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スーパーの裏とフレネミーの間で   ハラスメント社会に「本音の場所」は必要か

1. 「ヤニ」というタイトルに笑って、気づいた

NETFLIXオリジナルドラマ『スーパーの裏でヤニ吸う二人』。
初めてタイトルを見たとき、思わず笑った。完全に居酒屋のノリか、Twitterの愚痴アカウントだ。
だが再生ボタンを押してしばらくすると、この砕けたタイトルの奥から、現代日本の「人間関係の居心地の悪さ」がじわじわ浮かび上がってくる。
舞台は郊外のスーパー。表の売り場ではマニュアルとコンプライアンスが支配し、裏の喫煙所では本音が少しだけ漏れ出す。この対比が、妙にリアルだ。

2. 「フレネミー」という言葉が照らすグラデーション

喫煙所のシーンを眺めているうちに、Z世代の流行語にもなった「フレネミー」という言葉が頭に浮かんだ。
フレンド(友達)とエネミー(敵)の合成語。だが、語源以上の泥臭さがある。
「こいつ、好きなんだけど、たまにムカつく」
「尊敬してる。でも、負けたくない」
「一緒にいると楽しい。でも、成功を見ると悔しい」
こうした矛盾した感情を、僕たちはだいたい隠す。SNSでは「最高の仲間!」と書き、飲み会では「尊敬しかないっすよ」と笑う。でも家に帰って一人になったとき、あいつのタイムラインを見て胸の奥がギュッとなる。あれこそがフレネミー的感情の正体だ。
このドラマのキャラクターたちも、その矛盾と一緒に生きている。同僚として支え合い、愚痴を共有する。でもどこかで「お前には分かってほしいけど、分かりすぎてほしくない」という線が引かれている。一緒にヤニを吸いながら、心の中では小さなマウント合戦が起きているような、変な距離感。
フレネミーとは結局、ゼロか100じゃない関係に、無理やり名前をつけただけなのだ。味方であり敵でもある。そのグラデーションを照らし出すための言葉だと思う。

3. ハラスメント社会が生む「言えない」空気

一方で、今の日本社会はハラスメントに極度に敏感になっている。
職場ではパワハラ・セクハラ・モラハラの研修が流れ、チェックリストが配られる。これはもちろん必要な変化だ。過去に「しょうがない」で済まされてきた傷を思えば、この流れは正しい。
ただ、「ハラスメントを起こさないこと」が最優先になると、人間関係はどこかぎこちなくなる。本音でぶつかる機会が減り、冗談やツッコミが消えていく。安全なはずの空気が、なぜか息苦しい。
かつて、飲み会がその逃げ場だった。
仕事終わりの居酒屋で上司や同僚の愚痴を笑いながらぶちまけ、二次会でさらに本音が出る。「酔ってるから」「飲み会だし」で、際どい冗談もギリギリ許される雰囲気があった。
だが今、若い世代は二次会に行かない。そもそも一次会すら開かれない職場も増えた。「飲み会だから許される」という感覚自体が消えつつある。酔っていようが、ハラスメントはハラスメントだ。その認識は正しい。
問題は、その代わりに「本音を安全にこぼせる場所」が減ったことだ。飲み会が「裏の喫煙所」になれなくなった今、本音を交わすにはより慎重に場所と相手を選ばなければならない。

4. 沈黙が積もるとき

フレネミーな関係には、沈黙が多い。
言いたいことがあるのに言えない。褒めたいのに嫉妬が混ざる。指摘したいけど嫌われるのが怖い。ハラスメントに敏感な社会では、この「言えない」がさらに増幅される。相手のためになる厳しいフィードバックも、言い方を間違えればパワハラ扱いだ。
そうして飲み込まれた言葉が溜まるゾーン——そこが、フレネミーとハラスメント社会が交差する場所だ。
表向きは優しい。でも沈黙の奥底にはモヤモヤやイライラが静かに積もっていく。「仲良し」の顔をしながら、心の中では「距離を置きたい」と思い始める。
『スーパーの裏でヤニ吸う二人』の喫煙所は、そうした沈黙が少しだけ溶ける場所に見える。完璧な言い方じゃなくても、本音がぽろっと出ても許される。ギリギリ不謹慎な冗談も、ちょっとした悪口もある。その不完全さの中に、人間らしいぬくもりが残っている。

5. 「飲み会では解決しない」時代の、僕自身の話

正直に言うと、僕自身もフレネミー的な関係を何度も経験してきた。
仕事で一緒に成果を追いかける同僚。互いの作品を褒め合い、刺激し合うクリエイター仲間。表向きは「戦友」の顔をしているのに、数字や評価が絡むと心がざわつく。「あいつ、また伸びてるな」「俺、最近イマイチだな」。そういう感情を認めるのが怖くて、余計に笑顔を作る。
昔なら、そのモヤモヤを飲み会で流していたのかもしれない。酔った勢いで冗談っぽく本音を言い、笑い話にする。でも今、それは通用しない。そもそも僕自身、「飲み会だから許されるはずもない」と思っている側だ。酒を言い訳に人を傷つけるのは違う。
だからこそ、本音をぶつける場所は慎重に選ぶ。結果として生まれるのは、「何も言わない優しさ」と「何も言えない怖さ」が混ざった沈黙だ。これを放置したまま「仲良し」のふりを続ければ、関係はフレネミー化していく。味方であり敵でもある、曖昧なゾーンに固定される。

6. 「スーパーの裏」を、どこに作るか

じゃあ、どうすればいいのか。
答えは簡単じゃない。ただ、ひとつだけ大事にしたい感覚がある。
表のルールを守りながら、裏で本音を交わせる場所を意図的につくる——それだ。
表ではハラスメント研修で習った言葉や態度を守る。立場や権力の差がある場面ではとくに慎重になる。これは現代の前提だ。
一方で、ごく限られた信頼できる相手とは、「スーパーの裏」のようなゾーンを共有する。そこでは完璧に正しくなくていい。ただし、「本当に傷つけたらちゃんと謝る」ことを前提にする。安全ではないけれど、信頼でギリギリ成立している空間。
その空間を一緒に持てる相手は、きっとフレネミー的な揺らぎも抱えている。嫉妬もあるし競争もある。それでも「敵か味方か」を即座に決めず、グラデーションの中で揺れ続けることを選ぶ。その揺らぎを許し合えるかどうかが、ハラスメント重視社会で人間関係を続ける鍵なのだと思う。
『スーパーの裏でヤニ吸う二人』は、その揺らぎを生きる人たちの物語だ。完璧に治った社会でも、完全にクリーンな人間でもない。コンプラと本音、優しさと嫉妬、正しさとダサさ。その全部を抱えたまま、今日もどこかのスーパーの裏で、誰かがヤニを吸っている。
ハラスメントを恐れすぎて誰とも深く関われなくなる未来は、たぶん幸せじゃない。フレネミー的な感情を「なかったこと」にせず、変な自分を抱えたまま、少しだけ相手に近づいてみる。そのための「スーパーの裏」を、意識的につくっていく必要がある。
ヤニは吸わない僕なりに、しみじみと思う。


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