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聖都巡礼記 vol.11

 久しぶりのエルサレムの喧騒は、むしろ安堵の念を抱かせた。

 テルアヴィヴで無為の3日間を過ごした僕は、帰国までの数日間をエルサレムで過ごすことに決めた。見ておかなければならない場所も、まだたくさんある。

エルサレムへのルート

 手初めにダマスカス門からすぐの「パーム・ホステル」に向かう。親日家のオーナーが経営するホステルで、テルアヴィヴですり減らした神経を休めるのにうってつけだと思われた。ダマスカス門の目と鼻の先の幹線道路を渡りきろうとした、そのとき、一帯に稲妻のような悲鳴が響きわたった。振り返るといきなり装甲車が急停車して、完全武装した兵士たちが一斉に飛び降りフォーメーションを組む。アサルトライフルの銃口が、周囲の人々を威圧した。群衆は蜘蛛の子を散らすように逃げまどう。僕も一目散に走って逃げた。

現場付近

 ゲートでインターフォンを鳴らしてしばらく待つと、40代半ば頃の端正な顔立ちの男性が姿を見せた。受付でチェックインするためにバックパックのパスポートを漁っていると、アンワルさんは不安の滲んだ表情で口を開いた。

「さっき外で何があったんだ?」

「いや、僕もよく分からない。交通事故か何かじゃないかな(I have no idea. It may car crushing or something I guess.)」

この辺りはパレスチナ人が多く住むエリアだ。イスラエルの兵士が展開するレベルの出来事は珍しくないだろう。しかし余計な心配をさせても無益だ。僕は詳細を端折った。

 ガイドブックや会田さんから得た情報から、カメラ内にパレスチナ自治区やそれに関連する画像が見つかった場合、空港の保安検査場などで尋問されるケースがあることを知った。そのため、僕はタブレット端末の「Sony Xperia Z Ultra」に差し込んだMicroSDカード内に、さらにディレクトリファイルを作成し、そこにイェリコやベツレヘムで撮影した画像を保管していた。我ながら完璧なデータセキュリティ体制だ。だが、それが裏目に出た。盗まれたのだ、タブレット端末ごと(パレスチナ自治区の画像をイメージで誤魔化していたのはこのためだ)。

パーム・ホステル室内

 旧市街城壁内部の観光地化されたスーク(商店街)と違って、一般のパレスチナ人居住区のスークは洗練されていない。というより荒れている。あちこちに生ゴミやガラスの破片が散らばり、電力不足で昼間でも薄暗い。さながら一昔前のニューヨーク、ハーレムのようだ。あちこちの壁にスプレーが吹き付けられた路地裏をさ迷い歩いていたとき、2人組の青年にしつこく話しかけられた。適当にやり過ごした数十秒の間に、ショルダーバッグのジッパーは開け放たれて、中が軽くなっていた。近くの警察署で盗難書類を作成してもらおうと立ち寄ったが、武装した警官は「よくあることだ(Typical crime.)」と取り合わない。金属探知ゲートをくぐってオフィスに進んでも、たらい回しにされて徒労に終わった。なぜか署内の階段手摺に、齧りかけのリンゴが放置されていた。僕は写真の半分を失った。

 およそ一週間ぶりのホステルPETRAは、客の顔ぶれが変わっていた。チェコ人は去り、かつて会田さんが寝ていたベッドには、メキシコ人の「ガス」が横たわっている。彼の自前の枕には、ブロンドの白人女性の写真がプリントされていた。メキシコから中東を経由して、恋人の実家があるドイツを目指す旅の途中だそうだ。彼女は先に帰省したらしい。

「ただね、時々よく分からなくなるときがあるよ」

彼女について語る途中、彼は少し切なそうな目元を見せた。大学生の国際恋愛には、きっと複雑な障壁が隠れているのだろう。大学時代を恋愛と無縁に過ごした僕は、黙って頷くしかできなかった。

 ある日の昼前、エントランスのソファーで、6年前の2009年、学生時代にメキシコを2ヵ月旅したことを話した。チアパスやテオティワカンの遺跡の思い出を伝えたら、ガスは「あーハイハイ」とでも言いたげな表情を浮かべた。

「6年前は何事もなく旅行できたけど、今の治安はどんな感じ?」

他意もなく投げかけた質問に、ガスは突然気色ばんだ。

「どういう意味だ?何が言いたい?」

一瞬緊張感が張り詰めたが、

「特に問題ない。観光地から外れなければ安全だ」

そう言って場は収まった。

 ホステルPETRAの屋上には、旧市街をオリーブ山まで一気に見渡せるテラスが設えられている。手すりにもたれて金色に輝く岩のドームを眺めていると、工事現場の轟音に紛れて鐘の音が聞こえてきた。わずか1平方kmに満たない土地に、世界三大宗教の聖地が密集している。確かに、会田さんが言うように「世界そのもの」かもしれない。椅子に座っているヨーロッパ系の女の子たちの会話に耳を傾けていると、インド人の家族がやって来た。挨拶を交わす。立派な体格に、堂々とした歩きぶり。ハイ・カーストだろう。背後に娘とおぼしき若い女性と、その半歩後ろをひっそりと付き従う老女。世界はかくも多様なのだ。階下に降りると、同じ部屋に宿泊しているフランス人がいた。

「是非フランスに来るべきだ。イスラエルは素晴らしい土地だが、食事が良くない。禁欲的すぎる。フランスは美味しいもので溢れてる。帰国したらすぐ来いよ」

ユダヤ人向けの宗教食「コーシェル」は、聖書の記述通り、厳密な手順で作られる。最低限の素材で、肉には徹底的に火を通して作られるその料理は、味ではなく「身体の維持」を目的としている。フランス人には耐えられないのもよく分かる。食事行為そのものを、神への礼拝として捧げるのだ。大仰な手振りで情熱たっぷりにプレゼンしてくれた彼は、夕方になると決まってベランダでタバコをふかすのだった。

路地の肉屋


 午後に訪れた博物館に、有色人種は僕だけだった。受付の男性は、やけに丁寧に、ゆっくりと英語を話す。どのフロアを巡っても、アジア人はおろかヒスパニックも、アフリカ系も見当たらない。一気に心拍数が上がって、体が熱を帯びる。圧倒的マイノリティの立場に立たされる無意識の緊張感。それがここまで切迫したものだとは、想像すらしたことがなかった。そのまま古典絵画の展示エリアへと進んだ。

博物館の中庭施設

 入館してから何回も、警告ブザーが鳴り響いている。絵画や彫刻の数十cm手前にラインが引いてあり、それを踏み越えるとブザーが鳴る。僕も一度だけ鳴らしてしまったが、同じ部屋の子どもが何度もラインを踏み越えていた。隣の部屋に移動してルネサンス期の油絵の前に立ち止まった時、ブレザーを着た小太りの監視員が駆け寄って来た。白髪の多い頭髪を後ろ向きに撫で付けた額は紅潮し、眼鏡の奥では瞳孔が開いている。口角を歪んだように吊り上げて、彼は一気に捲し立てた。

「このラインを越えちゃだめだ。さっきから鳴り響いているだろう?警告の合図だ。足元に気を付けるように。分かったな?(Understand?)」

いきなりのことでびっくりした僕は、一度踏み越えたこともあって反論することもできずに頷いた。その瞬間、またしてもブザーが鳴った。

 イスラエルとアートの関係は複雑だ。そもそもユダヤ教では偶像崇拝を禁止していることから、アートを「金の子牛」と同じ文脈でとらえてきた。目視することができず、世界を根源から在らしめている、遍在する「霊」である神から離反する行為としての創作活動。作品をあたかも自らの被造物として誇る、神の業への反逆としての驕り。それゆえ、イコンや聖像を許容することで教線を拡大してきたキリスト教と差別化し、信仰的優位を自任するためにも、芸術活動やアートそのものが、忌み嫌われ唾棄すべき対象だった。

 イスラエルが建国される際、この点が議論の的となる。そもそも信仰と言論を抑圧し、自らの存在を否定し抹消しようと試みたナチス、そしてヨーロッパの欺瞞から逃れるために、ユダヤ人はホームランドを欲したのではなかったか?第二のドレフュスを出現させないために、言論の自由は保証されなければならないのではないか?そもそも言論・表現の自由とは、無軌道な政治的プロパガンダの自由ではない。自らの存在基盤である信仰と信念を堂々と貫き表明するための、命懸けの投企ではなかっただろうか?

現代アートエリア

 イスラエルが近代民主国家として出発するにあたってこの信念を具体化すべく、アーティストたちは文字通り命懸けの活動を行った。聖書の記述を神の言葉そのものとして一言一句厳守する超正統派と、近代主義的世俗派の間で何度も衝突が繰り返され、その過程で犠牲となった者は1人や2人ではない。画家の道を絶たれた芸術家たちは、写真や映画に生きる道を見出した。近年日本でも人気が広まった写真家ソール・ライターにしてみても、その作品は歴史的葛藤を「アウフヘーベン」する形で結晶化したものだ。具体的事物を記録するカメラを用いながら、極端に抽象化された「図像」に近い写真の数々。それは偶像崇拝という「禁止」を「侵犯」した先にある、ギリギリの実存形態としての「恍惚」。物理現象世界という神の奇跡を言祝ぐ、「祝祭」なのだ。

中世の写本
トーラー(モーセ五書)の巻物を収納するための金属製のケース
ヘブライ語で「ティク(Tik)」

 古代ユダヤ教遺物エリアで別の監視員に尾行された後、死海文書博物館を観て外に出る。振り返ると、建物の2階から「NO MORE DISCRIMINATION」と書かれた垂れ幕が下がっていた。そこに描かれた、アフリカ系やアジア系が仲良く白人と手を繋ぐ絵柄を尻目に、僕は博物館を後にした。隣接するビリー・ローズ・ガーデンから聞こえる鐘の残響を、汗ばんだ背中に受け止めながら。

死海文書博物館

 夕食まで時間があるから、足を踏み入れていない東部エリアに散策に出た。旧市街の51%がムスリム居住区で、アラブ料理屋やモスクがひしめいている。その分政府の監視も激しい。通りの十字路では、武装した兵士を乗せた装甲車を頻繁に見かける。イスラーム帝国による中東支配は十字軍遠征を経てもなお続き、オスマン帝国の解体後も、旧市街の実質的な支配民族はアラブ人だ。聖都を象徴する神殿の丘、かつてのソロモン神殿の跡地に建つ聖なるドームが、その歴史を体現している。極めて繊細なバランスで成り立っているこの街は、あたかも都市が歴史を作るのではなく、歴史が街の形を保っているようだ。自らのアイデンティティを証明するための物質的装置。それがエルサレムなのだろう。

 東部のライオン門に向かう途中、壁に掛かった垂れ幕に目が合った。

「アルメニア人虐殺を忘れない」

そう書いてある。ローマ帝国より早い301年にキリスト教を国教としたアルメニアは、最古のキリスト教国家として独特の存在感を放っている。トルコとの歴史的因縁は、今もこうして実体化しているのだ。

 門が見えてきたころ、突然アラブ人の集団が通りになだれ込んできた。礼拝が終わってモスクから出てきたのだろう、何かのワードをシュプレヒコールのように叫んでいる。高揚した集団は一致団結し、一定のリズムで繰り返されるチャントにボルテージが上がり続ける。数百人のムスリムの沸騰寸前の勢いに気圧されて、僕は走ってライオン門を抜け出した。

ライオン門付近