言葉は画像(視覚情報)に勝てるのか?(俳句についてのつぶやき)

言葉は画像(視覚情報)に勝てるのか?(俳句についてのつぶやき)


俳句甲子園の俳句はそれだけで素晴らしいのではないか、
という視点があります。

なので、書き記す程度なのですが、

明日には今日は昨日になる 泳ぐ

審査員13人のうち4人が作品点で10点満点をつけ、海城Aの優勝を決め、
全国大会に提出されたすべての句の中の最優秀句にも選ばれた特徴的な句なので触れます。


私自身も、クリープハイプのエロを思い出しました。
897万回視聴 12 年前
2014年7月23日発売 5thシングル「エロ /二十九、三十」
ただ、俳句甲子園の本質は、審査員の旗を上げた数を競う競技ですからね。「JPOPに類想があるのでは」という視点で一読しました。

今日は明日昨日になる
今日は明日昨日になる
今日は明日昨日になるんだから
もうやる事やろうよ

と「今日は明日昨日になる」と繰り返すサビは印象的でした。

ただ、ここでもサビとして採用される、
「シングルカットされる」という判断をされるフレーズでもあるということも確かです。

俳句甲子園の決勝という舞台で

明日には今日は昨日になる 泳ぐ

一字開けの俳句が登場し、
高校生の力強さを含んだ俳句だから選ばれたのだろうと思います。


生きぬいてやれ昨日と明日の間

と布袋寅泰に言われて育った私としては、

「昨日」「今日」「明日」の関連は一般的な概念かなぁとも思いましたが、
俳句甲子園の決勝で象徴的に扱われることに意味があったのだと思います。

実際のところ、
横浜翠嵐高校の指摘においても、「明日には今日は昨日になる」の表現に既視感があると指摘があったようです。

人により言うか言わないかはありますが、
結局のところ俳句甲子園の審査員にどう評価されるかが肝心で、

俳句の中ではもしかすると「ど真ん中すぎる」ため、
誰も普段の俳句環境では言わない表現を、
特に、月数千句や数万句の選句を行う立場にある審査員の方々が、
若者による空白一字明けの表現を決勝の舞台で見たことで「刺さった」のでしょうね。

この句を提出句とした勇気に敬意を表します。



そして、

俳句甲子園をモチーフとしたお笑いのネタがあり、
「着物姿の女性役を配置すると俳人の夏井いつきさんをみなさんが想像する」というところまで
「俳句甲子園」が筑波大学のお笑いを見に行く人には認知されているのかなと思いました。

そして、私がいつも思うことですが、
隠れている右側の短冊、「それ」に勝てるのか。






以下盛大にネタバレ

ルイージの画像が右側の短冊に貼られています。

コントでは、正統派の俳句を出す高校に対し、もう一方の高校は短冊に「ルイージの画像」を貼っています。

「画像じゃないので情景が伝わってこない」

という指摘に、笑いが起こっています。
俳句甲子園に画像を出してきた学校が俳句を出している学校に対してこう質問するのですから、面白いですよね。


ではこの問いに私たち俳人ははどう答えるのでしょうか。

ずっと考えている私には「俳句が比べられる対象は、もはや言葉同士だけでなく、画像(視覚情報)でもある」というメッセージにも感じました。


正岡子規が俳句を広めた頃は、
テレビもなく、新聞という白黒の文字媒体が主な伝達手段でした。

さらにさかのぼれば、
もしかしたら、私たちが旅行雑誌を読むように、
松尾芭蕉の旅の記録を楽しんでいたのかもしれません。

だからこそ俳句は有効な表現でした。
だけど現代の俳句は、こうした画像のような視覚情報との戦いの中にあります。

「ルイージの画像」から巻き起こっていく笑いを見ながら、
そんな表現の現在地を感じました。

いま、芭蕉さんの俳句による旅の記録のライバルは、
旅行雑誌ではないかなとも思います。

現在「奥の細道」が出版されたと仮定して、
東北やご当地体験について知りたいときに、
「旅行雑誌」と「奥の細道」のどちらを手に取るのか。という問いです。


「画像じゃないので情景が伝わってこない」


私は、ずっと言っているのですが、
「写真を送ったらいいじゃん」というのがすごくあります。

これは2000年代からの「写メ」という新しい文化が、
「写メ」という言葉も死語になりつつあります。
メールでもなく、ワンボタンで友達に写真や、いつのまにか動画すらすぐに送ることができるようになっています。

そんな時代になっていることが私には俳句にも無関係だとは思っていません。

そんなことを言っている私なので、
今回の俳句甲子園の句は、

審査員の方々はその句も高く評価するんだね、ということを改めて感じました。
「明日も今日も昨日も」描けないものですからね。

あとは、少し俳句を学びたい人が私の文章を詠んでいるものと思いますが、
どんな句が集まる場で、どんな句が一般的な表現の顔をしていて、
どんな句を出せば半歩や一歩ズレていて、自分の句が輝いて見えるか。

これも一つの俳句である。表現である。
という面はあるということを共有しておきたいと思います。

雑談としてはこんな感じです。


もし一方的にオチをつけるとしたら、
現代の文化や音楽も愛しながら生き、
画像や動画との差異も考えた上で俳句を詠もうとしている、
あなたの方法論でもうちょっと頑張って俳句と共にやっていきなさい。
「審査員レベルの無意識か意識的かにかかわらず、私の方法論が評価される時代が遅れてやってくるよ、あなたの方法論で間違っていないよ」と感じてもいいのかなぁと思いました。

画像や動画では描けない「昨日や今日や明日」という概念を言葉にした句が、今年の俳句甲子園の最優秀句だったわけですからね。

カメラには写らない、けれど確かにそこにある心の景色。

真夏の鏡僕はエースじゃなかったな

紫陽花や補欠には補欠の気持ち

私はまた、こんな句も作りながら生きていこうと思います。

書きながら、いつも思うのですが、
多くの人が私と同じ価値観に気付いてしまったときには、
私の独自性は消えてしまう、そんな日々です。
また、言論の場を紙面などに持つ私より大きな存在がさも「私が見つけた」かのように同じ主張をし始めないとも限らない。そんなことも頭をよぎります。
けれど、だからこそ今、この言葉を記しておくことが大事なのだと思いました。

「あなたが自分の色を上げてほしいと思う旗は、本当は誰が持っているのでしょうか?」

それではまた!

いいなと思ったら応援しよう!