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「対話」が教室のファシズムを加速させる時

これまで複数の高校と大学でゲスト講師としてお話ししてきたけれど、生徒さんや学生さんから、一定の割合でよく出てくるのが以下のような感想です。

・(トランス差別を指して)必要な差別もある。

・多様性を拒否する多様性も保障されるべき。

・マイノリティの要求をマジョリティに押し付けないで欲しい。

・マイノリティにいちいち配慮していたらキリがない。

・マイノリティへの配慮はマジョリティへの制限につながる。

・生きづらさにいちいち声を上げていたら、理不尽な人生を生き抜けない、それくらい我慢できる強さを身につけるべき。

・マイノリティがその集団に何%いたら、配慮すべきなのか。

差別があからさまな悪意のある言動としか認識しておらず、構造的差別への視点を持っていない(知識がないから持てない)。そして、人権問題は限られたパイの取り合いと考えているため、マイノリティが適切な処遇をされると、自分たちのパイがマイノリティに奪われていると思い(=相対的剥奪感)マイノリティに対して敵意を持ってしまう。また、理不尽なことに声を上げてもいいと学んできていないから、声をあげる人たちを「わがまま」で「弱い人」とみなしてしまう。そしてかれらに共通しているのが大きな不安を抱えているということ。

不安を抱えたままでいるのがしんどいから、すぐに解消できる、分かりやすい答えに飛びつきたくなる。「必要な差別もある」「配慮はキリがない」「我慢する強さが必要」というのは、複雑でモヤモヤする状態を抱え続ける力、いわゆるネガティブ・ケイパビリティが育っていないから出てくる言葉なんだと思う。本当は、構造的な差別や人権の話は、すぐに白黒つかない、時間をかけて向き合わないといけない問題のはず。でも、不安に耐えられないから、「マイノリティが我慢すればいい」「配慮は制限だ」という、即効性のある(でも間違っている)答えに飛びついてしまう。

まさに今の社会の縮図だなと思う。

子どもの時から、人権について学ぶ機会を保障する必要性を強く感じる。高校、大学でいきなり教えても、すでにSNSで流布している言説に染まっているので、単発の授業で話してもなかなか伝わらない、そんな難しさを感じている。

人権の知識を子どもが持たないまま、民主主義教育や対話という理念先行で、ディスカッションさせると、教室内でファシズムとポピュリズムが横行することは容易に想像できる。その時に脅威にさらされるのは、マイノリティ性をもつ子どもたちだ。

対話や熟議というのは、教室の中で最低限守られるべき権利がまず共有されていて、はじめて機能するものだと思う。それが共有されないまま「話し合おう」を実践すると、結局その場の多数派の感覚が規範になり、少数派の子どもがそのつど自分の存在を弁明させられる場になってしまう。

さらに厄介なのは、多数派の共感を得やすい語り口で話せることが、「コミュニケーションスキル」や「対話力」そのものとして評価されてしまう危うさだ。実際には多数派の直感や規範に合わせて話しているから通りやすいだけなのに、それが個人の「能力」の高さとして誤解されてしまう。そしてこの状態で対話や熟議を経験してしまうと、その経験自体が「自分たちの直感は正しかった」という確信を強化してしまう。「ちゃんと話し合って、みんなが納得する結論に落ち着いた」という手続き的な正当性の感覚まで手に入れてしまうから、後から構造的な視点を入れようとしても、「もう十分議論した」という抵抗に遭いやすいなと思う。

「対話」を掲げる学校は多いけれど、それを本当にやるなら、ここまで書いたようなリスクと面倒くささを引き受けることになる。教室に最低限の権利が共有されていない対話は容易にファシズムやポピュリズムの温床になり、多数派の語りやすさが対話力と誤解され、経験そのものが誤った確信を育ててしまう。それを見越したうえで場を設計し、必要なときには介入する。それができるだけの覚悟と知識が、教員の側に求められているんだと思う。「対話しましょう」は、かけ声だけで機能するほど簡単なものではないなと。

人権教育は、民主主義教育や対話の土台であって、あとから足すもので済むものではないとあらためて思う。

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