中学受験を自ら希望したが、諦めるよう父に説得された子供だった
「子供が希望することはできるだけ叶えてあげたほうがいい」という価値観は、今の子育てムードに漂っています。
でも、このnoteは、それが必ずしも正しくないかもしれないと思っている人に向けて書いています。そして、ちょうど父の日なので、私の父の話をします。
小5の私が、中学受験したいと言ってみた
小学校5年生くらいのことです。何かのタイミングで手に入った私立中学校のパンフレットを握りしめて、両親に「中学受験、やってみたい」と言ってみたことがあります。
特に志望校があったわけではないです。
「なんとなくちょっと頑張ってみたいな」という気持ちがあっただけ。今思えばかなりふわっとした動機でした。
でも私の希望に対して父は、ごまかしませんでした。
子供の思いつきに、真剣に答えてくれた
父の返答はこうでした。
「中学校が最終学歴になるなら、頑張る価値はある。でも、あなたは大学まで行くつもりでしょう?それなら、高校受験と大学受験で頑張りなさい」
子供のふわっとした思いつきに対して、正面から論理で返ってきた。
私はあっさり納得しました。「そりゃそうだな」と思って、それ以上引っ張らなかった。ごまかされた感覚は一切なかったし、子供の戯言をスルーされた感じもしなかった。「ちゃんと真剣に答えてもらった」という認識は、今でもまったく変わっていません。
あの回答には、前提の確認がありました。
「あなたはどこまで学ぶつもりなのか?」ということですね。
その前提を踏まえたうえで、中学受験の意味を問い直していた。子供が「やってみたい」と言うとき、その希望の背後にある目的を一緒に確認することが、大人にできる誠実な返答の一つだと、今なら思います。
父は、言葉に厳しい人だった
父という人を一言で言うならば「言葉の使い方と成り立ちに厳しい人」が一番しっくりきます。
なんとなくテレビから影響されて、ふわっと使っている言葉に対して「その言葉は成り立ち的に本来の意味と違うから、使うべきじゃない」とすぐ指摘してくる人でした。辞書を引いて確認してから話す、というのも珍しくなかった。
言葉への態度は、思考への態度でもあると思います。
父の「ふわっとした前提を許さない」スタンスは、あの中学受験の返答でも一貫していました。子供が「やりたい」と言ったとき、その背景にある目的を整理したうえで答えるというのは、言葉を大切にする人らしい回答でした。
「人間が頑張れる回数は、決まっている」
それから20年近く経って、父は今でも中学受験にかなり懐疑的です。
「そんな小さな頃から受験なんてしたら疲れる。人間が頑張れる回数は、決まっているんだから」
これを聞くたびに、「うん、そうなんだよ……」と思っています。なんなら、私自身、詰め込む系の勉強がもう頑張れない体質になっています。大学受験を終えたあたりで、かなり使い切った感がある。試行錯誤しながらの学習はいつまでもできるんだけどね……。
中学受験をしようと思えばできたとは思います。
でも、そこでリソースを使っていたら、その後の高校受験が普通にできていたか、大学受験でより自覚的に頑張れていたか、正直自信がないです。当時の自分には、頑張れる総量の話なんて分からなかった。それを見越して答えてくれた父は、そういう意味でも先を読んでいた。
何でも叶えることが、豊かさではない
今の視点から振り返ると、父の子育てには「引き算の美学」があったと思っています。
子供が希望したことを全部やらせることが、その子の人生を豊かにするとは限らない。何かを引くことで、別の何かが伸びる場合がある。
父の返答は「やるな」でも「今じゃない」でもなかった。「あなたが目指していることと、今の選択を整合させなさい」という話でした。そしてそれは、子供の思いつきを否定せず、でも真剣に向き合うという形をとっていた。
中学受験に限った話ではないと思っています。子供が「やりたい」と言うとき、その言葉の背後にある目的と、使えるリソースの総量を一緒に考えることが、希望を叶えることよりも大事な場面があります。
少なくとも私にとって、あの返答は正解でした。中学受験をしなかったことをひとつも後悔していないし、「ちゃんと答えてもらった」という記憶が今も鮮明なのが、その証拠だと思っています。
父の日に、思い出した話。
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