【空襲で焼けずに残った姫路城天守】黒く染めた偽装網で覆われ、白鷺城ならぬ「黒鷺城」だった時代があった
城は、「黒い城」と「白い城」に大きく分けることができる。
一般的に「黒い城は豊臣の城」「白い城は徳川の城」と言われたりするが、それは嘘。黒い壁の天守は豊臣時代(関ケ原の戦い以前)、白い壁の天守は徳川時代(関ケ原の戦い以降)に築かれたものが多く、壁の耐久性に対する技術の違いだ。
黒い天守は外壁が黒色。雨水を防ぐ黒い漆や柿渋などを塗った下見板張り(したみいたばり)が壁の多くを蔽っている。
白い天守は、「白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりごめ)」と呼ばれる技法で、火に強い石灰を用いた高価な白漆喰で外壁全体を塗り固めている。
その代表である姫路城は、関ケ原の戦いの戦功により播磨一国52万石を与えられた池田輝政が築いた。織田家重臣の一人だった池田恒興の次男で、父と兄の元助がともに小牧・長久手の戦いで戦死したため、家督を継いだ。輝政の後妻は徳川家康の二女督姫(とくひめ)。家康にすれば大坂にいる豊臣秀頼へのけん制と西国大名に対する備えとなることを期待してのことだった。
輝政は1601年から大改修を行い、9年がかりで五重六階地下一階の層塔型天守と東・西・乾の3基の三重小天守を二重の渡櫓でつないだ連立式天守を完成させた。
シラサギが翼を広げたように華麗なことから「白鷺城」の愛称で姫路市民に親しまれているが、戦時中は黒く偽装されていた。
拙著「城が燃えた」(西日本出版社)を編む際、姫路市立城内図書館から提供された写真を見ると、五重六階の大天守の外壁が黒い。

「姫路城史」(橋本政次著)などによると、白漆喰で塗られた天守が敵機の格好の目標になるとして、太平洋戦争開戦前年の1940年から防空対策が議論されるようになった。空から見えにくくするために白壁部分をペンキで塗る案などが検討されたが、美しい漆喰塗りの城壁を損ねてしまう。最終的にはコールタールで黒く染めたわらの網で天守を覆うことに決まったという。
網は上下に丸竹を取り付け、くぎにつるした。今でも、西の丸にある百閒廊下には偽装網をかけるために打ち込んだくぎが残る。外壁に約20本の「L」字型に曲がったくぎが打ち込まれている。
姫路城史は当時の様子を〈今までの明るい印象は消失せて、何となく陰鬱な感覚を与へるようになった〉と伝えている。
ただ、45年7月3日深夜に姫路市を襲った大空襲で市街地は灰燼と化したが、天守は残った。
いつしか、まことしやかな噂が市民の間に広がった。「天守が焼けずに残ったのは黒く偽装したからだ」――。
だが、空襲で焼失した旧国宝天守のうち、「白い城」の和歌山城天守は外壁を黒いむしろで隠したが、45年7月9日の大空襲で炎に包まれた。一方で、「黒い城」の代表である岡山城天守も6月29日の大空襲で焼け落ちている。
姫路大空襲で焼夷弾投下の目標となった「爆撃中心点」は姫路城の南約800㍍の国道2号線あたり。火の手は姫路駅前から上がり、順次周辺へと広がったという。もし、燃え上がった炎が北へ向かっていたら……。
やはり、姫路城天守が焼けずに残ったのは「イッツ オンリィ バイ チャンス(単なる偶然だ)」。(矢野宏)
