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二 飛脚 ── 速さは、金で買うものだった

江戸から京都まで、およそ五百里。

同じ道を、三日で走らせることもできたし、ひと月かけて届けることもできた。

差は、脚力ではない。金である。

三つの飛脚

飛脚には、大きく三つの種類があった。

一つは継飛脚。幕府の公用の書状や荷を運ぶもので、最も速い。二つめは大名飛脚。各大名が江戸の屋敷と国元とを結ぶために設けた。三つめが町飛脚で、町人が使う便である。

このうち、速さで抜きん出ていたのが継飛脚だった。

天正十八年、徳川家康が江戸に入った際、東海道で始まったのがその起こりとされる。慶長六年に伝馬の制度が定められ、街道の各宿に飛脚のための馬が備えられた。東海道の各宿には三十六頭ずつが置かれたという。

一人で走ってはいない

継飛脚の速さを、たった一人の脚が生んだと思われがちだが、そうではない。

宿場ごとに走者を継いでいく。一人が受け持つのは十里に満たない区間で、終点まで走るわけではない。二人一組で動き、昼は一人が荷を替わって持ち、夜はもう一人が提灯を掲げて足元を照らした。

元禄九年の定めでは、江戸と京都のあいだを、急ぎの便で八十二時間、普通の便で九十時間で走ることになっていた。最も急ぐ便では、六十時間ほどで駆け抜けた記録も残る。

単純に割れば、一人が九里ほどの区間を一時間二十分あまりで進む計算になる。時速にして七里に届かない。歩くより少し速い程度である。

ただし、これは平均の話にすぎない。歩いて渡る川があり、峠があり、箱根の山越えがある。夜は提灯の明かりだけを頼りに、草鞋で凸凹の道を走った。

六日と三日を分けたもの

一人で全行程を走る飛脚も、いた。通し飛脚という。

こちらは、六日を要したと伝わる。

同じ道である。同じ人の脚である。それでも三日と六日に分かれた。二倍の差を生んだのは、体力ではない。受け渡す相手が待っているかどうか、それだけだった。

速さは、個人の能力ではなく、仕組みが生むものだった。

料金は、三百倍まで開いた

町人が使う便には、値段の段階があった。

日限を定めない並の便は、書状一通で百文ほど。今の値に直せば三千円程度という試算がある。ただし到着の期日は約束されず、ひと月ほどかかることもあった。

十日で届く便、六日で届く便と、日を縮めるごとに値は上がっていく。四日で届ける仕立ての便になると、今の値でおよそ四十万円。三日となれば百万円を超えたともいわれる。

同じ江戸と京都のあいだで、三千円と百万円。三百倍以上の開きがある。

急ぐ用があるかどうかではない。急ぐ用に払える者かどうかで、届く日が決まった。

大名たちの、自前の道

大名も、自前の飛脚を持っていた。

参勤交代の制度があるため、大名は江戸の屋敷と国元とを常に行き来する必要がある。西国の大名なら、大坂の蔵屋敷とも連絡を取らねばならない。幕府の継飛脚は公用に限られるから、自分たちの便は自分たちで用意するほかなかった。

なかでも知られているのが七里飛脚である。国元と江戸を結ぶ街道に、七里ごとに人を置き、書状や荷を継いでいった。幕府の仕組みを、そのまま小さく写したものといえる。

街道には、幕府の走者と、大名家の走者と、町人の荷が、同じ道を行き交っていた。

元禄三年に日本を訪れた外国人の医師が、宿場と継飛脚のありようについて書き残している。当時の日本の運送の仕組みは、外から来た目にも記すに値するものと映ったらしい。

走らせた金は、誰が出したか

継飛脚には、幕府から米が支給されていた。継飛脚給米という。

しかし、それだけでは足りなかった。不足分は、各宿場が自前で持ち出している。公用の書状を次の宿へ継ぐことは、宿場に課された義務だったからである。

街道沿いの宿場は、幕府の速さを支えるために身を削っていた。

ある宿の記録では、その宿に置かれた継飛脚の人足は六人だったとある。六人が、昼夜を分かたず来る御用の荷を、次の宿へ送り続けた。

御状箱と、鮎ずし

継飛脚が運んだのは、書状だけではない。

公用の書状は、江戸城で作られ、老中の証文を添えて漆塗りの箱に納められた。御状箱と呼ばれる。これが日本橋の大伝馬町と南伝馬町の役所へ運ばれ、そこから品川、千住、板橋、内藤新宿の四つの宿へ配られて、街道へ入っていった。

一方で、将軍への献上品も運んでいる。尾張の鮎ずし、三河の海鼠腸、大和の葛。

食べ物が腐る前に届けるには、速さが要る。国の最も速い運送の仕組みが、将軍の膳に載る一皿のためにも動いていた。

明かりの下を走る者

継飛脚の制度は、町飛脚が育つにつれて次第に衰えていく。それでも明治四年、国営の郵便が始まるまで存続した。二百八十年近く続いたことになる。

その間、街道には鈴の音が響いていた。

夜通し走る飛脚が、道の先を照らしながら進む。次の宿場では、別の誰かが待っている。自分の走る九里が終われば、荷は他人の手に渡り、自分は帰る。

一通の書状が五百里を越えるあいだに、五十を超える人の手を経ていた。

速さを買えたのは一部の者だったが、その速さを作っていたのは、名も残らない者たちだった。

三日で届いた、という記録だけが残る。誰が、どの区間を、どんな夜に走ったのかは、どこにも書かれていない。

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