【ほんのり怪異】 赤い追走者
カーテンの隙間から赤い夕陽が差し込み、気怠い風が窓から吹き込んでくる。出汁の匂いが立ちのぼるキッチンで、ミキコは冷蔵庫から麦茶を出し、乾いた喉を潤しながら、昼間のことを思い出した。
「――あのさ、もう、本当に馬鹿馬鹿しいの。聞いてくれる?他人の夢の話なんて、興味ないとは思うんだけど…」
ミキコの高校の同級生のサオリは、ランチの後のアイスコーヒーを一口飲んで、話を続けた。
「追いかけられる夢を見るの。赤い人?人っていうのかな…人の形をした赤いもの。もう2週間も、毎日。怖くて怖くて、とにかく逃げたり隠れたりしてるんだけど。追いかけてくる姿も気持ち悪くてね、関節がないというか…足はあるんだけど走ってる感じでもない――。」
「それは、ちょっと目覚めも悪そうね。ちゃんと眠れてる?ストレスとか溜まってないの?」
「ストレスか…そんなことないと思うんだけど…突然、変な話してごめんね。」
少し眉間に皺を寄せ、サオリは自分を嘲笑するように鼻で笑った。その後は互いの近況を話して、二人は別れた。
火を止めた鍋のなかで、ゆっくりと味噌を溶きながらミキコはサオリのことを考えた。ミキコは、流されるように30代後半までぼんやりと生きてきた。サオリは、ミキコとは対照的に、パワフルでコツコツとキャリアを重ねてきた。ミキコにとっては頼り甲斐のある自慢の親友だ。独身主義の彼女は、結婚願望もないし、仕事だって順調。何か私が知らない悩みでもあるのだろうか――。また近々、ランチに誘ってみようと心に決め、味噌汁の味見をしていると玄関のチャイムが鳴る。
「ただいま。」
夫のマサユキが仕事から帰宅すると、疲れた顔をしている。
「仕事で、何かあったの?」
「いや…、最近、夜、眠れなくてさ。それかもな。…夢見が悪いんだ。赤い、人?みたいなものが追いかけてくるんだよ。走り方も変で気持ち悪いから、必死で逃げてるんだけど。――今夜も、だろうな…。」
ミキコは内心驚いたが、サオリの話は黙っておくことにした。偶々かもしれないし、マサユキの疲れた顔を見ていると、あまり騒ぎ立てるようなことはしたくなかったからだ。
次の朝、目を覚ますとマサユキがいない。どこに行ったのだろうとミキコが家中探していると、玄関のドアが開いた。赤いトレーニングウェアを着たマサユキがタオルで汗を拭きながら部屋に入ってきた。
「――おかえりなさい、突然、どうしたの…?」
マサユキは苦笑いしながら答えた。
「それがさ、昨日も、赤いのに追いかけまわされてさ…逃げ回っていたんだけど、とうとう捕まって。」
「…それで?」
「――顔を見たら、俺だったんだよ、昔の。多分中学生くらい。顔は笑ってた、笑ってたけど目の奥は笑ってなかった。はは…」
冷蔵庫から出した麦茶をマサユキは美味しそうに飲み干すと、少し懐かしそうに微笑んで言った。
「それで、朝、目覚めたら、突然走りたくなってさ。俺の青春だったんだよ、陸上してた中学時代は。特別良い成績を残したわけじゃないけど、無我夢中で走ってたんだよ。のめり込んで、挫折してさ。うん、青春だな。」
ミキコは驚いた。健康診断で引っかかっても決して運動なんてしなかったマサユキが、たかだか夢の一つをきっかけに早起きして走るなんて、信じられなかったからだ。その朝から、マサユキの朝のランニングは日課となった。
その日、ミキコはサオリに連絡をして次の週末にランチの約束をした。サオリの夢の続きがどうなったのか気になったからだ。
週末になると、二人は最近オープンしたばかりのイタリアンのお店で待ち合わせをすることにした。早めに着いて、店の前で待っていたミキコだったが、程なくしてサオリがあらわれた。サオリは真っ赤なワンピース姿だった。
「赤いワンピース、素敵ね。」
「ありがとう、最近、よく着てるの。」
二人は、店に入り、ランチを注文すると、どちらからともなく話し始めた。しかし、ミキコが気になっているのはサオリの真っ赤なワンピース、――赤い追いかけてくるもののことだった。
「ねぇ、この前言ってたでしょう?夢で赤い…」
「あぁ、そのことなんだけど…ミキコに相談した日の夜にね、とうとう捕まっちゃった。私の顔をのぞき込んできて、目が合って…私、驚いた。――大学時代の私だったの。笑ってたけど、目の奥が真っ黒でね…すごく怖い顔してた。」
サオリは、デザートのガトーショコラを頬張りながら、にやりと笑って続けた。
「それでね、目が覚めたら、突然、テニスをやりたくなっちゃって!ほら、私、大学時代テニスサークル入ってたでしょ?毎日、単位そっちのけで練習に明け暮れて――、なかなか強かったんだから。」
そう言うと、得意げな顔をして、最後のガトーショコラをフォークで掬って口に入れた。ミキコは何とも奇妙な話を身近な2人から聞かされ、驚きと同時に違和感を覚えた。
「それで…、今、あの夢は?」
「もう、見ない。」
ミキコは、その日着ていたサオリの赤いワンピースがやけに羨ましく見えた。
帰宅して、ミキコは考えていた。
――赤い何かの夢は偶然なのだろうか。
そんなことを思いながら買い物にいくと、赤い服を着た人は皆生き生きしているように思える。そう言えば、先週、実家に立ち寄った際、母は赤いカーディガンを羽織り、「最近、書道をまた始めたのよ。忙しくて辞めちゃってたけど。昔はねぇ、体力も気力もあったから、一晩中書いてたのよ。」と嬉しそうに言っていた。
ミキコは、どうにか夢を見れないものかと毎日考えてはみたものの、その兆候はない。マサユキに、夢を見始めたきっかけを尋ねたりもしてみたが、それもはっきりはしなかった。
しかし、とうとう待ちわびた夜が、訪れた。ミキコの夢のなか、赤く蠢く人のかたちをしたようなものが少し離れた場所からこちらをじっと見ている。正確には、顔は見えないが、こちらを凝視しているように感じた。ただ、追いかけてくる気配は全くない。仕方がないので、ミキコは、その赤い何かを追いかけることにした。赤い何かは逃げていく。
――待って、待って、待って!
ミキコは、どうにか捕まえようと必死で赤い何かを追いかけた。赤い何かは音を立てず、ぬるりと這うように妙な走り方をしながら逃げていく。そのときだった。追いかけていたはずのミキコは逃げていた。真っ赤な両手は震えている。赤い身体はどうにも重たく、熱く、醜くて美しい。息苦しいのに、何故か一つになった鼓動は妙に心地良かった。後ろからはミキコ自身が追いかけてくる。私は逃げているのだろうか、それとも、追いかけているのだろうか――。
結局、捕まえることは出来なかった。
いや、
捕まらなかった、なのかもしれない。
朝、目を覚ますとミキコは泣いていた。何故、泣いているのかは分からなかった。ただ、喉の奥から熱いものがせり上がって、涙となって溢れていく。マサユキを仕事に送り出し、ふと自分について考えてみた。
もし、赤い何かの顔を見ることができたとしたならば、いつの頃の私なのだろう。――そもそも、私が二人のように、何かに情熱をかけて過ごした時間なんて、これまであったのだろうか。
小学生の頃。向かいに住むミヨちゃんは、家にピアノがあって、毎日夕方になると、ピアノを練習する音が聴こえてきた。そして、辿々しい音たちは、日に日に美しい旋律となっていった。ミキコはそれが羨ましくて、親に自分も習いたいと泣きながら何度も頼んだ。しかし、ピアノを買う余裕も習わせる余裕もないと言われ、諦めたことを思い出した。ミキコは、そのとき、心の火のようなものがふっと消えたのを感じた。それ以来、ミキコは積極的に何かをしたいと親に頼んだ記憶はないし、何をするにも情熱のようなものは持ち合わせていなかった。
午後から、ふと思い立って、ミキコは近くの音楽教室へと足を運んだ。ピアノの体験レッスンを受け、そのまま入会をした。さらに、練習のためのキーボードを購入しようと店内を見てまわった。ミキコは、店の奥にぽつんと置かれたキーボードを見つけた。なんだかそのキーボードに呼ばれているような気がして、すぐに購入を決めた。その晩、マサユキは仕事から帰ると、リビングに置かれたキーボードを見て驚き、ミキコに尋ねた。
「もしかして、あの夢見たのか?良かったなぁ!」
「ううん、見てない。でも、もう、いいの。」
ミキコは、赤いキーボードを辿々しく弾きながら続けた。
「――追いかけることにしたから。」
あの日、静かに消えた小さな赤い心の火が、再び灯るような気がした。
mashiro🕯️
