犯人さがしよりふたりで治そう~性行為感染症のリアル~
「性病かもしれません」
そう言って診察室に入ってくる人は、たいてい少し小さくなっている。身長が縮んだわけではない。背中に、見えない石を一つ背負っているように見える。まだ椅子にも座っていないのに、もう反省文を三枚くらい書かされた顔をしている。
こちらとしては、別に裁判長の黒いガウンを着て待っているわけではない。机の下に木づちもない。「有罪」と書いた札も用意していない。あるのは、尿カップと顕微鏡と、できればその不安を少しでも軽くしてあげたいという気持ちだけである。
けれど、「性病」という言葉は重たい。医学の言葉で「性感染症」と言えば、少し白衣を着た感じにはなる。それでも、言葉の端っこに暗い影がくっついている。だらしない。遊んでいる。自業自得。そんな余計な札が、本人の知らないところで勝手にぺたぺた貼られてしまう。
でも、性感染症はお仕置きではない。神様が空から見ていて、「こらっ」と雷を落とした結果ではない。性的な接触でうつることがある感染症であり、誰にでも起こりうる体の問題である。風邪をひいた人に「人生を反省しなさい」とは言わないのに、性感染症だけ急に道徳の教科書を持ち出すのは少し違う気がする。
今は、人と人との距離が遠くなった時代だと思う。恋愛も結婚も、昔のように「はい、みなさんこの列に並んでください」と給食の配膳みたいには進まない。ひとりで夜のスーパーを歩き、半額シールの貼られたお惣菜を見つめながら、誰かの体温を思い出すこともある。人間は、スマホだけで充電できる生き物ではない。
誰かに触れたい。手をつなぎたい。抱きしめられたい。そう思うこと自体は、少しも悪いことではない。むしろ、とても人間らしいことである。ただ、人と人が近づくところには、心の問題だけでなく、体の問題も一緒についてくる。恋愛には心がある。けれど、粘膜もある。ここが、なかなかややこしい。
性感染症と聞くと、「おしっこが痛い」「膿が出る」というイメージが強いかもしれない。たしかに男性では、尿道に感染すると症状が出やすい。おしっこがしみる。かゆい。下着に膿がつく。本人としてはかなりびっくりする。朝からそんなものを見つけたら、コーヒーの味もわからなくなる。
一方で、症状がほとんど出ない感染もある。とくに女性では、おりものが少し増えたかな、疲れているのかな、くらいで通り過ぎてしまうこともある。のどに感染することもある。クラミジアや淋菌は、性器だけに住むとは限らない。のどの奥で、痛くもかゆくもなく、しれっと暮らしていることがある。なかなかの居候である。しかも家賃を払わない。
最近は梅毒も、昔の病気とは言えなくなった。ドラマ『JIN-仁-』で、大沢たかおさん演じる南方先生が、吉原の遊女を治療する場面を思い出す人もいるかもしれない。あれは遠い昔の話のように見えるが、梅毒はいまも普通に見つかる。そして、いまも治療の主役は「ペニシリン」である。医学は進歩したようで、本質的には、昔からあまり変わっていないのかもしれない。
性感染症には、クラミジア、淋菌、梅毒、ヘルペス、尖圭コンジローマ、HPV、HIVなど、いろいろなものがある。名前だけ並べると、まるで悪役が次々登場する特撮番組みたいだが、それぞれ性格が違う。強い症状を出すものもあれば、静かに隠れているものもある。厄介なのは、病気そのものだけではない。その後ろに、患者さんの生活や関係や沈黙が、そっと見え隠れすることである。
ときどき、本人にまったく身に覚えがないということがある。たとえば、妊娠をきっかけに婦人科で検査を受けたら、奥さんのクラミジアが陽性だった、というような場合である。新しい命を授かった喜びに包まれていた家の空気が、一瞬で変わる。夫は妻を疑い、妻は夫を疑う。エコー写真の赤ちゃんまで、どこか心配そうに見えてくる。
泌尿器科なので、検査に来るのはご主人である。ご本人は身に覚えがないと言う。すでに怒っていることもある。私に怒られても困るのだが、きっと家ではもっとすごい空気になっているのだろうと思う。診察室の椅子が、急に家庭裁判所の椅子みたいになる。
そして、ご主人の検査結果が陰性だった時、話はさらにややこしくなる。「自分は陰性だった」と知った瞬間、怒っているような、悲しいような、ほっとしたような、でも少しもほっとしていないような、なんともいえない表情になる。あの顔は、医者を長くやっていても慣れない。検査結果という紙一枚が、人の心をこんなに重くするのかと思う。
ここで私は、できるだけゆっくり説明する。今回の検査で陰性でも、検査は百発百中の神のお告げではありません。尿の検査ではわからない場所に感染していることもあります。検査の時期や、検体の取り方で、見つからないこともあります。感染したのが最近とは限りません。症状がないまま残っていた可能性もあります。だから、犯人探しを急がないでください。まずは、いま起きていることを一緒に整理しましょう、と。
これは慰めではない。本当のことである。検査で見つかったのが今日でも、感染したのが今日とは限らない。本人がまったく気づかないまま時間がたっていた、ということもある。ここを間違えると、体の病気が、夫婦や恋人同士の心の病気に変わってしまう。菌より先に、疑いのほうが家庭を壊してしまうことがある。
だから私は、性感染症の検査はお仕置きではないと思っている。不安という暗い部屋から、もう一度、明るい場所へ戻るための検査である。尿カップは反省文ではない。顕微鏡はムチではない。血液検査は神様の通信簿ではない。検査は、いま何が起きているのかを見るための、小さな懐中電灯である。
懐中電灯で照らして、菌がいれば治療する。必要なら、パートナーも一緒に検査する。陽性なら一緒に治療する。のどが心配なら、のども調べる。治る病気は治す。再感染を防ぐ。余計なドラマを増やさない。ドラマはテレビに任せておけばよい。こちらは現実の生活を守りたいのである。
もちろん、予防は大事である。コンドームを使うこと。症状がある時は性行為を控えること。不安があれば早めに検査すること。新しいパートナーができた時に検査を考えること。陽性なら、相手にも伝えて、一緒に治療すること。どれも少し面倒に見える。でも歯みがきと同じである。歯みがきがロマンチックではないからといって、歯をみがかずにデートへ行く人は少ない。性の健康も、ロマンチックを壊すためではなく、ロマンチックを長持ちさせるためにある。
もしパートナーの検査が陽性だったら、まず深呼吸してほしい。目の前の人を、いきなり被告人席に座らせないでほしい。疑う前に、一緒に検査しよう。一緒に治そう。必要なら医師に説明を聞こう。過去を裁くより、今の相手をまっすぐ見るほうが、ずっと難しくて、ずっと大事である。
診察室のドアを開ける人は、罰を受けに来るのではない。不安から、少しずつ戻ってくるために来るのである。背中に石を背負って入ってきた人が、帰る時にほんの少しだけ背筋を伸ばしてくれたら、それだけでこちらは十分うれしい。
「性病かもしれません」
そう言われたら、私は今日もできるだけ普通の顔でうなずく。
「では、ちゃんと調べてみましょう」
その一言で、背中の石が少し軽くなるなら、尿カップにも顕微鏡にも、なかなか立派な仕事がある。医学というものは、時々こういう地味な道具で、人の孤独を少しだけ軽くする。
