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「ユートピア」としての百合論――あるいはジェンダー・ロールなき新世界

前書き.

 現在、「百合」は様々な形で私たちの日常を満たしている。『Citrus』や『安達としまむら』のような性的・肉体な欲望込みの恋愛関係を扱ったいわゆるガチ百合、『ゆるゆり』のような友愛の延長線上にあるソフト百合、あるいは『リコリス・リコイル』のような明示的に百合が表現されていないにもかかわらず読者が強く読み取ろうとする百合化現象、そしてVTuberなどで見られる百合営業、、、。僕が試みたいのは、これらをひとまとめに「百合的なもの」として捉え、これがなぜこれほどの人気を博すようになったのかという疑問に答えることである。
 2010年代後半ごろから空前の百合ブームが訪れている。『やがて君になる』、『おにまい』、『わたなれ』などの近年の人気作にははっきりと「百合的なもの」の兆候を見ることができる。その一つの頂点と言えるものは『超かぐや姫』だろうか。2026年にNetflixで公開されるや否や大きな話題を呼び、特別公開劇場でも空席続出、公開館が100館以上まで大幅に追加されるにいたった。このような百合の熱狂を湧き起こしたのは、いったい「百合」のいかなる性質なのだろうか。
 この記事で、僕が主張するのは「百合」は「男」がいない世界であり、そこでは男性主体が「男性であること」から解放され、純な恋愛を楽しむことのできるユートピアであるという主張である。この記事を書く前に僕がずっと疑問に思っていたことに、「百合はBLと対称的なのか?」という問いがある。しかしBLというジャンルは、一般には女性という主体と密接に結びついているために、シスヘテロ男性の僕には深いところで理解しきれないところがある。この記事を読んだ方が何かそのヒントをいただけたら幸いである。(これに限らずですが)何かリアクションがあればぜひ!

『超かぐや姫』

1.百合マンガの歴史

 百合マンガの歴史を端的にまとめた記事に、東京大学百合愛好会のまとめた「百合の現在位置——『やがて君になる』に辿る百合漫画史論【再録】」があり、この記事は非常に興味深い内容になっている。とりわけ注目すべきは、2000年代以降の百合文化の急激な変化である。2002年の『まんがタイムきらら』創刊以降、百合マンガが一般誌として結実し、それ以降、急激に読者数を獲得していく。その中から強い恋愛感情や性的欲求を伴う「ガチ百合」と、プラトニックな恋愛感情を扱う「ソフト百合」を区別する考えが生まれてくる。そして「萌え系」や「日常系」と深く結びつくようになった「ソフト百合」は2010年代後半から空前のブームを迎える、と紹介されている。
 「ガチ百合」から分岐した「ソフト百合」が人気を獲得する過程が論じられているわけではあるが、ここで十分に探求されていないのは「なぜソフト百合がそれほどの支持を集めるようになったのか」という問いである。

2.VTuberと百合

 ここで回り道のようだが、VTuberにおける百合文化を見てみよう。一見、VTuberの百合文化は亜流に見えるが、ソフト百合を好む男性の欲望を関係を考える上では、これ以上に興味深いマテリアルはないのではないかと思えるほどである。
 ここで一つ見ていただきたい動画がある(再生時間は調整済み)。https://www.youtube.com/live/eVX9OWF9L08?t=4h33m22s
これは、にじさんじの代表的ライバーであるリゼ・ヘルエスタと、卯月コウによるクールポコのパロディである。

「浮かれてるからって配信中にうっかり彼氏のことを旦那と読んでしまったライバーがいるんですよ~」
「な~に~本当にやっちまったなぁ」
「ライバーはだまって」
「百合営業」
「ライバーはだまって」
「百合営業」
「営業っていうのやめてくれる?」

これはVTuberの百合文化をパロディ化した漫才である。このネタがVTuber界の2大事務所の一つである「にじさんじ」による特大イベント「にじさんじフェス」で披露されたものであることを加味するなら、「百合営業」の存在について、多くのVTuberファンが認知していると言って良い(ちなみに、この動画で暗に言及されているライバーとは、にじさんじ所属の「早瀬走」のこと)。
 百合文化という観点で注目すべきなのは、「彼氏を公表せず、女性VTuberとのみ関係を持つこと」=「百合」という等式が成り立っていることである。つまりここで言われる「百合」は何か積極的要素(例えば、交際などの恋愛的なコミュニケーションの在り方など)で成り立っているのではなく、むしろ「男性と関わらない」という消極的な定義によって成立している。
 女性VTuber(とりわけガチ恋営業をしているVTuber)は、男性VTuberとの関りに慎重になった方が良いというのはしばしば指摘されることであり、ときに炎上問題になったりする。2大事務所のもう一つホロライブについて「ホロライブ 男性 コラボ」のように、検索すれば、関連する炎上事件がいろいろ引っかかるはずである。

3. なぜ男性と関わってはダメなのか?

 ここで「なぜ男性と関わってはダメなのか」という疑問が当然浮かぶ。女性VTuberは「現在進行形で彼氏がいないこと」が求められるのみならず、しばしば「これまでに恋愛経験がないこと」、端的に言うと処女性が求められる。これは単なるガチ恋というだけで片付けることのできない。一体なぜ女性VTuberが<過去>に男性との経験を持っていることにまで、ここまでネガティブな感情を抱くのだろうか?
 ここで女性VTuberを支持するメイン層である男性視聴者に注目すると、ある仮説が浮かんでくる——女性VTuberに処女性を求めるのは、男性視聴者のコンプレックスの裏返しではないだろうか

4. 恋愛する主体としての劣等感

 僕の以前の記事でも触れているが、男性を主な消費者とするアニメ・マンガの領域において、2010年代後半から「恋愛する主体」であることに強い劣等感ないし回避の傾向が強まっている。
 主人公たちは恋愛における魅力の低さがゆえに、間男に寝取られたり、メスガキに煽られたりする。たとえば『メスガキvsワナビおじさん』のメスガキは「ねぇねぇホントに童貞なのぉ?」と煽ってくる。それに対して主人公は、「大人をバカにするのもいい加減にしろよ(中略)童貞は罪なのかっ‼」と激怒する。また寝取られにおいても、主人公たちが、マッチョな男性たちに性的魅力において敗北するのがパターンが繰り返し描かれる。ここに共通して見えるのは、主人公たちへの恋愛や性体験への劣等感である。そこには読者自身の劣等感も、ある程度は反映されているはずだ。

つくすん『メスガキvsワナビおじさん』

 これと同期する形で、「男性主体の喪失」といえる現象もまた目立ちつつある。その代表が、近年勢いを増しているおねショタである(FANZAブックスREPORT 2026のトレンド一位だった)。
 おねショタは、おそらく「成年男性を降りること」として理解できる。なぜならおねショタとは、最も完全な女性優位が成立する場だからである。基本的に私たちはジェンダー・ロールから逃れることはできない。女性をリードして守るのが男性に求められることであり、少なくともモテるためにはそれが必要であると私たちは深く理解している。しかし問題は、寝取られやメスガキでも確認したように、恋愛する主体であることへの劣等感もまた増大していることにある。すなわち男性であることを引き受けなければならないにもかかわらず、恋愛において男性としてふるまうことへの不安もまた自身から完全に切り離すことができないのだ。その結果、僕たちに待ち受けているのは、行き場無しの隘路である。それはフィクションの世界でも変わりない。むしろフィクションの世界の方が、ジェンダーロールの強固さはなお一層のものかもしれない。それを逸脱することも可能だが、それは恥や照れの形を伴ってしまう(『かわいいのは俺である』『隣のヤツがそういう目で見てくる』)。恥や照れ無しで、本当の意味での女性優位を成立し、僕たちが女性に心から身をゆだねるためには、僕たちが「成人男性であること」を降りなくてはならない。それこそがおねショタの本質だ。
 また同じサークルのチャコくんの書いた、催眠オナニーは性器の大きさの劣等感を感じることのなく快楽を得る自慰手段であるという意見も面白い。自らの男性性に不安があるからこそ(それは性器の大きさだったり、恋愛での振舞だったりする)、おねショタも、催眠音声も、男性性を象徴する身体を消す(あるいは切り離すことによって)ことによって快楽を成立させようとするのである。
 男性性への劣等感が、男性性そのものの消失と連動しているという僕の仮説が正しいとしたら、「百合的なもの」はその最もラディカルな実践として理解できる。なぜなら「百合的なもの」は、男性そのものを、恋愛関係から排除・追放することによって成り立っているからである。

5.男性性の排除としての「百合」

 百合の世界を、男性の排除された無菌室のような空間として理解してはじめて、私たちは作品の中に過剰に恋愛的親密さを読みとろうとする二次創作の場における「百合化現象」をよく理解できる。
 『リコリス・リコイル』は「百合化現象」の典型と言えるような作品である。この作品は、明るく快活なベテラン・錦木千束と、クールな後輩・井ノ上たきなという二人のバディが主人公である。二人は作中でも親密となり、お互い「千束」と「たきな」と呼び合うものの、しかし作中に明確な二人の恋心が描かれることはない。なんなら他者との性行為を意識した下着選び(相手はおそらく異性を意識?)のシーンすら描かれるのだが、Pixivでは盛んに二人の百合カップリングの創作が行われている。これは一見すると奇妙にも見えるのだが、作品を注視すればその理由が明らかになる。
 この作品には、彼らが日常的に接する人々の間(「親密圏」と言ってもいい)に、異性愛者の男性が周到に排除されているのである。彼らが働く喫茶リコリコを見ると、女性のクルミ、ミズキは言うまでもなく、店主のミカや、頻繁に来訪する客のヨシさんも同性愛者であることが明らかになる。したがって千束とたきなには、恋愛関係が生じる可能性のある男性との接触の機会がそもそもほぼ与えられていないのだ(唯一の例外として、真島という男がいるものの敵である)。

喫茶リコリコのメンバー

これは『Citrus』のようないわゆる「ガチ百合」との大きな違いである。『Citrus』では、芽衣は男性との接触を経たうえで、それでも女性の柚子に肉体的にも精神的にも惹かれて彼女を選ぶ。しかし『リコリス・リコイル』はそもそもそうした明確な恋愛自体が描かれていない。彼女たちには、関係を画定させる輪郭線としての名前(恋心、愛、恋人,,,)が与えられていない。だからこそ彼女たちの友愛は、友情の延長線上にありながら、しかしそうとも完全に言い切れないような深い親密さを垣間見せる青天井の存在であり、したがってそれを過剰に読み取る「誤読」も読者には許される。ここで男性が出てこないのは重要である。改めて例を引くまでもなく、多くの作品において、親密な男女はしばしば恋愛関係を期待される。しかし彼女たちは、男性が出てこないことによって、親愛と恋愛の間に留まることが許されるのである
 男性が排除された空間としての「百合」は、『ぼっち・ざ・ろっく』のような多くのきらら系作品にも当てはまるだろう。『ぼざろ』には、主人公の父以外の男性が全く登場しない。だからこそ彼らの友情は限りなく恋愛との連続体を為すのであり、メインキャラクターのバンドメンバーの間で(あるいは周囲の人物とも)、積極的にカップリングが組まれる。
 前の節で、マンガ・アニメにおいて恋愛主体であることへの屈折や劣等感ないし喪失が起きていると書いた。しかしここで重要なのは、恋愛それ自体が悪しきものとして捉えられているわけではないということだ。むしろ愛を良きものとして捉えているからこそ、読者はキャラクター同士の関係性の中に積極的に親愛や恋愛を読みとろうとする。問題はそれ自体でよいものであるはずの「恋愛」が、男性を含むと同時に、読者という主体を逆照射し、劣等感を暴くことで、不快なものに変えてしまうと言うことなのだ。だから百合とは、男性を追放することによって、ジェンダーロールから解放された、「純な恋愛」が成立する最後のユートピアかもしれない。

ベースの山田は「ヒモ」という一般的には男性と結びつけられるロールを果たす。(『ぼざろ 6巻』p. 101)

6.『わたなれ』に見るユートピア

 2025年に放送され、大きな話題を呼んだ『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)』(通称『わたなれ』)は、こうした百合モノの一足先を行く作品かもしれない。
 この作品は一見すると、従来のラブコメ、とりわけ『いちご100%』などに代表されるようなハーレムものの文法を忠実になぞっている。主人公の甘織れな子は、王塚真唯や瀬名紫陽花などの美少女たちをその魅力によって陥落させていく。
 しかしこの作品の最も意外な点は、ハーレムの中心をなす主人公がれな子という女性であることである。この作品にも、男性は決して登場しない。そして男性が登場しないことによって、恋愛と親愛の境界はきわめて曖昧で、女性同士の関係性は、恋愛にきわめて近接する。そしてこの点は原作者も意識的に取り入れている点であることが、「なぜお風呂シーンを入れるのか」という質問についての、次のインタビューでの応答からも伺える。

真面目な作劇上の理由としては、百合作品としての「売り」を作るときに、「百合でしかできないもの」がいくつかあって……そのなかで『わたなれ』がテーマにしているのは、「恋愛と友情の境目は、あやふやだよね」といったものです。
そのテーマを書くときに、お風呂シーンはすごくちょうどいいんです。
男女が「友だちだけど……」といってお風呂に入るシーンは、絶対ないじゃないですか。それはもう「別に友だちだけど?」とはさすがに言い張れない。でも、女の子同士で一緒にお風呂に入るのは、「友情」の範囲内なんです。その題材を書くにあたって、お風呂シーンがベストだなと。

お風呂のように、恋人の異性同士ではないと通常しないことが、同性同士だと「友情」という範囲だとできる。しかしそのような問いを立てられること自体が、本質的に友情と恋愛がきわめて曖昧な連続体であることの証明でもある。
 友情の地続きのようにしてはじまる『わたなれ』のラブコメは、「王子様」のような舞唯や、「天使」のような紫陽花のように、キャラクターは一見するとジェンダー化されている。しかしそれは自らの性別に基づく本質的な役割ではなく、彼ら自身が選び取ったものである。れな子は、彼らの欲望に応える形で、真唯には受動的で女性的に振舞い、紫陽花には積極的で男性的にアプローチする。れな子がモテるのは、彼女たちの欲望を肯定するからである。ここにはジェンダー的な要請とは異なる「リード」や「アプローチ」の可能性が兆ししているように思われる
 フィクションの世界で、まだ僕たちが完全にジェンダー・ロールから解放されることはないかもしれない。しかしそれを突き崩すような兆候が、『わたなれ』にはすでに出始めているように思われる。

『わたなれ』のれな子と真唯

7. 第三の性としての「百合」

 おそらく「百合」の性とは、もはや「女性」と「男性」といった既存の性の中に単純に括れるものでもないのだろう。「百合」とは第三の性なのだ。しばしば百合モノの会話で、「女子はこんな会話をしない」と言われる(たとえば『わたなれ』の乳のもみ合い)。しかしそれこそが百合の本質だ。私たちは女子のコミュニケーションについて、本当の意味でよく知りはしない。しかし未知だからこそ、そこは理想を自由に投影する余白として映る。
 その意味で百合は、男がおらず「女の子」だけが生活を繰り広げるユートピアなのだ。なぜならそこを垣間見ている束の間は、僕たちは「男」であることから解放され、ジェンダー・ロールによる縛りの無い「本当の意味の純な恋愛」の兆しを見るのだ。
 「百合の間に挟まる男は死刑」とよく言われる。これはひょっとしたら第三の性としての「百合」の女の子たちは、男が間に入ると相対化され、ただの「女性」になってしまうからかもしれない。百合のユートピアは、男がいないことによってしか成立し得ないのだ。

あとがき.

  ここまで書いて、TSモノとの連続性など、僕はまだまだ語らなくてはならないことがあるのに気付いたが、とりあえずここで筆をおいて次回にまわそう。

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