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東野圭吾という作家

※本エッセイでは、当該の作家の名前を敬称略で書かせていただいております。



これまでの印象

東野圭吾は、言わずとしれた日本を代表する作家の1人である。
文章は簡明で、アクがなく、読者を巻きこむドラマチックなストーリーもさることながら、意外な伏線や感動の結末で人々の心を震わせる。
多くの作品が映画化・ドラマ化されており、そちらの方もおおむね評価が高い。出版された著書はエッセイも含めて100冊を超え、この事実は東野圭吾がデビュー以来、小説業界の最前線を走り続けてきたのだということを浮き彫りにする。

──そんな非の打ち所のない東野圭吾という作家が、僕はあまり好きではなかった。といっても、厄介なアンチのようにいちいち作品を追いかけて、執念を持って嫌っていたというわけではない。ただ作品を3つほど読んで、「あんまり好きじゃないな」と思っていただけだ。

とはいえ、好きでなかった理由はいくつかある。
中でも1番大きいのは、
映画化・ドラマ化して面白くなってしまう内容のものを、わざわざ小説という芸術形態で創る意味が分からない
というものだ。
世の中には小説、映画、ドラマだけでなく、絵画、音楽、写真、演劇など様々な芸術がある。そうして、それぞれが表現できる事柄や範囲は異なっている。
どういうことかというと、例えば、あるひとりの男、Kを描いた絵画と、そのKのことを書いた小説があるとする。絵画ではKの表情や服装、髪型などの外見的特徴を描くことはできるが、Kが一体何を考えているのかということは表現できない。逆に小説の方では、Kのそうした内面を描くことはできるだろうが、Kが実際どんな顔をしていて、どんな服装、髪型をしているのかということは表現できない。
かなりざっくりとした例だが、僕の言いたいことが分かっていただけるだろうか。

そしてこのように考えると、東野圭吾の作品が小説だけでなく、映画・ドラマでも面白いと言われているものがほとんどだというのが、妙なことに思えてくる。
なぜこの人は他のジャンルでも表現できるようなことをわざわざ小説にするのだろうか
もっとあけすけに言えば、
それならはじめから映画とかドラマを作ればいいじゃないか
と。
確かに、小説も映画もドラマも"物語"であるから、表現として被るところがあるのは理解できる。しかしだからこそ、文章でしか表現できないことを小説家は表現すべきなのではないか、と僕は考えるのである。
それをしないのは、小説家として当然すべきである文章表現の追究を怠っているということであり、小説家としてのプライドがないようにさえ見えてしまう。

細かいことでいえば、もっと理由はあるけれども、主にこういった理由で、僕は東野圭吾の作品を好かなかった。

訃報

東野氏の訃報が、公共電波やネットの波に乗って我々のもとへ届いたのは、1週間ほど前のことである。
その報道は多くの人々に対してと同じように、僕にもショックを与えた。
68歳。言うまでもなく、亡くなるような年齢ではない。
逐一、動向を追っていたわけではないが、
漠然とまだまだたくさんの作品を世に出すのだろうと思っていた。

しかし、こんな風に書いては駄目かもしれないが、衝撃は受けたものの、はじめはそこまでその訃報を気にしてはいなかった。

改めて東野圭吾という作家について考えるべきだと思ったのは、そのニュースを聞いてしばらくしてからのことだった。
具体的なきっかけがあったわけではない。
家で小説を読んでいると、ふと東野圭吾のことが頭に浮かんだ、というただそれだけなのだ。
ちなみにそのとき読んでいたのはレ・ファニュというアイルランドの作家の作品で、東野圭吾の作品とは似ても似つかない作風である。関係があるとは思えない。

そういうわけなので、僕はこのエッセイ(なのかも分からないもの)を書いている明確な理由を、実は分からずにいる。

再読を試みる

だが、理由が分からないとはいえ、東野圭吾について考えたいと思っていることは本当だから、考えてみることにした。
そこで、どういった方法で考えようかと思ったときに、読んだことのない作品を読むよりも、これまでに読んだことのあるものを再読するほうがいいんじゃないかという気がした。

なぜかというと、「なぜこの人は他のジャンルでも表現できるようなことをわざわざ小説にするのだろうか」というような感想を僕に抱かせるに至った要因は、大なり小なりこれまでに読んだ作品たちだからである。

「ではなおのこと、新しい感想を得るために他の作品を読んだ方がいいのではないか?」

そういうアイデアも浮かんだが、実のところ、今の僕の頭には、
「そもそも僕が抱いていた東野圭吾に対する一連の感想は、不当なものなのではないか?」
という疑問があるのだ。

この"不当"には色々な意味があるのだけれど、ひとつには、実際に作品を読むときにある種の先入観をもってしまっていたのではないか、ということである。
僕は東野圭吾という作家について、作品を読む前から知っていて、映画化・ドラマ化された作品が多数あるというのも知っていた。
それゆえに「映画化・ドラマ化できちゃうような作品の文章だもんな」というひどい先入観をもってしまい、正面から作品にあたれていなかったのではないかと疑うのである。
映画化・ドラマ化できてしまうものを創るということは、小説家として当然すべきである文章表現の追究を怠っているということだと僕は書いた。
しかし本当にそうなのだろうか?
僕は東野圭吾の文章を本当にきちんと読んだのだろうか?

またひとつには、映画化・ドラマ化できるものを創るということ自体は、果たして批判されるべきことなのだろうかということもある。
それは小説や映画、ドラマなどのひとつひとつの枠組みを超えた、より普遍性のある、様々な人々に届くものを創っているとも言えるのではないだろうか。
はじめから映画化・ドラマ化されることを狙ったようなあざとくて商業的な作品も世の中には確かにある。
だが、東野圭吾の作品がそうとは限らない。

こういう疑問を自分の中で噛み砕けば、新たな視点を得ることができるかもしれない。
こんなわけで、僕は再読を試みる。

読む作品


最後に、何を読むのかを書いておこう。
これまでに僕が読んだことのある東野圭吾作品は以下の3つだ。

  • 『容疑者Xの献身』

  • 『白夜行』

  • 『虹を操る少年』

『容疑者Xの献身』と『白夜行』は人気のある作品で、だから読んだのかなと思うのだけれど、『虹を操る少年』に関してはどうして買い、読んだのかちょっと思い出せない。上2つがミステリーなのに対して、これはSFなので、ジャンルもちがう。

しかし、まぁそれはいいとして。
ともかく僕はこの3冊をもう一度読んでみようと思う。
できるだけ早く読みたいが、なにぶん僕は鈍読な方だし、続けて同じ作家の作品を読むことができない質なので、いつになるかは分からない。
半年か、一年後くらいだろうか。
3冊とも読めたら、またnoteに書くつもりである。
その頃には東野圭吾、果ては小説等に対する理解が深まっていることを祈って、このエッセイ(みたいなもの)を終えることにする。

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