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聖都巡礼記 vo.12

 嘆きの壁の広場では、設置された巨大なスピーカーから甲子園の応援のような爆音が鳴り響いてた。荷物検査場では、サングラスをかけたアフリカ系のスタッフが、僕の顔を見るなり引ったくるようにショルダーバッグを持ち上げ、台上に叩きつけた。「まーたコレだ」と内心うんざりしながらも、「Thank you!」と軽やかにゲートを抜ける。

嘆きの壁

 無料のキッパを受け取って、壁の前へと歩み寄る。積み上げられた石の隙間に、たたみ込まれた無数の紙片が詰め込まれている。ここを訪れた参詣者たちが、祈りや願いを書いた紙をねじ込んでゆくのが、伝統的な慣習なのだ。左右を見渡せば、黒い背広にハットを被り、もみあげを伸ばして編み込んだ正統派のユダヤ教徒たちが、一心不乱にトーラーを読唱している。独特なグルーヴがスピーカーの音楽と相まって、「場」そのものをトランス状態の渦に呑み込んでいた。隣接する小部屋でも、並べられた机に向かってラビたちが一斉に唱和している。2000年に及ぶ彼ら離散の民の、帰還と復活への憧憬が、旋律となってこだました。

頭に被る「キッパ」 イメージ

 そのまま上にある神殿の丘へと足を向ける。エルサレムにおけるイスラーム最高の聖地は、嘆きの壁、つまりかつてのユダヤ教第二神殿の、跡地の上に聳え立っているのだ。ユダヤ教徒、特にイスラエル王国の復活を悲願とするシオニストたちにとって、ここに新たな「第三神殿」を打ち立てることが「神に与えられた使命」であり、それは同時に「必然的な宿命」に他ならない。
 この両域を越境するように訪問する行為は僭越そのものだが、極東から来た異教徒の特権でもある。媒介者は常に部外者なのだ。

神殿の丘

「ここがモスクだ。おまえはムスリムじゃないから入れない。ここから覗いてみろ」

神殿の丘への階段を昇った直後に話しかけてきた老人に急かされ、窓の格子から中を伺う。カーペットに座った男女が祈りを捧げている。

「なかなかここを訪れるアジア人はいない。よく見ておくんだ、ここは最も神聖なモスクだからな」

一方的にガイドを始めた老人は抑揚の利いた滑らかな英語で説明したが、僕にはよく聞き取れない。5分ほど喋って一息ついたのか、10シェケル要求して去っていった。インシャラー。全ては主の御心のままに。

 目に映る全てが壮麗だった。白い石を敷き詰めた広場に聳える岩のドーム。周囲に揺らめく人々の、まばらな影。晴れ渡った空から降り注ぐ陽光は、恩寵のように肌を焼き焦がす。片隅にあるローマ時代の廃墟のような一角で、子どもたちが遊んでいる。近づくと笑顔で囲んでくれた。

「ねぇ!どこから来たの?」

日本人だよ、と答えると、それだけで満面の笑みを見せてくれる。井戸の清水のように澄んだ瞳に、陽光が乱反射して輝いた。遺跡に座ってぶらぶら揺らす脚が幼い。こんなにも美しい子どもたちが、今もどこかの爆撃で散っているなどとどうして信じられようか…?その事実の一体どこに、正義が見いだせるというのか?今なお苛烈さを増す現実の、あまりの不条理が胸を締め付けるから、思わずその場で泣き出しそうになってしまった。

 ドームの傍らには、陽射しを避けるためにテントが張ってある。しばらく歩き回った後、その角に立って休んでいると、2人組の白人女性がこちらに向かって歩いている。

「Is he Turkish?」

「I don't know.」

アメリカ訛りの英語。おそらく大学生だ。岩のドームを背景に、写真を撮ってくれとの依頼だった。数枚シャッターを切って、手渡されたNikon D3300を返す。念のため画像をチェックしてくれと伝えたが、プレビューが表示される前に

「Yeah, yeah, It's OK! Thank you!」

と返事しながら去って行った。辺りを静寂が支配する。日陰に涼むブルカ姿の女性の間を、乾いた風がすり抜けた。

 しばらく夢遊病患者のように突っ立っていると、防弾ベストに銃を携えた警備兵が、険しい顔で僕に向かって手を上げた。指先で腕時計を指し示している。退出時間だ。一瞬で我に返った僕は、早足で丘を下った。

アル=アクサー・モスクを左手に、オリーブ山を望む
ダビデの城塞 内部
ヴィア・ドロローサ巡礼者
イエスが十字架を担いだ道をなぞる


 夕方、誰もいないホステルの椅子に座って、日本で待っている少女に思いを馳せた。偶然出会ってからずっと慕ってくれて、初めてのアルバイト代で傘を買ってくれた。そこに居るだけで空間が浄化されるような、澄みわたった存在感を放っている、稀有な存在。間違いなく、聖霊に祝福された魂だ。一緒に『バガヴァッド・ギーター』や井筒俊彦の『意識と本質』を読んで意見を交わす日々を送った。

 あらゆる宗教には言葉を超えた次元、真理そのものが直截開示される神秘領域、「密教」が存在する。日本の真言宗はいわずもがな、神道なら修験道、ヒンドゥー教ならヨーガ、キリスト教ならミステリオン(秘蹟)やヘシカズム(静寂主義瞑想法)、イスラームならスーフィズム。そして、ユダヤ教の「カバラー」。特に16世紀のパレスチナに現れたアイザック・ルリヤは、13世紀末に著された神秘主義根本経典『ゾーハル(光の書)』を基に、この現象世界を神の収縮による不在状況、「ツィムツェーム」としてとらえた。ルリヤの世界観によれば、この宇宙は壊れている。が、人間の手で修復できる。物質世界に閉じ込められた、神の光を解き放つことによって。そのためには、我々は物質的欲望を抑えて節制に努めなければならない。

 だが、神は世界を望まなかったのだろうか。この宇宙は、創造の初めに「よし」と言祝がれたのではなかったか?

 シモーヌ・ヴェイユは、この世界を神自身の「無化」による「自己贈与」として受けとめた。神は全知全能、万能である自身をあえて制限し、そのエゴを抑制・無化することで、我々被造物を祝福してくれたのだ、と。であるならば、人間は己の存在を神に明け渡すべく、放っておけばどこまでも肥大する自己執着の「重力」に逆らわなければならない。しかし、人間は非力だ。この卑小な力で、神と同じ業を成すことなどできやしない。だからこそ、その「無化」によって内なる神の恩寵に満たされることで初めて、この大業は成就する。神と人の共同作業としての世界創造。それはまるで、密教における衆生と仏の「加持」そのもの。神の「恩寵」、それは無垢な魂に宿る、聖霊の光輝なのだ。

 日本を発つ前、彼女にパウロ・コエーリョの『アルケミスト』をプレゼントした。物語の終わり、主人公の少年は冒険の旅の果てに故郷に帰還する。初めから財宝はそこに在ったのだ。僕はポケットから愛用のFOMAを取り出し、日本で待っている少女にメールを打つ。

「明日帰るよ」

夕暮れ時の、虹色に染まりゆく聖都の空に、コーランの詠唱、「アザーン」の旋律が響きわたった。


2026年7月16日 擱筆

【使用機材】
RICOH:GR
SONY:α6000,SIGMA 30mm f2.8 DN Art
再現イメージ:Gemini
再現イラスト:Autodesk Sketchbook

ナザレでのセルフ・ポートレート(2015年6月18日)