🇵🇱ナチスの爆弾を製造していたあのノーベルの工場跡地を訪れる
前回はポーランドのブィドゴシュチュの町歩きでした。
ビィドゴシュチュを訪れた一番の目的が町の外れにある「Exploseum Factory DAG」( ポーランド語:Exploseum DAG Fabrik Bromberg)という博物館を訪れるため。
Exploseumとは?
ダイナマイトの発明やノーベル賞で誰もが知るアルフレッド・ノーベルは1865年にDynamit-Aktien Gesellschaftas(DAG)という会社をドイツに設立しました。そして第二次世界大戦中にDAGが建設した爆薬工場がこのポーランドのビィドゴシュチュにあります。ナチスのために爆弾を製造していた3つの工場のうちの一つで、爆薬のニトログリセリンを生産していました。
このときにはすでにノーベルは亡くなっていたものの、ノーベル賞の受賞は行われていて、ノーベル平和賞などを授与しながらも、彼の会社はナチスドイツのために兵器を提供していたという矛盾に驚きます。
DAGの跡地には、工場の建物がいくつも残っており、2011年にビィドゴシュチュ市がExploseumという博物館として一部建物を公開し、DAGの歴史を伝えています。
Exploseumまでの道のり
ビィドゴシュチュの中心からはバスを乗り継ぎ50分ほど。

向かう先には工業地帯。それを通り過ぎバスは森の中へ。通ってきた工業地帯もかつてのDAGの敷地だったそう。

バス停を降りると特に何もなくグーグルマップに沿ってバス通り近くの小路を歩いて行きます。Exploseumまで1,100mという標識がありました。

バスを降りたのは私たちとポーランド人の20代くらいの男性何人か。彼らも同じ方向に向かっていきます。

途中でDAGの工場の建物と思われる廃墟が出現しました。

近くには何かを運搬していたと思われる橋脚がずっと奥の方まで続きます。

ポーランド人の男性たちはこの辺りから廃墟へと消えていきました。博物館ではなく拝観料の要らない工場の廃墟を巡るよう。

博物館へ続く通りの標識を見ると、「アルフレッド・ノーベル通り」。博物館の住所もこの通りでした。彼の功績を称えるために名付けたのではなく、彼の会社がここでポーランドを占領した敵国ドイツのために兵器を製造していたことを非難しているよう。

グニャリと曲がったコンクリートの塊が道端に。

しばらく行くと博物館の看板がありました。

博物館の入口。第二次大戦中は製造準備の建物だったそう。

セルフガイドツアー開始
拝観料25ズロティ(この記事の日付現在で1,100円)を払うと口頭で説明を受けます。セフルガイドで所要時間は2時間ほど。2キロほどの道のりです。それぞれの建物には渡されたキーカードを使ってアクセスします。

説明書きの裏にはルートマップ。博物館は8つの建物から成ります。終戦時には23平方キロメートルもの敷地になんと千以上の建物があり、現在公開されているエリアは全体のたった1%だそう。一部は先ほど歩いてきたときに見たように廃墟として残っていますが、老朽化で取り壊された建物も。

グリセリンを濃硫酸と濃硝酸を混ぜ合わせ化学反応させることでできるニトログリセリンをゲル化させることでダイナマイトができるそうで、8つの公開されている建物(このときは1つ建物は非公開)はその製造プロセスに沿って点在しています。
1133棟 ー 長い通路から生産準備棟へ(ノーベルの生い立ちやDAGの概要)
まずは外に出て最初の建物まで歩いて行きます。キーカードでドアを開けると長い通路。

多くの建物がこのような地下通路でつながっていたそうです。無数の建物に分かれていた理由はニトログリセリンは不安定で振動や気温の変化、保管状態によって爆発する恐れがあったため。

通路は両端にキーカードでしか開けられない扉があるので、カードが上手く使えなかったらどうしようと一瞬パニックになりました。当然スマホの電波も入りません。ただよくよく考えてみれば受付にセキュリティーカメラの映像が映っていたので、何かあった時のため時折スタッフがチェックしていることを祈りパニックは収まりました。
最初の部屋に到達。もともとは生産準備の建物で、ノーベルの生い立ちやDAGの工場などの歴史を振り返ります。

1938年にナチス政権が失業率の削減、軍事増強などを掲げた4ヵ年計画に沿って建設されたこの工場。DAGはナチス・ドイツ軍向けの兵器製造によってかなりの利益を得たそうです。
ノーベルの爆弾製造の会社や工場の数々。

第2次世界大戦後、ポツダム宣言によってナチスの兵器製造工場は解体・破壊されることとなりましたが、ソ連下にあった旧東ドイツとポーランドは戦後も生産を続けたそうです。ブィドゴシュチュだけでなくほかのDAGの工場の現在の写真もありました。ほとんどが現在は廃墟の状態です。

建物の終わりには原料と思われるドラム缶が保管されています。

1137棟 ー グリセリンの硝化(製造工程の紹介)
次の建物ではニトログリセリンの製造過程が紹介されていました。

この建物の模型。グリセリンを濃硝酸と濃硫酸の混合物で処理する硝化という過程を行っていたそうです。

建物の外観。

コンクリートの槽。

トンネルを通って出口へ。

公開されていないと思われる廃墟の工場がありました。

1115棟 ー 酸脱硝(武器や兵器の歴史)
今度はこちらの入口から入ります。

また長い廊下を歩いて行きます。

廃酸や硝酸溶液から硝酸を除去する酸脱硝を行っていた建物。

建物の模型。4階建てで右手には階段状になった2階分の部屋があります。

化学が分かったら良いのですが、製造過程を読んでも良く分からないのでさらっと眺めます。

こちらが階段状の部分。現在はビデオ上映のシアターとなっています。

「正義は空想の世界にしか存在しない」というノーベルの言葉がスクリーンに映し出されていました。

地上から建物に入ったと思ったのに階段は下に伸びます。

武器や兵器の歴史を辿った展示などがあり、一番下の階から外に出てきたので振り返ると…

結構起伏のある森で斜面を利用して建物を建てていて、建物の裏は高台になっています。不安定なニトログリセリンの事故を最小限に抑えるためにわざわざこのような造りにしているようです。
1145棟 ー 酸洗浄を行った棟
次はこのドアから入ります。

残存する酸や不純物を取り除く酸洗浄をしていたというこちらの建物も斜面を利用しています。

横から見た模型を見ると正面は右手の壁で囲まれています。余程危険な工程なのでしょう。

1153棟 ー ニトログリセリンのゲル化(強制労働の実態)
次の建物も高台の方から入ります。

ニトログリセリンをゲル化させる建物でかなり高さがあります。

建物の模型。

この工場では4万人もの従業員がいたと想定されており、そのうちの1万人ほどがニトログリセリンの製造に携わっていました。当初は地元の人々が雇われましたが、工場が大きくなるにつれて地元の雇用だけでは間に合わず、多くのポーランド人や外国人が連れてこられ強制労働を強いられたそうです。そして、ジュネーブ条約に反して戦争捕虜も強制労働をさせられました。

更に1944年にはポーランド北西部のシュトゥットホーフ強制収容所からユダヤ人女性1万人が連行され、兵器の製造や貨物列車への運搬を強いられました。

敷地内には100以上もの従業員の収容施設があったそうです。
ニトログリセリンをゲル化していたというこの建物。ゲル化することでニトログリセリンはより安定化するそう。今は機器やタンクなどは残っていませんがフロアに大きな穴がありました。タンクか何かがあった跡でしょうか。

階段を下りていきます。

外に出て振り返るとかなり立派な建物でした。窓ガラスなどは今ではなく廃墟の雰囲気です。

裏の方には斜面に建物がありました。これも公開されていない建物のよう。

さきほど見学した建物から次の建物にはコンクリートの通路がありますが、一部崩れ落ちていました。

1157棟 ー 貨物倉庫(従業員のサボタージュなど)
次の建物は貨物倉庫だったところ。

最終的にニトログリセリンは安定し、貨物倉庫までやってくると普通の建物の面持ちです。

従業員の名前の入ったメタルプレートが並んでいます。

メタルプレート。従業員によるサボタージュも度々あったそうでその展示もありました。

この建物が最後の建物なのでキーカードをドア横のボックスに入れます。説明書きにはボックスに投函してから5秒以内に扉を開けなければロックされてしまうということで緊張…
外に出るとこの倉庫の横には貨物列車への荷積みをするホームがありました。ここから爆薬を輸送するために何百キロの線路がひかれたそうです。

部屋から部屋へ地下通路などで移動することでちょっとしたアドベンチャー感があるだけでなく、展示も充実していて満足。ノーベルの会社がナチスのために爆弾を作っていたという事実は知らなかったので、ここを訪れてからノーベル賞には懐疑的になりました。ツアー中誰にも会うことはなくそれほどビジターはいないようですがかなりお勧めです。
次回は第二次大戦で壊滅的な被害を受けながらも美しく再建されたグダンスクを再訪します。
