【非公開記録492】なぜ日本人の貧困率は30年間『2%未満』に固定されているのか?
貧乏であればあるほど、生活保護という制度から遠ざかる。
今の日本においてこれほど皮肉で、かつ冷徹な逆説はないだろう。
戦後から現在に至るまで、生活保護の保護率が2%を超えたことはただ1度もない。2014年度の1.7%が最大である。
「生活が苦しくなれば、セーフティネットに頼ればいい」。
そう考えるのは簡単だ。しかし、現実はまるで違う。本当に追い詰められ、その日を生きることに精一杯な人ほど複雑怪奇な申請手続きを乗り越える余裕も、担当者と渡り合うための論理的思考力も何より「恥」を捨ててまで権利を主張する精神的スタミナも残されていない。
ここ30年、日本の生活保護受給者数は驚くほど安定している。
不景気が続き社会の閉塞感は極限まで高まっているはずなのに受給者数は決して劇的には増えない。それはこの国が豊かだからではない。むしろ逆だ。
本来救われるべき数千万人の「自覚なき貧困層」が、過酷な忍耐と「自立」という名の呪縛の中で限界まで我慢し続けているからに過ぎない。
この数字の固定化は、日本の福祉が成功している証拠ではなくむしろ個人の我慢というコストで社会を支えようとする「制度と通念の巨大な失策」の証明である。なぜ、これほどまでに生活保護へのアクセスは困難なのか。その最大の理由は、この国が採用している「申請主義」というシステムにある。
生活保護を正当に受給するためには、単に「貧しいこと」を証明すればいいわけではない。資産調査、収入の推計、就労の可能性、親族への扶養照会……これらを一つずつクリアし窓口の担当者と対等に渡り合うための「事務処理能力」が求められる。
だが、冷静に考えてほしい。
食べるものに困り、家賃の支払いに怯え将来への不安で夜も眠れないような人が、果たして「完璧な書類」を用意できるだろうか。
困窮の極致にあるとき、人の脳は「トンネリング(視野狭窄)」に陥る。明日の食費や支払いに全リソースが奪われ長期的な展望や、複雑な制度の仕組みを理解する能力は著しく低下する。
本来、最も支援を必要としている人々こそが、このシステムにおいて最も「支援を受けられない状態」に置かれているのだ。
皮肉なことに、今の生活保護は「生存権の保障」という権利ではなく高いリテラシーを持ち、自らの権利を論理的に主張できる「一部の強者」のみが手にできるチケットになってしまっている。
多くの人が、自分の生活が苦しいことを理解している。給料は上がらず、物価は高騰し貯蓄も増えない。「貧しい」という事実は、肌感覚として痛いほど分かっている。しかし、彼らは決して自分を「生活保護受給者」というカテゴリーには置かない。
ここで働くのが「自分はまだそこまで落ちぶれていない」という凄まじい防衛本能だ。「食べるものに困っているわけではない」「住む家はある」「スマホも持っている」。
そうした比較対象を自分より下に設定し「自分はまだ中流(または、かろうじて社会の一般層)だ」と信じ込むことで、なんとか精神的な均衡を保っている。このマインドが、社会全体の「貧困の可視化」を阻んでいる。
彼らにとって、生活保護を受給することは「経済的な困窮」を認めることではなく「自分という人間が社会の負け組であること」を公式に認定されることのように感じられるのだ。そのため、限界ギリギリまで借金をし、極端な節約をし、時には自身の健康を削って労働を続ける。
皮肉なことに、この「自分はまだ大丈夫」という根拠なきプライドがこの国の経済を回すための「忍耐力」として搾取されている。本来なら制度を使って生活を立て直すべき人々が制度を「最後の聖域(あるいは、そこへ行ったら終わりの墓場)」と位置づけ、自ら遠ざかっていく。
さらに深刻なのは、私たちが共有している「普通の生活」という基準そのものが実は「極限の貧困」をベースに設定されているという点だ。
現在の大学生や新卒社会人の多くは、奨学金という名の借金を背負い、家賃を払うためにアルバイトに追われ満足な食事すらとれない「ド貧乏」な生活を送っている。本来であれば、これは個人の努力不足ではなく、社会的な欠陥であるはずだ。しかし彼らはこの状況を「若い頃の苦労」あるいは「自己研鑽」と定義しそれを標準(スタンダード)として受け入れてしまう。
恐ろしいのは、この「若者の貧困」が、社会全体の「普通の生活」の基準を押し下げていることだ。
「若いうちは苦しくて当たり前」「奨学金は返して当然」「食費を削ってでも身なりを整えるのは若者の常識」。こうした言説がまかり通ることで、社会全体が「本来ならもっと豊かであっていいはずの生活」を、「これが普通だ」と誤認し始めている。
自分よりさらに下の「ド貧乏」な層を標準にしてしまうと、それより少しだけマシなだけの自分たちは「中流」であると錯覚できる。大学でカップ麺をすすりながら将来の夢を語る学生たちは、社会に出れば非正規雇用という「見えない貧困」のループへ、疑うことなく自ら飛び込んでいく。
「若い時の苦労は買ってでもせよ」という美徳は今や「若者の貧困を社会的に正当化するための免罪符」に過ぎない。
この「貧しいことが標準」という感覚が世代を超えて引き継がれることで
私たちが本来享受すべきはずの「豊かな暮らし」という概念は、ゆっくりと、しかし確実にこの社会から霧散している。
こうして「自分たちは普通だ」と思い込んでいる数千万人の巨大な層が、社会の下支えとして固定化されていくのだ。
最も恐るべきは、本来であれば社会が支えるべき「大学生」や「新卒社会人」の多くがすでに生活保護の受給要件を優に満たす「貧困ライン」で生活しているという現実だ。大学生や新社会人のうち、貯金残高が10万円以下である層は全体の半数から、厳しい環境下では6割~7割に達していると推測できる。マイルドにいっても過半数は生活保護受給レベルである。
家賃、光熱費、最低限の食費を払い終えたら、手元には何も残らない。奨学金という借金を返済し将来の備えなど微塵もできない生活。
今の日本の若者が送っているこの暮らしは数字だけを見れば「保護受給世帯」と何ら変わらない、しかし、誰も申請しない。なぜか。
それは、彼らにとってこの状況が「標準(スタンダード)」だからだ。
「奨学金は誰でも借りるもの」「初任給で一人暮らしをすれば貯金ゼロは当たり前」「若い頃は我慢するもの」。
社会が若年層の貧困を「若者の通過儀礼」として矮小化し続けた結果、彼ら自身も「自分は貧困層ではない」と信じ込まされている。生活保護受給レベルの生活を強いられているにもかかわらず、「これはあくまで準備期間であり将来のための投資だ」と自分に言い聞かせて耐えている。
ここに、日本の福祉が機能しない最大の理由がある。
行政側も、そして彼ら自身も、この「若者の貧困」をあえて無視し続けることで、辛うじて社会の均衡を保っているのだ。若者が「ド貧乏を標準」として受け入れることで、この国は安い労働力を確保し、本来支払うべきコストを若者の「我慢」で補填している。
生活保護受給者が増えないのは、国が貧困を解消したからではない。
若者から高齢者まで、数千万人が「自分が貧困であること」を認めず、その異常な低水準を「普通」として受け入れることで、この脆い社会を支え続けているからに過ぎない。
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