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親の理想は、子どもにとっては「知らんがな」

今回は、「家族」についての話です。

わたしは、未だに父と折り合いがよくありません。
恐らく、考え方の根っこが違うのだと思いますが、当然たくさん愛情やお金をかけてもらったことも間違いありません。
だからこそ、どう接すればいいのかずっと悩んでいました。

一方、長男とも一緒にゲームしたりはするものの、肝心なところでの考え方はやはり違うのだと思います。そもそも、他の人間関係のように、自分で選んで一緒にいる人間ではないという部分も大きいのかもしれません。

同時に、自分の子どもである以上、「こうあってほしい」というエゴをぶつけているだけなのではないかという部分も悩んでいました。

親は最大の「杞憂民」であるという持論を掲げながら、同時に親が「ウザい」のはデフォルトなのでしょう。ですが、そうした状態こそが愛情を向けられていたり、甘えさせてもらっていることなのかもしれないと思いつつ、どこか釈然としない、モヤモヤした気持ちを抱えていました。

今回、ようやくそれが一つの構造として理解できた気がして、だいぶ心が軽くなりました。

もっと深刻なケースには当てはまらないかもしれませんが、もしわたしのように、それぞれの親子関係でどうしてもしこりが残るような想いを抱えている方にとって、心が軽くなる考え方の一つとして、参考になる部分があればうれしいです。

気づけば、自分を責める材料になっていた

父に対して閉口してしまう部分は、正解となる価値観が一つだと思って、その前提で話が進むこと。

父自身の解像度が低い領域に無理にアドバイスしようとしたりするので、先日は仮説として父がこうなってほしいと思っていることは自分には恐らくもう実現が難しいことを伝え、「どういうポジションで話していて、わたしにどうしてほしいのか」を聞きました。

わたしが掲げる「リテラシーが高い人」と一緒に何かしたいというのは、リテラシーが低い存在として確立されている、父の像の裏返しそのものです。

ですが、そのスタンスは、先述のように色々してもらったことに「不義理なのではないか」というのがモヤモヤでした。筋を通すことを信条としている自分が、自身の親に対してそれができていないのはどうなのかと。

あるいは、長男に対しても同様の構造があります。人の心に寄り添うことや、言語化に自信がある自分が、自身の子どもたちと心を通わせられないなんて、なんて力不足なのだろうと。

こうして書いていると、結局自分を責める材料として機能してしまっていることに気づかされます。

そして、これらの話に対してそれぞれの視点から考えていましたが、一つの考え方でどちらも説明できるかもしれないと腑に落ちました。

父には、父なりの理由があった

父は、農家の長男です。噂はあっという間に広がり、相互扶助がややエスカレートした村社会は、父にとっては監視社会のように感じられていたようです。

そうしたものに嫌気がさして、長男でありながら家を出ました。父は祖父と折り合いが悪かったようで、当時そうしたコミュニティで長男が後を継がずに出るというのは相当なことで、父も喧嘩別れのような形で出ていったのではないでしょうか。
※このことに関しては、なかなか父も話してくれず、わたしも踏み込んで聞けずにいます。

「家庭にどれだけお金を持って帰れるかが男の甲斐性」という考え方一本で来たのは、お金に苦労した自身の悔しさの裏返しだったのかもしれません(裏山の野兎に罠をかけて食べることになった話などを、冗談めかして話していました)。

そういう意味では、わたし自身も一人っ子という要素を抜きにしても、社会人になるまでお金に関してかなり優遇してもらいました。母も少しだけアルバイトをしていた期間もありましたが、お金が足りなかったからではなく、社会とのつながりを持つという側面が強かったそうです。

当時の父の年収を聞いた今となっては、両親の間で納得していたのであればそうした生活スタイルも致し方ないと思えますが、当平日は夜遅く、土日は自身の趣味である釣りに没頭し、ずっと独りでいる母に対して当時のわたしの目には「可哀想」だと映りました。

父の相手への共感力の低さが嫌で、わたしはそこを伸ばすようになりました。

そして、わたしも同じことをしていた

父が祖父の背中を見て、「家族にお金で苦労させたくない」と思ったのと同じように、わたしは父の背中を見て、「子どもたちとたくさん話をしよう」と思うようになりました。

父の背中だけを見て仕事のイメージを持ってしまった(これは調べなかったわたしも悪いです)反省として、早くから色々な働き方があることや職種があること、お金や投資についてなど話す機会を増やしました。

個人事業主やリモートワークを見せて、スーツを着て朝から晩まで会社にいることだけがすべてではないと背中を見せてきたつもりです。

ですが、長男にしてみれば別に頼んだわけではありません。長男目線で見た不満は、「3人も子どもがいるならもっと稼げ」かもしれませんし、「もっと〇〇してほしかった」というのは、挙げればキリがないかもしれません。

ということまで整理して、ふと思いました。
これはどうあれ、不満は出るなと。結局、自分が嫌だったものを受けて、「自分だったらこうする」というのをやっているに過ぎません。

その前提を共有していない子ども側から見れば、多くの場合は「知らんがな」になってしまうのでしょう。

親は自分の経験を受けて、理想の家庭を作ろうと、理想の人生を歩んでいこうともがいています。

そして、それは本来、子どもに「わかってほしい」と求めるものではないのだと思います。子どもには子どもの理想がまたあって、それは子どもが自身の代で実現すればいい。そういう考え方です。

不満がある。それは大いに結構。もちろん、親子間で背景や大切にしている想いが伝わればそれに越したことはないですが、説明しても上手く伝わるかや、納得感があるかどうかは別です。

友人や職場であれば、根本的な価値観が合わない人とは極力関わらないようにできますが、家族となるとそうはいきません。それがわたしにとって、大きなストレスになっていたようです。

だからこそ、ちょっと無責任な考え方かもしれませんが、ついつい考えすぎて、思い詰めてしまうわたしにとっては、これくらい肩のチカラを抜いた考え方がしっくりきたのでした。

諦めではなく、肩の力を抜くということ

結局、家族のことで悩んでいたのは、大切な家族というつながりだからこそ、自分の考え方を「わかってほしい」という想いが強くなりすぎていたからだと思います。

もちろん、最初からわかってもらうことを諦めて、会話することもないままに先ほどのような考えを導入するのは乱暴だとは思いますが、もしそれで冒頭に示したような「自分を責める」要素になってしまっていたら、ぜひ参考にしてもらえたらうれしいです。

「理解してもらえない」と思うのはどこか寂しさもあり、対話を諦めるようで躊躇していたのですが、これくらいのほうがかえってフラットにちゃんと話せるようになった気がします。

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花邑 灯火 @リ・キュレーター 自主企画コンテスト「灯火杯」の賞金や美術館、書籍や有料購入など、note活動のために使わせていただきます!

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