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『葉』  太宰治  感想文

この小説からは、明らかにその時期に負っていたであろう思い詰めた作者の感情、精神的な動揺に我慢出来ず、文学の形式をも構わず吹き出さずにはいられないというような切迫感をもって綴られていると受けとった。

二十五歳の時の作品であるというが、小説家としての素養はありながら上手く書けた時の「選ばれし存在」という喜びと、書けない時の小説家としての重圧が不安と絶望へ変わっていく日常に起こる思いが、最初のヴェルレーヌの詩によって表現されているのだと思われた。

夏の着物を一反もらい、「夏まで生きていようと思った」という冒頭の言葉はよく耳にするのだが、私には悲しく美しい流れで聞こえる反面、つくづく気障なセリフだなと思えてしまう。

「自棄(やけ)」。
目の前の異常さに何の感情も動かないほど、頭の中は別なことで区別がつかないほどいっぱいなのだ。
「渾沌」。

自分をわかって欲しい、自分の存在を示したい、そんな苦しみが伝わってくるのだが、「自殺を処世術みたいな打算的なものとして考えていた矢先」(新潮文庫、p.9)というあまりに軽い言葉が、何ともいえずその時の太宰を語り、自殺が自分を有利にしてくれる手段であるかのような甘い計算があるのだとしたら、かなりショックである。

『哀蚊(あわれが)』という短編小説、婆様と孫の描写が氷のように美しくそしておどろおどろしいのだが、作者の本当の体験はどの部分であったのか、読者を喜ばせるためのフィクションはどこまでなのかがとても気になったが、文章の流れがとても美しかったのでつい引き込まれてしまう。これも作家の才能なのだと。

「秋まで生き残されている蚊を哀蚊と言うのじゃ。蚊燻し焚かぬもの。不憫の故にな」(p.13)

婆様は、「なんの。哀蚊はわしじゃがな。はかない……」と言うシーンが、ガラスの冷たい悲しみのように伝わってくるのだが、書くことが出来ない作家として生き続けなければならない太宰も、哀蚊のようだという悲哀も響いてくるようにも思えた。

花売りの異人の女の子、売れないながらも、これから咲きそうな花をいつも一本選んで渡すいじらしさ。このお話が好きだ。

生き生きとした花を売りたいと思っても、花屋から屑花を払い下げてもらったもので、どんどん枯れかけていく花たちに女の子の心が消耗していく悲しみが冷たく刺さった。

引用はじめ

彼女が屋台を出て、電車の停留所へ行く途中、しなびかかった悪い花を三人のひとに手渡したことをちくちく後悔しだした。突然、道端にしゃがみ込んだ。胸にじゅうじを切って、わけのわからぬ言葉でもってお祈りをはじめたのである。おしまいに日本語を二言囁いた。
「咲クヨウニ。咲クヨウニ」(p.27)

引用おわり

花咲くように純粋な気持ちを持った異人の子、多分美しい少女である彼女を描くことで、現実の汚れた自分の世界を拭い去りたいという気持ちの現れであるかのような感じがしてならない。
また太宰の愛した人の象徴のような美しい女の子であったのか。それらの悲恋が含まれているようにも思われた。

「咲クヨウニ。咲クヨウニ」は
小説家である自分の作品が「咲くように!」、しかし咲かずに散ってしまうかもしれないという自己否定のような恐れなのかもしれない。

「ほんとうに、言葉は短いほどよい。それだけで、信じさせることができるならば」(p.9)

書けば書くほど嘘を重ねてしまう自己嫌悪なのか、太宰の小説家としての本音と苦悩がこの言葉の奥に見えたような気がした。

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