人文科学・社会科学・思想を読む:笠井潔・絓秀実(聞き手・外山亘一)『対論1968』論点が多すぎて、レビューが書けない(笑)
1968年とは何だったのか。
日本の新左翼、転向、戦後、革命、エコロジー思想まで、本書で交わされる議論はあまりにも多岐にわたる。
どの論点にも一言加えたくなるが、それでは収拾がつかない。
今回は印象に残った論点だけを、自分の備忘録も兼ねて列挙しておく。
論点1 「転向」はなぜ日本で問題になったのか
笠井潔、絓秀実(聞き手・外山亘一)『対論1968』読了。
本書では面白い問題意識が多く語られている。
多すぎてレビューを書きにくい。
しかも、各論点については、こちらも一言いいたい。
が、それを抑えて、とにかく列挙してみる。
一つめは、第一次世界大戦の未経験が日本的な特殊な転向問題を生んだという指摘である。ヨーロッパでは日本的な転向問題は存在しない。ヨーロッパであれば、共産主義からファシズムに立場を変えたとしても、そちらが正しいと思うなら変える「べき」であって、どちらが正しいかは問題となっても、立場を変えたこと=転向そのものは問題にならないという。
ぼくだったら、そこに一神教と多神教の違いも付け加えて考えてみたいところだ。
論点2 本土決戦の回避と戦後日本
二つめは、笠井は第二次世界大戦における本土決戦の回避が、その子供世代を戦争から疎外し軍事や戦争から徹底的に遮断された特殊な戦後日本を形成した。
そして、それが結果として親世代に対する革命「戦争」の対置へと結果し赤軍派や連合赤軍事件に結果するのだという。
この論理は、昨年出された矢吹駆シリーズの最新刊『煉獄の時』でも展開されていたので、記憶に新しい。
論点3 60年安保ではなく「1968」の普遍性
三つめは、彼らは小熊英二の『1968』を批判しつつ68年の普遍性を言う。
日本の論者の多くが60年安保闘争の素晴らしさを説くが、あれは日本的な特殊性の中で成立した国民運動に過ぎないとする。
68年こそ、アメリカ、フランス、西ドイツ、そして日本等々で起こった統制のきかない群衆の蜂起であり、そこにこそ普遍性があるというのである。
つまり乱暴に言えば問題は68年であって、しかも「70年安保」というのは神話のようなもので実体的には「なかった」のだとも。
論点4 華青闘告発をめぐる批判
四つめ。華青闘告発を日本の新左翼は道徳的問題に置き換えてしまったという批判。
論点5 『人新世の資本論』への違和感
五つめ。斎藤幸平の『人新世の資本論』はこれまでも言われてきたマルクスにおけるエコロジー的観点をつまみ食いしただけ。
何よりも彼の本には「革命」という言葉が一つも出てこないのが異様であると。
まあ、同感かな。
その他、数多くありすぎて全部触れることはできない。
本書が呼び覚ます、私自身の記憶
また、本書にはぼく自身が直接知っている人たちが多く登場する。
荒岱介や塩見孝也のことが出てくるのはまあ当然としても、60年代の早稲田の状況と村上春樹に触れているところで、唐突にぼく自身が世話になった広告会社の創設者のことが名前を伏せて詳しく紹介されていたり、反戦連合の表の指導者だった高橋公さんのことが出てきたりする。
また、友人の呉智英は何度も出てくるが、その友人であった台湾人の故・Rさんのことも名前を伏せてだが語られている(ぼくは縁あって何度もこのRさんとも飲んだことがあるし、このRさんはその昔、学生時代にぼくが恋していた中国人Cさんのことも知っていたりして驚いた記憶がある、笑)。
しかしさすがにこの本の論者たちはRさんが、華青闘告発の文章の起草者であったことまでは知らなかったらしい。
知っていたら、本書で触れないということは考えにくいからだ。
書かないことも、記録のうち
その他、いろいろあるが、触れようとするとやばいこともうっかり書いてしまいそうで、この辺にしておくことにする(笑)。
