果代の山が呼んでる・17 所轄の大田さん
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明治に入り、近代の行政村や戸籍など、社会の仕組みが一新され始めた頃、曽祖父は番所役人の末裔である本家の次男として生まれ、大正初年に村の荒町に比較的近い駅前に居を構えた。
祖父はそのまた末っ子次男で、戦後の時期に父から土地を譲り受けた。それが今の私の住むところになる。
祖父には歳の離れた姉が多く、嫁ぎ先など詳しいことはよくわからない。
本家や、祖父の兄の家も移住したため、果代に住むのは我が家のみ、苗字と家紋、それからこの地に住む場所を受け継いでいることくらいの、今となっては別物と言えてしまうかもしれない。
しかし、地元の歴史や、私の苗字を今に伝えた家の歴史もさることながら、それを掘り下げていくことが、祖父から始まる家族、私自身が何者なのか、またその人となりについて、何かしらの理解を深めることに繋がる気がした。
事実を確認できる情報は残念ながら多くない。しかし、単なる血縁地縁だけで語れない、我が家の人がのちの世代に伝えてきた精神が見つけられるのでは、と期待している。
中世の大田氏と、おそらく江戸時代から現代に連なる我が家との繋がりについて、ここはもう本当に憶測になってしまうがちょっと考えてみたい。
シリーズ冒頭でも断りを入れたが、大田は本作での仮の苗字だ。
日本史好きにはかなりのヒントになってしまうだろうが、実際の方の苗字は、何年か前の大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」で御家人の一人として登場する人と同じ。
源頼朝の信頼あつく、武勇に優れた侍だったようだが、頼朝の死後北条氏との抗争に敗れ、一族は東国一円や近隣諸国に逃げ延びたという。
この逃げ延びた一派か、あるいはその前から親戚筋の者が来ていたか、この大田一族が当国、果代のある盆地に拠点を構え、御家人をしていた記録が存在する。
しかし、中世の頃には明確な記録があった大田氏も、そこから戦国時代、江戸時代につながる足取りが歴史的資料からは確認できない。
御家人大田氏がいたとされる地は、現在は大田の地名が残り、明治時代は単独の村だったようで、ここを中心として、現在も大田姓は多い。
これは、御家人の家系としてこの苗字を最初から持っていた大田氏のほか、その御家人大田氏が元になったか、大田の名前が残る村に住み始めた地元の豪族が、御家人大田氏と姻戚関係を結んだか、あるいは地名を元に大田氏を名乗り始めたか、いくつかのパターンが考えられる。
実際、この近隣の大田さんは相当に世帯数が多い。もしかすると明治初期に全ての世帯が苗字を決めたこのとき、村の名前からとって大田を名乗り始めた家も相当数あるかもしれない。
果代の大田は、江戸時代に公的な苗字は名乗っておらず、明治に初めて採用する必要は考えにくく、以前から伝えられたものと考えるのが自然だろう。
いずれにしても、中世戦国時代に地頭のような、現場型の徴税や警護の役目を地域で追っていた、いわば公務員的な仕事を行なっていた家が、江戸時代の幕藩体制が構築される中で、果代に来ることになった、というのも、可能性としてあり得るかもしれない。
明治時代の曽祖父の代から番所の直系である本家から出た我が家だが、この系統の家族は各世代から公務員や教職など何かしら公共性の高い職業に就いた人間の多い家になっている。
これもまた、幕末から近代へ社会の体制が移行していく中で、それぞれの世代が自身や家の価値観に近い仕事を選ぶことになったものではないかと思う。
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