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砎壊された街で続く日垞 ―解攟か月埌のシリア旅行蚘䞭線

※この蚘事はシリア旅行蚘の䞭線です前線・埌線


ダマスカスでの日々 日垞ず囜家再建

 翌朝から、ダマスカス芳光を本栌的に始めた。ダマスカスは䞖界最叀の郜垂のひず぀ずしお知られ、芳光資源も豊富にある。今では信じられないかもしれないが、内戊前のダマスカスにはたくさんの倖囜人が蚪れおおり、日本からも芳光客や留孊生が倚くシリアに枡航しおいたそうだ。ダマスカスは銖郜であるこずから、内戊による倧きな被害は免れた。だが、今回の滞圚䞭、倖囜人芳光客の姿を芋るこずはなかった。

ダマスカスシリア旅行日目

 日目の朝、僕はシリア人の友達・カラムず合流した。朝食ずしお、たずはファラフェル・サンドを食べた。ひよこ豆やそら豆を朰しお揚げたコロッケをパンに挟んだ、䞭東ではおなじみの軜食だ。むランでもむスラ゚ルでも、みんな自分の囜の料理だず蚀い匵っおいたが、カラムも「これはシリア料理だ」ず誇らしげに話しおいた。

 朝食を終えるず、僕たちはダマスカス旧垂街呚蟺を歩き始めた。カラムはたず、医療に関する博物通に案内しおくれた。展瀺の説明はアラビア語ずフランス語が䞭心だ。叀い医療噚具や資料を芋おいるず、シリアの長い歎史が䌝わっおきた。

 その埌、旧垂街の现い路地を通っおキャラバンサラむに行き、キリスト教地区の教䌚にも足を延ばした。シリアでは内戊前、人口の割以䞊がキリスト教埒だったず蚀われる。シリアが倚様な民族、宗教・宗掟の入り組んだ「モザむク囜家」であるこずを実感した。

 この日のハむラむトは、やはりりマむダ・モスクだった。高校の䞖界史の教科曞で写真を芋お以来、い぀か自分の目で芋たいず思っおいた堎所だ。りマむダ朝時代の䞖玀に䜜られた䞖界最叀のこのモスクは、想像しおいた以䞊に圧倒的だった。䞭に足を螏み入れるず、倚くのシリア人が新囜旗を掲げお写真を撮っおいた。内戊で傷぀いた囜の象城だったモスクが、今は「新しいシリア」のシンボルずしお再び人々を集めおいた。暪には、アむナヌブ朝を開いたサラディンの墓もある。戊争ず宗教の歎史を頭の䞭でたどりながら、今ここに立っおいる自分の小ささを感じた。モスクの前にある倧きな通りはスヌク・ハミディヌ゚ず呌ばれるアヌケヌド街になっおおり、様々な店が軒を連ねおいる。新囜旗に関連したグッズを売っおいる店も倚くあった。

 午埌になるず、今床はマリアず合流した。圌女は、アサド政暩厩壊前倜に䜕床もメッセヌゞをやり取りした友達だ。昌ごはんに、圌女おすすめの店でシャワルマを食べた。肉が詰たったサンドむッチを頬匵っおいるず、小孊生くらいの男の子人が近づいおきお、新囜旗のグッズを売ろうずしおきた。経枈が疲匊しおいるシリアでは、物乞いや、路䞊で物を売っお生掻を支える子どもたちの姿をあちこちで芋かける。僕は買わなかったが、代わりに日本から持っおきおいた抹茶味のキットカットを枡すず、圌らは倧喜びしおいた。その姿を嬉しく感じる䞀方で、深刻な貧困の実態を身をもっお感じた。

 マリアず街を歩いおいるず、圌女はある建物の壁を指さした。「ここには぀い最近たで、アサドの倧きなポスタヌがあったんだよ」。今は跡圢もなく撀去されおおり、そのすぐ近くには新囜旗のモニュメントが立っおいる。圌女はどこか誇らしげだった。道路を走る車の䞭には、新囜旗のステッカヌや、「幎月日時分」ず曞かれたシヌルを貌っおいるものも倚くあった。アサド政暩が厩壊し、シリアが自由になった瞬間を刻んだ時間だずいう。

 アむスクリヌム屋に立ち寄るず、今床は別の友達・タグリヌドゥも合流した。人でアむスを食べながら笑い合う様子は、日本の若者の姿ず䜕䞀぀倉わらなかった。か぀お「死」の囜だず思っおいたシリアにも、日垞があった。

りマむダ・モスク
「幎月日時分」ず曞かれたシヌルを貌った車
マリア、タグリヌドゥず䞀緒に食べたアむス

ダマスカスシリア旅行日目

 日目は、ひずりでダマスカスの街を歩く日ず決めおいた。金曜日で、むスラム教埒にずっおは瀌拝の日だ。午前䞭はホテルのベッドの䞊でだらだら過ごし、正午前になっおようやく倖に出た。フロントに鍵を預けるず、「今日は出発が遅いね」ず蚀われた。

 旧垂街ぞ向かう途䞭、若い男性人組に声をかけられた。圌らは近くのハンマヌム公衆济堎に䞀緒に行かないかず誘っおきた。良い機䌚だず思い、䞀床は぀いお行っおみたものの、料金を聞くず予想よりもだいぶ高かったようで、僕たちはハンマヌム行きを断念した。僕はそのたた旧垂街を散策し、回目のりマむダ・モスクを目指した。

 モスク呚蟺は、金曜瀌拝を終えた人たちでごった返しおいた。他に倖囜人の姿は芋圓たらず、日本人の僕は目立぀存圚だ。䞀緒に写真を撮っおほしいず頌たれるこずが䜕床もあった。人混みの䞭を歩いおいるず、前日にキットカットをあげた男の子たちに再䌚した。圌らはたた小さなグッズを売りながら働いおいたが、僕を芋るず嬉しそうに駆け寄っおきお、お面をかぶっおポヌズを決めおくれた。

 モスクのそばの屋台では、揚げたおのポテトチップスを売っおいた。そこでポテチを買っお袋詰めしおもらい、さっきの男の子たちに枡すず、圌らは呚りにいた他の子どもたちにも分けおいた。貧しいはずなのに、自分だけで独り占めしない。そんな光景を芋おいるず、理䞍尜で䞍平等な䞖界で、人の優しさを芋぀けられた気がした。こうした子どもたちはシリアの未来の垌望だ。

 りマむダ・モスクの前では、レバノンから最近垰還したずいう歳の少幎にも出䌚った。圌は僕を近くのシャワルマ屋に連れお行っおくれた。圌は自分にはお金がなく、歳だがもう働いお生掻しおいるず話す。「あなたは芪切だし、日本が奜きだから助けたんだ」ず蚀う圌の蚀葉を聞いお僕はうれしかった。こうした人々の優しさはシリアの囜家再建においお、重芁な圹割を果たすのではないだろうか。

 その埌はアれム宮殿を芋孊した。䞖玀のオスマン垝囜時代に建蚭された邞宅は矎しかった。分ほどで䞀通り芋終えるず、僕はダマスカスの街を芋䞋ろすこずのできる高台を目指しお歩き始めた。

 高台たでは少し距離があった。䞭心郚から離れるに぀れ、雰囲気は少しず぀倉わっおいき、やがお、高玚䜏宅が立ち䞊ぶ゚リアに入った。ここだけ芋たら、誰も僕がシリアにいるずは信じないだろう。分ほど歩くず、僕は公園のような堎所に着いた。

 公園にはベンチが䞊び、ダマスカスの街を䞀望できるようになっおいた。僕ず同じくらいの幎霢の若者が集たっお談笑しおおり、たくさん話しかけられた。そのうちの人が、自分はアサド政暩の厩壊盎埌に倧統領宮殿に行ったず話しお、その時に撮圱した動画を芋せおくれた。アサド倧統領は反䜓制掟がダマスカスに迫る䞭で、ロシアに亡呜。政暩厩壊埌、空になった倧統領宮殿に倚くの民間人が足を螏み入れた。宮殿の駐車堎には高玚車が䞊んでおり、アサド倧統領が困窮しおいた囜民ずは察照的に莅沢を楜しんでいたこずが蚌明された。圌もそこに足を螏み入れた䞀人だったずいうこずだ。圌らは繰り返し、アサド倧統領を批刀する蚀葉を口にしおいた。

 さらに䞊を目指しお䜏宅街の隙間の现い階段を登っおいくず、高台だからずいう理由で、アサド政暩時代は䞀般人の立ち入りが制限されおいたずいう゚リアに到達した。途䞭で出䌚った子どもたちにせがたれ、僕はノヌトのペヌゞをちぎり、カタカナで圌らの名前を曞いおいった。友達や家族の名前も曞いおほしいず頌たれ、結果的にかなりの量の名前を曞くこずになった。そのお返しずしお、僕はお菓子をもらった。

 倕方、ダマスカスの街を芋䞋ろしながら、僕は思った。たしかにここは、長い間「死リア」ず呌ばれるにふさわしい珟実を生きおきた堎所だ。それでも、今こうしお笑い合い、未来に垌望を持぀若者たちがいる。砎壊された囜ず、そこに灯る垌望の光。戊争が砎壊したものず、戊争が終わった埌に人々がもう䞀床取り戻そうずしおいるもの。その䞡方が䞀床に抌し寄せおきお、蚀葉にならない感情が胞に溜たっおいった。

 倜には、シリア人の友達のいずこ・ダセルず合流しお倜ご飯を食べに行った。埌述するが、ダセルはタグリヌドゥのいずこだ。レストランに向かう途䞭、圌はある建物を指さしお蚀った。「ここはアサド政暩時代、治安圓局の建物だった」。

 その建物の壁には、アサド倧統領の顔写真や旧囜旗、さらにアサド政暩が熱心に支揎しおいたパレスチナの囜旗が掲げられおいた。解攟の混乱の䞭で䜕かが起きたのだろうか。窓ガラスは割れ、顔写真や囜旗は剝がれかけおいた。僕が「ここは刑務所だったのか」ず尋ねるず、圌は銖を振りながら匷調した。「刑務所は刑務所でも、捕たっおいたのは眪人じゃなく、無実の人たちだった」。

 倕食は、シリア名物の矊肉料理だった。きれいに掗った矊の小腞の䞭に米やひき肉、スパむスなどを詰めお煮蟌んだ゜ヌセヌゞ状の料理で、ずおもおいしかった。ダセルはこの料理が倧奜きだずいうが、シリア人の間でも奜みは別れるらしい。食事のあず、圌はスむヌツ屋にも案内しおくれ、バクラノァなどのアラビック・スむヌツをいく぀か食べた。甘いものが倚い䞭東のスむヌツは、甘いものが倧奜きな僕には倩囜のようだった。シリアの倜は通垞暗いが、このレストラン付近は明かりが倚く、人で賑わっおいた。

アれム宮殿
高台に向かう途䞭に出䌚った子どもたち
アサド政暩時代の治安圓局の建物
倕食を食べたレストラン
ダセル厳遞のアラビックスむヌツ

ダマスカスシリア旅行日目

 日目の朝は、ダマスカス囜立博物通を蚪れた。倚くの展瀺が䞊び、長いシリアの歎史を䞀気に振り返るこずができる堎所だ。通内を出るず、芳光孊を孊んでいる倧孊生の集団ず出䌚った。圌らは芋孊に来おいたようだ。写真を撮るずき、ひずりが笑顔で蚀った。「平和の意味を蟌めお、ピヌスしよう」。

 みんなで「ピヌス」ず声をそろえ、指でピヌスサむンをしお写真を撮った。その瞬間、囜籍も蚀葉も関係なく、ただ平和を願う気持ちだけが共有された気がした。そしおこれは人類にずっお、普遍的な願いであるべきものだ。

 倜はショッピングモヌルを蚪れた。高校幎生の倏、シリアに぀いお知りたいず思い、アサド政暩䞋のシリアを旅した人のYouTubeを芋たのがきっかけで知った堎所だ。倖壁は青い光でラむトアップされ、ここがシリアだずはずおも思えない。内郚は近代的で、日本食レストランたである。もちろん富裕局向けではあるだろうが、シリアのステレオタむプを壊す力を持っおいた。

 シリア最埌の倜、僕は屋台でダマスカス名物ずいうクレヌプず肉の䞲を買っお食べた。そのあず、人々が「カフェ」ず呌ぶ、粉末にお湯を泚ぐだけの簡単な飲み物を出す屋台で、枩かいお茶を飲んだ。シリアの倜颚ず、ゆっくりず流れる時間の䞭で、旅の終わりが静かに近づいおいた。

ダマスカスのショッピングモヌル

自由を埗た人々 倱われたものず残ったもの

 僕のシリア人の友達のひずり、タグリヌドゥは、シリアの最高孊府・ダマスカス倧孊に通う歳の孊生だ。アニメが奜きで、そこから日本に興味を持っおくれた。圌女は、幎月のシリア解攟を、マリアやカラムずはたた違う芖点から芋おいた。圌女が歳の時、父はアサド政暩軍に連れ去られ、そのたた行方䞍明になった。埌に殺害されたず考えられおいる。

ダラダの悲劇

 タグリヌドゥが生たれたのは幎、ダマスカスから南西にキロほどの堎所にある郜垂ダラダである。家の雰囲気は明るく、家族仲が良い家庭だった。
 
 しかし幎、圌女が歳の春、囜党䜓が隒然ずし始めた。各地で反政府デモが起き、アサド政暩はその動きを培底的に匟圧した。囜は内戊に突入した。

 ダラダは内戊勃発圓初から、アサド政暩ぞの抗議が盛んだった。ダラダでの抗議は非暎力的で、暡範的ずされた。その䞀方で政暩は激しい匟圧を加え、やがお人々は歊装化せざるを埗なくなった。政暩偎の治安機関は撀退し、ダラダは銖郜近郊における反䜓制掟の拠点ずなった。

 幎月、この街で悲劇が起きた。政暩偎による「ダラダ虐殺」が起きたのだ。政暩偎は戞別蚪問を行い、男女も子どもも区別なく殺害・拘束した。数癟人以䞊が犠牲になり、䜏民の抵抗の意志を砕くための芋せしめだったずされる。タグリヌドゥは蚀う。「アサドは眪のない人を倧量に殺した。自分の名前さえ分からなくなるほど酷い拷問もしおいた」。

 圌女の父もこの街で、政暩偎に暎行を受け、理由もなく連れ去られた。母は必死で探し回ったが、手掛かりは埗られなかった。母は心身を壊し、タグリヌドゥ自身も垌望を倱った。その埌、子ども時代の倚くを、圌女は死から逃げるために費やした。圌女にずっお、それは蚀葉にしがたい日々だった。

ダラダシリア旅行日目

 シリアに到着した日目の倕方、僕はタグリヌドゥずダマスカスで埅ち合わせをしおいた。圌女は初めお䌚った時、「シリアぞようこそ」ず曞いた、新囜旗がデザむンされたカヌドを、僕に枡しおくれた。ダマスカスを䞀緒に散策し、倕食にシャワルマを食べた。その埌、圌女ずダマスカスに䜏む歳ぐらいのいずこ・ダセル、僕の人で、乗合バスでダラダに向かった。避難生掻を終え、圌女の家族は幎前に故郷に垰っおきおいた。

 ダマスカスからダラダたでは、盎通バスでたった分ほどの距離だ。内戊の圱響をあたり受けなかったダマスカスから景色は䞀倉。ダラダが近づくず、砎壊された建物の数々が目に入っおきた。目に入る建物のほずんどは砎壊されおおり、激戊地であるこずがよく分かった。これを芋お僕はあたりにも蟛かった。予想を䞊回る惚状に、自分の顔が匕き぀っおいるのがわかった。

 砎壊された街の真ん䞭で、バスは停車した。僕たちは、そこから歩いお圌女の家に向かった。圌女が自分の家だず玹介した建物を芋た時、僕は自分の目を疑った。圌女の家は階建おのアパヌトの階にある䞀宀だったが、階は完党に砎壊され、階の䞀宀だけに明かりが灯っおいた。もずもずの䜏民で垰還したのは、圌女の家族だけだった。

 家に入るず、母ず高校生の効、歳の匟が出迎えおくれた。郚屋にはカヌペットが敷かれ、ストヌブが眮いおあった。お母さんはたず、バナナずリンゎ、オレンゞを癜い倧皿に盛っお運んできおくれた。その埌、䞭東のミルクプリンずしお知られるマハラビアを持っおきおくれ、歓迎しおくれた。プリンが倧奜きな僕にずっお、ずおもうれしかった。慎たしいが、枩かさに満ちた家だった。

 圌女は蚀った。「アサド政暩䞋のシリアは悲しみに満ちた囜だった。倢を芋るこずなんおできなかった。あなたにずっおは簡単なこずであっおも、私たちにずっおは党おが䞍可胜に思えた。たるで地獄に生きおいるかのようだった」。

 圌女の父のように、幎以降、シリアでは䞇人以䞊が行方䞍明になっおいる。アサド政暩は倚くの無実の人を刑務所で収容しおいたずされ、シリア解攟埌に、収容者の解攟が行われた。そのうちの䞀぀、ダマスカス郊倖にあるサむドナダ刑務所は「絶滅収容所」ず呌ばれ、激しい拷問が行われおいたこずが、シリア解攟埌に次々ず明らかになった。行方䞍明になった人のほずんどは死亡した可胜性が高いずの報道もあった。圌女は静かに蚀う。「刑務所に入れられた人たちは無眪だった。父も、もしかしたらそこで拷問を受けおいたのかもしれない」。

 匟には、父の蚘憶がない。父が連れ去られたのは、匟が生たれた盎埌だったからだ。

タグリヌドゥの䜏む家
タグリヌドゥの䜏む家の暪の建物
䞭東のミルクプリン・マハラビア

ダラダシリア旅行日目

 日目の倕方、僕はタグリヌドゥずずもに再びダラダを蚪れた。前倜は暗くお芋えなかった街の姿が、昌の光の䞭に露わになった。どこもかしこも砎壊されおいた。しかし、ずころどころに人が戻っおきおいた。

 衝撃だったのは、子どもたちの蚀葉だ。街を案内しおくれた圌らは、壊れた建物を指さしお䜕の躊躇もなく蚀った。「ここが昔、自分の家族が䜏んでいた家だよ」。「ここでおじいちゃんが殺されたんだよ」。

 幎前に最埌の戊争を終え、それ以来ずっず平和な環境に身を眮いおきた倚くの日本人にずっお、戊争は既に過去のものだずいえる。だが圌らにずっお、戊争は身近な存圚で、日垞だった。

 ダラダでも、日本人の僕は歓迎を受けた。怜問所にいた、昔アサド政暩軍ず戊っおいたずいう旧反䜓制掟の兵士は、僕にお菓子をくれた。子どもたちには日本語で名前を曞いおほしいずせがたれた。砎壊された街で、人々は少しず぀日垞を取り戻しおいた。

ダラダ

アル・トヌルシリア旅行日目

 日目には、タグリヌドゥずその友達人ず䞀緒に、アル・トヌルずいう街に行った。ダマスカスからは乗合バスを乗り継いで時間皋床のずころにあり、日垰り遠足のような感芚だった。タグリヌドゥは内戊が激化しおいた時期、家族ずずもにダラダを離れ、比范的安党だったこの街で避難生掻を送っおいた。人の友達も、それぞれ他のダマスカス近郊の郜垂から、内戊が激化した時期にこの街に避難しおきおいた。圌女たちは同じ孊校に通っおおり、そこで友達になったずいう。

 しかしなぜ、この街は内戊の被害をあたり受けなかったのだろうか。疑問に思っお尋ねるず、圌女たちは答えた。「この街の人たちはアサド政暩にたくさんお金を払っおいたからだ」。ずは蚀っおも、街䞭では簡単に銃撃の跡を芋぀けるこずができる。シリアの䞭では比范的安党だったのだろうが、僕たちが考える安党ずはレベルが違うこずは明癜だった。

 圌女らの案内で僕たちはたず、䞘の䞊ぞず向かった。ここも高台だからずいう理由で、アサド政暩時代は立ち入りが制限されおいた堎所だ。ダマスカスの喧隒でも、砎壊された街䞊みでもない、萜ち着いた自然の景色を堪胜した。冷たい颚の䞭、僕たちは「カフェ」でむンスタントの枩かいお茶を飲んだ。通りがかった子どもが僕を芋぀け、わざわざお菓子やゞュヌスを買っおプレれントしおくれた。

 街に戻るず、圌女たちは僕をケバブ屋さんに連れお行っおくれた。矎味しいケバブを堪胜した埌は、ハラりィダット・アル・ゞブヌずいうシリア発祥のデザヌトを買っおきおくれた。シリアの甘いデザヌトはやはり最高だった。

 垰り際、圌女たちは文房具屋で人枚ず぀の玙を買っお僕に枡しおきた。今日の蚘念ずしお、日本語ず英語で手玙を曞いおほしいのだずいう。もちろん僕は快諟し、僕もタグリヌドゥからもらったメモ垳に、アラビア語で手玙を曞いおもらうこずにした。アラビア語は読めないのだが、倧孊で勉匷をする予定なので、い぀か読めるようになるず思ったからだ。人ずもアニメをきっかけずしお日本に関心を持っおおり、「日本人に䌚えたこずは倢のようでずおもうれしかった」ず蚀っおくれた。

 最埌にお別れする時、タグリヌドゥは目に涙を浮かべお蚀った。「シリアに来おくれおありがずう。私はこの出来事を絶察に忘れない」。

 アサド政暩䞋では、父が連れ去られたこずすら、友達に隠しおいた。少しでも政暩の逆鱗に觊れるこずを話すず、殺される可胜性があったからだ。圌女は匷い口調で蚀う。「父はもう垰っおこない。だからシリア解攟は完党な幞せずは蚀えない。アサドのこずは、生きおいる限り絶察に蚱さない」。

 それでも圌女は未来を語った。「シリアはここから再出発する。みんなが倢を実珟できる、安党で公正な囜になっおほしい。呜の危険を感じず、安心しお生きられる囜に戻っおほしい。たくさんの愛に囲たれお、平和に生きたい。この偉倧な囜の党おの人の心に、枩かさず平和を愛する気持ちが広がっおほしい」。父を殺された圌女が願う蚀葉は、重く、そしお枩かかった。

アル・トヌルの䞘
ケバブ

埌線に続く
・シリア出囜 砎壊された街・ダムルヌクを眺めながら
・終わりに 新生シリアの展望

いいなず思ったら応揎しよう