうか。
そして、「その村」(自分たちの一個の特別の社会組織)がそこなわれずにいさえすれば、自分等が誰の権力のもとに入ろうが、どの支配者に属そうが、いっこうにかまわないのではないか。つまり、天皇・軍人からアメリカへ、そして、その傀儡にかわろうとも、「意に介しなかった」ように。
〈アジア的〉という括りでインドと日本を一緒するのはナンセンスだという批判を承知のうえでいえば、そのことが、〈68年〉以降、日本を長期停滞の淵に落とし込んでいる宿痾のように思えてならないのである。〔完〕
【引用・参照文献】
『思想としての全共闘世代』小阪修平〔著〕ちくま新書
『自伝的革命論』〈68年〉とマルクス主義の限界』笠井 潔〔著〕
言視社
『対論 1968』笠井潔/ 絓秀実/ 聞き手 外山恒一 集英社新書
『歴史と階級意識/ルカーチ著作集9』ジョルジョ・ルカーチ〔著〕白水社
『叛乱を解放する』長崎浩〔著〕月曜社
『共産党宣言』 カール・マルクス、 フリートリヒ・エンゲルス〔著〕インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)
