最終回 倒産3回、リストラ5回。それでも私は、エンジニアだった
活気を失った古巣で
以前の会社に戻った私を待っていたのは、かつての活気を失った職場だった。
優秀なエンジニアの多くが、すでに退社していた。所属していた会社は別だったとはいえ、ここまで開発力が落ちているとは ── 正直、驚いた。それでも仕事はある。こなさなければならない。お客様から不具合の報告があれば、検証し、修正する。その繰り返しだった。
担当したのは、全国に配置されたAndroid端末を制御するシステムだ。新機種も旧機種も、あらゆるAndroid端末に私たちのアプリをインストールしてもらい、それ以降はサーバーから制御する。データ収集の機能もあったが、これがなかなかの曲者で、不具合が多かった。前任者の残した不具合を、使いものになるレベルまで持っていくのには、相当な苦労をした記憶がある。
だが、このシステムは、今も全国で稼働している。そういう意味では、いい貢献ができた仕事だったと思っている。
営業もやった。売上も作った。それでも
新規の仕事がなかなか無く、私は営業活動もした。
関西の大手の医療機器メーカーから、血圧計と歩数計のアプリ開発をいただいたこともある。開発工数が大きく動く案件で、売上にも貢献できた。会社が危機的な状況だったから、これは素直に嬉しかった。アメリカへ渡って打ち合わせをしたのも、今ではいい思い出だ。
しかし、会社はさらに厳しい状況になっていく。そして私は、またもリストラの対象となった。
ただ、今回は少し変わった辞め方だった。仕事ができずに迷惑をかけたからではない。力を認められた上での、リストラだったのだ。そんなことがあるのか、と思うかもしれない。あるのだ。
そこから、私の大変な50代が始まった。
10ヶ月、給与なしで働いた
次の会社は、前職の社長の知り合いが経営する会社だった。
仕事は順調に売上を上げた。地方の自治体を訪問して営業もした。アプリ開発と評価の調整が、私の主な仕事だった。順風だった ── のだが、営業権をめぐる揉め事で営業マンが退社してしまい、会社は大きな戦力を失った。QRコード決済システムの飛び込み営業も経験した。これはかなり度胸がつく仕事だった。秋葉原やお台場が私の担当だった。今、主流のPayPayの中国版だった。
その後は新しいビジネスとして、アプリ開発や仮想通貨のアビトラージシステムなどを手がけたが、思うような利益は出せず、ついに会社は給与を払えなくなった。
私は、合計10ヶ月、給与なしで働いた。
無償で、である。それでも会社を信じて働いたが、限界が来た。退職を決意し、会社都合で退職させてもらった。残念だったが、10ヶ月無給は、あまりにも厳しかった。もう、あの地獄は思い出したくない。
50代の流転
転職した次の会社は、コロナ末期で在宅勤務。派遣の立場で、顔もろくに合わせないまま、難しい大手有名スーパのポイントアプリの自動デプロイ管理を担当した。だが責任者とWEB会議では、まったく話が合わず、退職した。
その後、知り合いの以前の同僚の会社から「情報システムの責任者をやってほしい」と依頼をいただいた。ありがたかった。全国に配置された約200名の社員のパソコンの面倒を見て、社内の販売管理システムも守った。大変な仕事だった。営業の幹部とは仲良くやれたが、情報処理を担当する昔の同僚である幹部とはどうしても技術的な面で、折り合いが合わず、これは自己都合で退職した。
流転、また流転である。
56歳、開発の現場に帰ってきた
そして、たどり着いたのが今の会社だ。
以前の会社でアプリ開発をお願いしていた会社 ── つまり、かつての取引先である。56歳からお世話になって、もう3年半になる。仕事は、開発のマネジメント。ずいぶん遠回りをしたが、私はまた、開発の仕事に幸運にも戻ることができたのだ。
前職で培った情報システムの仕事も少し手伝っているが、経験があるから、どちらも楽しい。入社してからは、アプリ開発、Web予約システム開発、ホームページ制作、ヘルプデスク事業、AWSサーバー監視、VR360°システム、EC決済システム、チャットボットAIサービス等など ── いろいろなことを経験させてもらっている。忙しいが、勉強になる会社だ。AIも積極的に活用させてくれる。
東京科学大学向けの360°VRキャンパスツアーを開発しました

このVR360度キャンパスツアーは、私が営業をして、開発もPMをした案件です。360度の動画撮影から立ち会いました。Unityを活用してこのシステムを実現しています。他の大学も同じようなことをやっていますが、他の大学とは少し違うことをしてはいます。今年6月末にもソフトウェアを少し完了して使い勝手を改良したり、対応ブラウザを増やす工夫(今回はFirefox)をして、現在も公開ができています。
色々と大変ではありますが、そうやって、今日まで生きてきた。
数えてみると、倒産が3回。リストラが5回。我ながら、よく立ってきたものだと思う。
監視カメラと、コンデンサ
最近、こんなことがあった。
会社の監視カメラが4台のうち1台壊れた。買い替えるとかなりの金額になるので、しばらく放置していたら、そのうちもう1台壊れた。
私は、たぶんコンデンサの交換で直ると踏んだ。基板を開け、膨らんだコンデンサを外し、新しいものをはんだ付けする。──監視カメラは、今も問題なく動いている。

大した話ではない。でも、この「大した話ではない」ことができるのは、40年前、Z80のボードに毎日はんだごてを当てていたからだ。回路図が読めるのは、部品が分かるのは、あの1年目があったからだ。新人の私に「一人前まで5年かかる」と言った専務も、「荷物をAからBへ」と問いかけた上司も、もうこの世界のどこで何をしているか分からない。だが、彼らが叩き込んでくれたものは、60歳を超えた私の手の中に、まだ生きている。
最後に ── ハードとソフトの、両方を知る君へ
ハードとソフトの両方を、仕事として叩き込まれた世代は、おそらく私の年代が最後だろう。

はんだ付けから始まり、アセンブラを書き、無線機を作り、携帯電話に移り、ゲームを移植し、クラウドとAIまでたどり着いた。時代に何度も突き落とされ、そのたびに、それまでの経験が私を拾い上げてくれた。倒産も、リストラも、無給の10ヶ月も、私からエンジニアであることだけは奪えなかった。

今、独学でハードウェアを触っている若い人がいると聞く。電子工作をし、マイコンを触り、ソフトも書く。そういう人は、本当に貴重だと私は思う。
どうか、その手を止めないでほしい。回路とコードの両方が分かる人間は、時代がどう変わっても、必ず必要とされる。私の40年が、その証明だ。
ぜひ、将来の日本を変えてほしい。心から、そう思っている。
長い回顧録に、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
── 完 ──
