時代の空気を遡る方法
ベトナム旅行に行ったときのことだ。
初めてGrabバイクに乗った。
そこで少し戸惑ったことがある。
運転手の体につかまることだ。
転ばないようにするためには当たり前のことなのだけれど、いざやってみると妙にぎこちない。
気づけばもう何年も友達と肩を組んでいなかった。
学生のころは、肩を叩いたり、じゃれ合ったり、当たり前のように体に触れながらコミュニケーションを取っていた。
でも大人になるとそうはいかない。
相手との距離感を調整することが礼儀になる。
不用意に踏み込みすぎないことが社会性になる。
そうして私たちは大人になる代わりに、少しずつ身体的なコミュニケーションを失っていく。
もちろん、それは悪いことではない。
ただ、その代償として失ったものも確かにある気がする。
東南アジアを旅していると、そんなことを考える。
人々の距離が近い。
家族も友人も近い。
店員と客の距離も近い。
街全体に人と人との熱が残っている。
だからなのか、歩いていると、ときどき不思議な感覚になる。
「ああ、昔の日本もこんな空気だったのかもしれない」
という感覚だ。
もちろん、本当の意味で昔の日本を知っているわけではない。
私はそこまで長く生きていない。
ただ、親や祖父母の世代から聞いた話を思い出すと、地域のつながりがもっと濃く、人との距離ももっと近かったように思う。
近所の人が勝手に家に上がってくる。
子どもは地域全体で見守られる。
良くも悪くも他人との関わりから逃げられない。
そんな話を聞くたびに、今とは違う空気がそこにあったのだろうと想像する。
海外旅行の面白さは、異文化に触れることだけではない。
むしろ、自分が生まれる前の時代を想像できることにあるのかもしれない。
もちろん、東南アジアは過去の日本ではない。
そこには東南アジアの現在がある。
それでも人との距離感や街の熱気に触れていると、自分が経験したことのない時代の日本を少しだけ想像できる。
私は昔の共同体社会に戻りたいわけではない。
人との距離が近い社会には、人との距離が近い社会なりの息苦しさもあると思う。
実際、私はどちらかというと共同体にうまく馴染めるタイプではない。
だから今の社会の方が合っている部分もあるだろう。
それでも、ときどき少し羨ましくなる。
何も用事がなくても人が集まり、
誰かが誰かの世話を焼き、
人との距離が今より少し近い世界を。
住みたいかと言われれば、何とも言えない。
でも、たまに触れるくらいなら心地いい。
そして、その感覚を知っていること自体に価値がある気がする。
もしそうした空気感を知らなければ、今の日本のあり方を当たり前だと思ってしまうからだ。
変わって良かったものもある。
失われたものもある。
どちらが正しいという話ではない。
ただ、「別のあり方もあるのだ」と知ることはできる。
海外旅行には、異文化に触れるだけではなく、自分が生きている社会を別の角度から見つめ直す力がある。
本や映像では、過去の出来事を知ることはできる。
でも、その時代を生きる感覚まではなかなか分からない。
東南アジアを旅していると、ときどきそんな感覚に触れることがある。
かつての時代の空気感を、リアルタイムで経験できるのだ。
今を生きながら、過去を生きる身体性を獲得する。
旅はときに、私を過去へ連れて行ってくれる。
