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【空襲で燃えなかった姫路城天守】1945年7月3~4日——50年後、B29爆撃機の元機長は言った。「イッツ オンリィ バイ チャンス(単なる偶然だ)」

兵庫県姫路市が大規模な空襲に見舞われたのは、1945年7月3日の深夜のことだった。テニアン島を出撃し、瀬戸内海から姫路上空に飛来したB29爆撃機は106機。3日午後11時50分から翌4日午前1時29分までの約1時間半にわたり、油脂焼夷弾767㌧を投下した。
当時、姫路市の人口は約10万人。米軍が日本の40年国勢調査をもとに作成した「都市爆撃予定順位」では43番目だった。だが、姫路城内には陸軍第10師団、城の周りには大小100を超える軍事施設が建てられるなど、軍需産業の拠点だった。
焼夷弾を落とす目標である「爆撃中心点」は姫路城天守の南約800㍍の国道2号線あたり。人口が密集している市街地を狙った無差別爆撃で、火の手は姫路駅前から上がり、順次周辺へと拡大した。犠牲者は173人。被災者は4万人を超え、市街地は灰燼と化した。
米軍の「作戦任務概要」には、こう記されている。
〈煙が2万フィート(約6000㍍)まで達したことが判明。後の偵察写真では、市街地の1・12平方マイル(58・3%)を破壊。この日までの破壊合計は71・8%〉
高く立ち上った煙の下で173人が命を落とし、市街地は灰燼と化した。

国宝姫路城天守=2024年5月(筆者撮影)

50年後の1995年7月、姫路市は戦後50年を記念して、姫路大空襲に加わったB29爆撃機の機長アーサー・トームズさん(当時74歳)ら5人の元乗組員とその家族を招待している。
市民との対話集会「姫路空襲50周年平和のつどい」には遺族ら200人ほどが参加した。その中に、高校の元英語教諭で「姫路市戦災遺族会」会長の黒田権大さん(1929年生まれ)の姿もあった。
姫路城を案内しながら、黒田さんは尋ねた。
「どうして、あなたたちはこの城を燃やさなかったのか」
トームズさんの答えは意外なものだった。
「イッツ オンリィ バイ チャンス(単なる偶然だ)」
トームズさんは「テニアンの飛行場を飛び立ったあとも、上官から『姫路城をどうしろこうしろ』という命令はなかった。城があることすら知らなかった。出撃の直前に配られた攻撃目標地図は赤い線で囲んであり、城は攻撃エリアの北側の線上にあったのだろう。赤線で囲んだ目標の北限の上空に差し掛かったとき、レーダーが『水面』の存在を示した」と振り返っている。
夜間攻撃だったため、レーダーに頼らざるを得なかった。陸が映し出されると焼夷弾を投下し、海が写れば投下を中止した。レーダーが示した水面は、城を取り囲む堀だった。

空襲体験を語る黒田権大さん=2017年11月、姫路市内(筆者撮影)


トームズさんは城を攻撃していないと言ったが、城内にあった第39連隊本部の兵舎は焼き尽くされ、三の丸西髙台(現千姫ぼたん園)の南側にあった黒田さんの母校である旧制鷺城中学校(現市立姫路高校)の校舎3棟も全焼していた。
その後、黒田さんは1発の大型焼夷弾が大天守最上階の窓を突き破って直撃していたことを知る。たまたま不発弾だったので焼失をまぬがれたが、火を吹いていたら……。
その不発弾を城外に運び出し処理した当時見習士官だった鈴木頼恭さんに、黒田さんは話を聞いている。
想像もつかないほどの勇気がいる行動だ。
「天守閣の最上階の床に大きな焼夷弾が転がっていたそうです。不発弾とはいえ、いつ爆発するかわからない。『ハラハラしながら部下と抱えて階段を下り、庭で爆発処理させました』と語っていました。姫路城が残ったのはまさに偶然だったのです」(矢野宏)



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