創造性の欠如と客観性の欠如、どっちが問題だろうか?
創造性の欠如と客観性の欠如、どっちが問題だろうか?
ふと、そんなことを考えていた。
なんでそんなことを考え始めたのかは、最後に書きます。先に言うとちょっと気が抜けるので 🤫
で、最初に頭に浮かんだのは仕事の場面だった。何かを作る人、判断する人、チームで動く人。そういう場面で考えると、自分の答えはわりとはっきりしていて、たぶん客観性の欠如のほうが厄介だなと思った。
理由はシンプルで、創造性が足りないことには、本人も気づけるからです。「なんか今回、凡庸だな」「面白くないな」という感覚はちゃんと残っているのです。そして、問題として見えてるから、少なくとも手を打つことは可能なのです。
しかし、客観性が抜けてると、自分がズレてることにそもそも気づけない。これがけっこう怖い 😨 自分の判断が歪んでいること自体が見えないから、直しようがない。しかも厄介なのは、客観性って、創造性が暴走したときのブレーキでもあるんですよね。だからそれを失うと、空回りしてることにも気づけないまま突っ走ってしまう。
…と、ここまではわりとまっとうな結論。自分でも納得していた。
してはいたんだけど、なんというか、心情的に引っかかる自分もいて 🤔
うまく言えないんだけど、的外れでも何かに賭けて突っ込んでいく人のほうが、自分はなんか好きなんですよね。客観性たっぷりで、冷静で、でも結局何も生み出さない人より、「客観性の欠如が問題」と言いながら、心のどこかでは創造性のないほうをより寂しく感じている。
この矛盾はなんなんだろう、としばらく考えていた。評価者としての自分は客観性のなさを危ないと判断するのに、当事者の側に立つと、熱に味方したくなる。たぶん自分の中に、両方の視点が同居しているんだと思う。
で、その引っかかりの正体が、考えていくうちにやっとわかった。
これ、そもそもカップルがいちゃついてる場面から考え始めてたんです😵
そう書くとほんと気が抜けるんだけど 😂 でも、これがわかった瞬間に話が一気にひっくり返った。
男女のいちゃつきって、客観性をあえて手放してる状態なんですよね。周りが見えなくなって、二人だけの熱に没入してる。傍から見たら、客観性ゼロ。でもその瞬間の本人にとっては、それこそが幸せだったりする。
むしろ恋愛で客観性が働きすぎるほうが、ちょっと寂しい。「これ合理的かな」「外からどう見えるかな」って常に計算してる関係って、なんかな、と思ってしまう 😅
つまり、舞台が変わるだけで答えはひっくり返ることもあるってことでもあります。オフィスでは客観性の欠如が問題で、恋人同士ではむしろ客観性を手放すことが幸福の条件ですらある。同じ「客観性の欠如」なのに、場面によって意味が真逆になる。
そう考えると、「創造性と客観性、どっちの欠如が問題か」っていう問いは、たぶん固定の答えを持っていないのかもしれない。その時々で変わる。仕事なら客観性、男女の関係性なら創造性。たまたま今日は、この二つがきれいに反転する場面が並んだだけで…
最近は、AIによってで、判断する場面がどんどん増えてる気がしますが、あれを選ぶべきか、これは正しいか、効率的か。一日中なにかを判断してる感覚すらある 😵💫
そういう日常だからこそ、客観性をまるごと手放せる時間って、けっこう貴重なのかもしれない。いちゃついてるときくらい、合理性も損得も外からの見え方も、ぜんぶ忘れていい…ということにしておこう。
…という、けっこう真面目な顔で「創造性と客観性が」とか考えてたわりに、出発点がいちゃつきだったというオチでした 😅
