「先生は診療だけしてください」

「先生には、診療だけに集中していただければいいんです」
その言葉は、疲れ切っていた内科医の高瀬直人にとって、救いのように聞こえた。
高瀬は47歳。大学病院を辞めてから、郊外の総合病院で外来と当直を続けていた。年収は悪くなかったが、救急車、書類、医局会議、患者家族からの苦情に追われる毎日だった。
そんな高瀬に、知人を通じて近づいてきたのが、再生医療コンサルタントを名乗る黒木だった。
「先生のような経験豊富な内科医こそ、これからの自由診療に必要です」
黒木はそう言って、都心のホテルのラウンジで分厚い資料を広げた。
幹細胞培養上清、エクソソーム、免疫細胞療法、疲労回復点滴。
資料には、白衣を着た医師と笑顔の患者、右肩上がりの売上予測が並んでいた。
「先生もご存じのように保険診療は、もう限界です。国に値段を決められ、患者を何十人診ても収入は増えない。ここなら、1人の患者さんと30分向き合えます」
提示された年俸は2,400万円だった。当直もオンコールもない。週4日勤務で、診療は完全予約制。夜も寝れる。家族との時間もとれる。心が揺れた。しかし経営をやったことがなく心配だった。
「経営は私たちが全部やります。広告、人事、会計、患者対応、細胞加工施設との交渉もこちらで行います。先生は院長として、医学的判断だけしていただければ結構です」
高瀬は少しだけ警戒した。
「私は雇われ院長ということですよね」
「もちろんです。形式上、いくつか先生のお名前が必要ですが、医療法上の手続にすぎません」
黒木は笑顔で答えた。
契約書は40ページ以上あった。
黒木は重要そうな箇所に付箋を貼り、「ここだけ見てください」と言った。
管理医師就任承諾書。
医療機器のリース申込書。
診療所の賃貸借契約書。
銀行口座開設の委任状。
職員採用に関する委任状。
そして、高瀬を代表理事とする一般社団法人の書類。
「一般社団法人にしておけば、先生が面倒な医療法人を作る必要がありません。最近はこの形が普通です」
「私が代表理事なんですか」
「名目上です。実務は全部こちらがやります。先生は経営会議にも出なくていい。実印と通帳も経理部で保管します」
少し引っかかったが、高瀬は署名した。
もう、当直に戻りたくなかった。週末の家族との時間も欲しかった。
クリニックは豪華だった。
大理石調の受付、間接照明、ホテルのような個室。
高瀬には専用の院長室と革張りの椅子が用意された。
「自分もついにここまで来たか」
脳内にドーパミンがあふれた。
患者は広告会社が連れてきた。
「糖尿病が改善する可能性があります」
「慢性疲労に効果が期待できます」
「がん治療と併用する方もいます」
医療資格も経験もないカウンセラーを名乗る知らない職員が患者に説明し、高瀬は最後に同意書へ署名した。
治療費は1回80万円。数回分をまとめたコースでは300万円を超えた。
高瀬が「エビデンスはまだ限定的です」と説明すると、黒木から注意された。
「先生、患者さんを不安にさせる言い方は困ります。“個人差があります”で十分です」
「でも、有効性が確立しているわけではないでしょう」
「再生医療の委員会を通っています。国にも計画を出しています。それ以上、何が必要なんですか。保険診療でもエビデンスが無いことはたくさんやってますよね?」
高瀬は納得できなかったが、夜も週末もしっかり休みで、年俸は毎月きちんと振り込まれたので、この生活を手放したくなかった。
学会で会った元同僚には、「今は再生医療のクリニックで院長をしている」と話した。元同僚は少し羨ましそうな顔をした。
「すごいな。自由診療はもうかるんだろう」
高瀬は曖昧に笑った。
最初の1年は順調だった。
2年目、患者数の伸びが止まった。
黒木は新しいコースを始めた。
500万円を前払いすれば、5年間にわたって治療を受けられる「プレミアム再生医療会員」だった。
「こんな長期契約をして大丈夫ですか」
高瀬が尋ねると、黒木は答えた。
「先にキャッシュを確保するのが経営です。先生は診療に集中してください。経営はお任せください。」
広告はさらに派手になった。著名人を使った動画が配信され、海外の論文から都合のよいグラフだけが切り取られた。
それでも売上は戻らなかった。
ある月、職員から給料が3日遅れていると相談された。
高瀬は黒木に電話した。
「銀行側の処理ミスです。先生が心配することではありません」
翌月には、培養加工会社から未払金の督促状が届いた。宛名はクリニックではなく、一般社団法人の代表理事である高瀬直人だった。
黒木は言った。
「よくある行き違いです。こちらで処理します。業者にも言っておきます。」
しかし、その頃から黒木はクリニックに来なくなった。
電話にも出なくなった。
ある朝、高瀬が出勤すると、受付に20人以上の患者が集まっていた。
「治療の予約が勝手にキャンセルされている」
「300万円払った。返金してくれ」
「培養中の細胞はどうなっているんですか」
事務長の机は空になっていた。
パソコンも、契約書のファイルも消えていた。
経理担当者にも連絡がつかなかった。
高瀬は銀行へ向かった。法人口座の残高は11万円だった。
そこで初めて、高瀬は自分が「雇われ院長」ではなかったことを知った。
高瀬を雇用する契約書は存在しなかった。
給与だと思っていた金は、関連会社から支払われた業務委託料だった。
クリニックの職員を雇用していたのは、高瀬が代表理事を務める一般社団法人だった。
医療機器のリース契約には、高瀬個人の連帯保証が付いていた。
診療所の賃貸借契約にも、高瀬の署名と実印があった。
数億円規模であるはずの患者からの前受金は、広告費、コンサルティング料、商標使用料、細胞加工費などの名目として、黒木の関係会社へ既に送金されていた。
送金指示書には、代表理事である高瀬の電子印が押されていた。
「私は指示していません」
弁護士に訴えると、静かに尋ねられた。
「実印、銀行印、通帳、電子証明書を誰に渡しましたか」
「経理を任せていた会社です」
「毎月の試算表や口座履歴を確認しましたか」
「私は医師です。経営は彼らがやると……」
弁護士は少し間を置いた。
「しかし、書類上の経営者は先生です」
数日後、職員が院長室に集まった。
「今月の給料は出るんですか」
「社会保険料が納付されていないと連絡が来ました」
「私たちは誰に雇われていたんですか」
高瀬には答えられなかった。
患者からは返金請求が相次いだ。治療によって体調を崩したから治療費と慰謝料を払えと訴える患者も現れた。
黒木の会社はすでに別の住所へ移転し、旧会社は休眠状態になっていた。電話番号もウェブサイトも消えていた。
一方で、黒木によく似た人物が、別の一般社団法人を使って、新しい「長寿医療クリニック」を開設するという広告が流れ始めていた。
高瀬が辞任を申し出ると、関係会社の弁護士から内容証明が届いた。
契約期間途中の辞任による違約金、広告投資の損害、コンサルティング契約の残額。請求額は1億円を超えていた。
高瀬はようやく、自分が何に署名していたのかを理解した。
高額な年俸は報酬ではなかった。
名義と資格と信用を差し出す対価だった。
医師免許は、患者を診療するためのものだったはずだ。
しかし彼らにとっては、診療所を開き、高額な契約を結び、資金を集めるための鍵にすぎなかった。
クリニックは閉鎖された。
職員は解雇され、患者は債権者になった。
残っていた医療機器はリース会社が引き揚げたが、それでも多額の残債が残った。
高瀬は自宅を売却した。
退職金も預金もなくなった。
妻とは離婚し、子どもを連れて実家に戻った。
自己破産の申立書を書くため、弁護士から借金の理由を尋ねられた。
浪費でも、投資でも、ギャンブルでもなかった。
「先生は診療だけしてください」
高瀬は、あの日の言葉を書こうとして、ペンを止めた。
そして、小さな字で記入した。
「診療所経営の失敗」
数年ぶりに保険診療の非常勤医として働き始めた高瀬は、当直中に、医師向け求人サイトで見覚えのある広告を見つけた。
「最新の再生医療で、医師として新しい人生を」
週4日、当直なし。
年収3,000万円。
経営経験不要。
医療に専念できる万全のサポート体制。
広告の最後には、こう書かれていた。
「院長候補を募集しています」
高瀬は画面を閉じた。
しかし数秒後、もう一度開いた。
応募者数の欄には、すでに12人と表示されていた。
医局にも病院にも居場所を失い、疲れ果て、甘い言葉を必要としている医師は、まだいくらでもいた。
黒木にとって、医師免許を持つ人間は、尽きることのない資源だった。
高瀬は求人サイトの運営会社に通報しようとした。
だが、指が動かなかった。
かつての自分も、忠告する同僚に向かってこう言ったことを思い出したからだ。
「大丈夫だよ。経営はプロに任せているから」
その言葉こそが、すべての始まりだった。
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