異世界転生ものを観たはずなのに、あまり覚えていない――快適さと定着は、たぶん別の話だ
「記憶を消してもう一度観たい」という感覚について考えていた延長で、逆に気になることがある。
私は異世界転生もののアニメをかなり観ているのに、その多くをあまり覚えていないのだ。
いわゆる代表格と呼ばれるような作品だけではなく、1クールで終わる作品まで、かなり網羅しているほうだと思う。
観ているあいだは、ちゃんと楽しい。
むしろ好きだからこそ観ている。
導入にほとんどストレスがなく、一話の前半くらいで、もう物語の「起」はだいたい済んでいる。
主人公がどんな立場にいて、どんな能力を持ち、どんな快楽の回路に乗っていくのかがすぐにわかる。
その速さとわかりやすさは、疲れているときほど心地よい。
けれど、不思議なことに、数週間もすると内容をあまり覚えていない。
一年も経つと、「これ、もしかして記憶を消してもう一度観ているのでは」と思うくらい、輪郭が薄れていることがある。
もちろん、すべてがそうではない。
『Re:ゼロから始める異世界生活』や『転生したらスライムだった件』、『無職転生』のように、はっきりと脳に定着している作品もある。
だから単純に、「異世界転生ものは記憶に残らない」という話ではないのだと思う。
たぶんここで起きているのは、楽しめることと、深く定着することが別の働きだということなのだ。
多くの異世界転生ものには、いくつか共通の型がある。
転生、追放、チート、学園、ギルド、スローライフ、悪役令嬢、勘違い構造。
細部は違っていても、観る側の頭のなかでは、ある程度同じ棚に整理されていく。
すると一本一本が強い固有名詞として残るというより、「異世界転生ものとして楽しかった」という手触りのほうが先に残る。
しかも、そのジャンルの魅力は、まさにそこにこそある。
ゼロから複雑な文脈を読み込まなくてもいい。
主人公の立ち位置も、世界のルールも、快楽の方向も、早い段階で共有される。
一話の前半で物語が走り出してくれるあの感じは、ほとんど親切設計と言っていい。
観る側にとっては、説明を受けるというより、慣れた水温の湯船に入るような安心感がある。
ただ、その快適さは、記憶の側からすると別の顔を持っているのかもしれない。
あまりにも滑らかに入ってくるものは、強い引っかかりを残しにくい。
型が共有されているぶん、作品ごとの差異をわざわざ脳が強調して保存しなくても、とりあえず楽しめてしまう。
気持ちよく摂取できるものほど、あとから思い返すと「どれがどれだったか」が混ざりやすい。
そこに、動画配信サービスの普及による視聴環境の変化も重なっていると思う。
いまや、次のエピソードを一週間待つ必要はない。
私たちは完成した1シーズンを、週末にまとめて観きることができる。
いわゆるビンジ視聴だ。
数話まとめて、あるいは一気に一本観てしまうと、その時間はたしかに楽しい。
世界にも入りやすいし、連続した快楽としての密度も高い。
さらに、配信サービスの画面は、本編が終わると数秒で「次のエピソード」や「おすすめの別作品」を自動的に再生してくれる。
私たちが立ち止まる隙を与えず、滑らかな消費のレールをどこまでも敷いてくれるのだ。
けれど、そうして途切れることなく次の作品へ、また次の作品へと進んでいくうちに、前に観たものの輪郭はどんどん上書きされていく。
待つ時間。
次の展開を想像する時間。
一週間のあいだ、現実の生活のなかで物語の余韻を反芻する時間。
そうした「強制的な空白」が失われたことで、記憶を定着させるための糊のようなものが、いまの私たちの視聴体験からはすっぽり抜け落ちてしまっているのかもしれない。
似たラベルの作品が絶え間なく積み重なっていくようなもので、あとから取り出そうとしても、区別がつきにくくなる。
それでも、一部の作品だけは残る。
たぶんそれは、単に出来がいいからだけではない。
もちろん完成度はあるのだろうけれど、それ以上に、自分のなかで他の作品と混ざらない何かを持っていたのだと思う。
設定の異物感かもしれないし、キャラクターの傷かもしれないし、ある時期の自分の感情に妙に深く触れてきたのかもしれない。
だから、記憶に残らない作品が多いことは、必ずしも悪いことではないのだと思う。
その場で楽しい作品、そのときの疲れをほどいてくれる作品、慣れた型のなかで安心して浸れる作品には、そういう役割がある。
全部が人生に刻まれる必要はない。
むしろ、大半は湯気のように消えていくからこそ、そのなかでごくまれに妙に長く残る一本が現れたとき、その輪郭はよりくっきりする。
異世界転生ものをたくさん観ていると、ときどき「また似たような作品を観ている」と思う。
けれど同時に、その似たような作品群の海のなかで、なぜか沈まない作品がある。
前の文章では、「記憶を消してもう一度観たい」と願う作品について考えた。
けれど現実には、その逆もまたたくさんある。
観たはずなのに、輪郭を思い出せない作品。
その差のどこかに、快適さと定着の違いがあるのだと思う。
名作と呼ばれるものには、きっとそういう沈まなさがある。
システムの快適さに流されず、型のなかに紛れず、それでもこちらの記憶に居座りつづける作品だけが、あとから静かに名前を持ち始めるのだと思う。
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