型に嵌るのが癖になっちゃった夏の終わり
主は、地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見て、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
1
「くたばっちまえ」
小説ではない。
リアル実社会で、吐き出される言葉だ。
大概は会社など組織が腐りきっている状態に向けての呪詛の言葉だが、どんなものでも人がいなければ良くも悪くもならないのだから、もとをただせば人に向けてのモノである。
実際ひどい。
あまりにひどいと人は不感症を装うか、
痴呆症を装うかだ。
知らぬ存ぜぬ感じずだ。
装ってるうちはまだいいが、やがてホンモノになっちまう。
そうなっちまったら、もう戻ってこない。
と、悲憤に暮れる人もいるが、どっこい平気なものもいる。
なぜ平気なのかが問題。
それは、取りも直さず、その当人が腐りきっている側、悪を垂れ流している側だからである。
本人に自覚がないのだ。
これで不感症、痴呆症の意味がお分かりだと思う。
言うまでもなく、日々のニュースはそれらのオンパレードだ。
2
世の中に、無自覚ほど恐ろしいものはない。
あるいは、良かれと思って日々破廉恥な行為を繰り返していることの恐ろしさは、殺人鬼の残虐さの向こうを張る。
そもそも悪を一掃しようという考えは危険である。
その考え自体が悪だからだ。
(大概が自分の中の悪、もしくは自分と言う悪は眼中にない。)
悪人が悪行をするのは当然である。
しかし、善人も悪行を成す(なにやら悪人正機説めくが💦)。
凡人や無知な者は、黙っていてもそれだけで罪をつくることもある。
なぜなのか?
彼らがいて、はじめて悪人が出動するからである。
善人、もしくは”善良な人間”のせいで悪人が悪さをするのだ。
どうだ、
となると、善人こそが立派にワルではあるまいか?
それは悪人のための存在理由だ。
悪人にとっての悪人は、それを配下にするか、利用するかしかできない。
然るに善人はわざわざ彼らのお膳立てをする。
でなくとも、善人たちが暗がりを恐れ、そこを離れている隙に、百鬼夜行が跳梁跋扈するのだ。
凡人や無知蒙昧なものがいずして、どうして悪人が動けようか?
百たびも騙されてなおかつ新たな商品に食いつく低判断があってこそ、TVショッピングは儲かるのだ。
なにも北さんが申し訳なさそうに「9万9千エ~ン💦」とやっているからではない。

なにも「今ご愛用のY様とお電話繋がってます。え? ただいま入りましたお知らせです。ただいまお陰様で在庫があと残りわずかとなってしまいました。ご注文まことにありがとうございます」のナビゲーターとYさんの申し合わせた煽りトークのせいではない。
それらを判断する側のお祭り好きも問題なのだ。
(まわりくどいがのう🤔)
3
これをお読みのあなたは善人である。
いや、否定されなくても結構。よくわかっている。
あなたはいい人である。
かく言う私も残念ながら善人である。
というかむしろ小人である。
少なくとも英雄には決してなれないタイプだ。
そしてあなたも私も、都合よくも、世界中がいい人でいっぱいであればいいと思っている。
しかし、そもそもいい人である必要はない。
いい人であろうという気構えは現代の学校教育的な欺瞞から来る。
では理想はどんな人物像か?
それは「弱い人」である。
もちろん弱い人に「なる」のではない。
弱い人である自分や他人を見つめることだ。
その点、腕に自信のある人間は哀れだ。
彼は必ずさらに上手の存在に斃される。
剣によって立つものは剣によって滅びるのだ。
仏陀も、親鸞も、一休も、「いい人になれ」とは言っていない。
まして「強い人間になれ」とも言っていない。
人間が弱い存在であることを見つめただけである。
私は、仏教でもそうだが、その後の学者がまとめた荘厳な哲学(一般にはそれを「宗教」という)は、むしろ迷いや惑いの世界へ連れ去るか、あるいはロマンチシズム、センチメンタリズムに過ぎて、いまでは敬遠する。
哲学や教理では人は救われない。
いや、仏教も含むあらゆる宗教で人類は微塵も救われなかったことを自覚せずに、その先はないと思うのだ(とは、私の感慨であって、もちろんそうではないという異論があって構わない)。
とすれば、何が間違っていたのだろうか?────から始まらなくてはならないではないか?
(仏教に限らないが、完璧な思想体系が崩れるはずがない的な盲信迷信思い込みから始まってしまうと、もはや埒が明かない)。
4
私の場合は10代の若いころにその辺からはじめて、今ではそこを離反してしまった。
老子をはじめ禅語録や大乗の経典、密教、『秘蔵宝鑰』、『三教指帰』、安藤昌益の『自然真営道』、『二宮翁夜話』果ては『菜根譚』などが「おもしろい」として読みふけっている10代の若者は何者なんだろうか?
普通、若いころは仏教やスピリチュアルには興味を示さず、老境に入ってからそうした世界に目覚めるものだが、私のケースはまったくその逆である。
今では、神も仏もなく遊びまわっている子供のような、そんな心境こそ理想とまでに思っている。(笑)
それを「守破離」などと気取るつもりはないが、そもそも、この世で何らかの宗教なり哲学なりに出合ったにせよ、それはこの宇宙から見ればホントにローカルな、一事に過ぎないとも思える。
もちろん、他の惑星や恒星で、似た形の宗教なりがある可能性もあるが、私はなにか特定の思想に固執することがその個人の了見を狭めてしまうような気がしてならない。
しかし、よく考えてみれば、この惑星地球で生まれ落ちた人間が、何ごとかに思いを及ぼすのに、手掛かりとして先人・先達の思想を参考にするのは常道だろう。
そこまではよしとしよう。
私の周囲にも、仏教はじめ人間の生き方を睨んだ思想哲学が押し寄せているが、ある日、ハタと気づいたのだ。
「私たちはみな同じような沼(型)に嵌ってやしないだろうか?」
釈尊がこの世から四苦八苦を無くすために、布教を始めた、とのお話を10代か20代に書いた。そして老境に差し掛かったついこの間も書いた。
四苦八苦は変わらない。
ていうか、煩悩の数はさらに増えた気がする。
そこで、仏教はなんぞや?
信仰の何ぞや?
だいたい、もし仏教なら仏教をかじって「無」だの「虚空」だのといった”概念”を学んだのであれば、もう「無」やら「虚空」に執着する要はない。執着しているのならそれは概念亡者だ。
そんなものどーでもいいのが、「無」である。

(私たちは論文を書くために信仰したり、それで単位を取ろうというものではないのだ。何らかの思想の真偽が分かった────結構なことだが、問題はそんな解説ではない、それが人類にとって、いやあなたにとってどのようなことなのか? それが重要だ。知識は結構。分析は迷いを生むばかりだ。)
そこへ持ってくれば、クリシュナムルティが晩年「仏陀についてどう思われるか?」の問いに、しばし沈黙の後、「私はその存在を知らない」と答えたのは名答と言うべきか。
このところ、自分は「中途半端でいい」とか「完成しないままでいい」「悟りなど無意味」的な(・・的?もあったもんではないが)ご託宣を垂れてきたが、もっと(語弊を恐れずに)言えば、仏教もあらゆる宗教・哲学も、ましてスピリチュアルの一切もお呼びでないのだ。
それらは、自分(=大自然でも大宇宙でもケッコー)から既に分離したものだからだ。
自分の発見、自分の目で見て、耳で聞き、足で歩く。
これこそが、生きているということ。
5
また来年も型通りの夏がやってくるのに違いない。
人はみな同じように目立たないよう声色を落とし、同じように目立たない程度の善人を装うのだ。
そこで、またぞろ人類の築き上げた過去の叡智を紐解きつつも、とてもその程度の功徳では追いつかないほどの人の業の深さに直面して、肩を落とすのだろう。
おそらくは、ざっと2万5千年ほどは毎夏のようにそれを繰り返してきたのだ。
人は、どこかの「悪」が日夜世界を闇に変えていくのだ、と考えたがる。
暗澹たる人類の未来を憂いはするが、決してその人類の中に自分はカウントされない。そんな目に映った「世界」(それは「世界」ではなく、その残像だ!)の救済のために、祝詞をあげたり、真言を唱えたり、十字を切ったり、護摩を焚いたりする。
その手前勝手さが、この変わり映えのしない日常を形作る。
「くたばっちまえ」
真っ先にくたばらなければならないのは、その頑ななまでの「殻」である。
現代の論理学的な方法論を打ち破らない限り、ドラスティックな転換は期待できない。
冗談ではない。
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東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。