【知っていますか「大垣城落城」】1945年7月29日――模擬原爆「パンプキン爆弾」投下から5日後の悲劇
岐阜県大垣市が大規模な焼夷弾空襲に見舞われたのは1945年7月29日未明。蒸し暑い夜だった。
数10機のB29爆撃機が轟音をとどろかせながら飛んできた。が、そのまま東へ向かった。ほどなく、20㌔離れた愛知県一宮市は夜空を真っ赤に焦がすほど燃え上がった。
「今晩は大丈夫。大垣に空襲は来ない」と布団に入った大垣市民の頭上に焼夷弾の雨が降り注いだのは2時間後。グアム島を出撃した90機のB29が午前0時52分から2時50分にわたり、658・7㌧の焼夷弾を投下した。
大垣市史によると、当時の人口約5万6000人のうち、死者50人、重軽傷者は100人を超えた。市内の約4割に当たる4900戸が焼失し、一夜のうちに市街地は廃墟と化した。
模擬原爆投下を含め、大垣は県下で最も多い6回の空襲に見舞われている。その理由について、「『空襲体験』を語りつぐ大垣の会」事務局長の高木正一さんが説明する。
「大垣は『水の都』と言われるように地下水が豊富で、工場が多くありました。特に繊維産業が盛んで、戦時中は主な工場はすべて軍需工場に切り替えられ、軍服やパラシュート、航空機関係を作っていました。名古屋市の衛星都市という地理的な理由もあって米軍の空爆目標とされたのではないでしょうか」
「大垣市戦災遺族会」会長の安田寛さんは空襲当時6歳。米軍が5日前に投下した模擬原爆で父を亡くし、母と2人で暮らしていた。
降り注ぐ焼夷弾に逃げ惑う多くの人たち。母は安田さんの手を引き、大垣公園内にある防空壕を目指した。すでに30人ほどが避難しており、「どうか、中に入れてください」と懇願する母に容赦ない声が飛んだ。
「ここは御殿町の防空壕や。よその人は他に行って!」
街を焼き尽くす猛火が迫っていた。外に出れば命はない。この窮地を一人の男性が救ってくれた。
「この非常時に何を言うとる」と一喝してくれ、防空壕の中に入れてくれたのだ。
「防空壕の外で『ゴー』という風音、火が激しくはじける音などが聞こえてきました。母が覆いかぶさってくれていたのですが、暑苦しかったのを覚えています」
翌30日未明、警報が解除された。安田さんが外に出ると、大垣城天守がものすごい火を噴いて燃えているのを見た。
「お城も焼けたのか……」と、子ども心にも落胆は大きかったという。

関ケ原の戦いで、西軍の本拠地となった大垣城。1620年には2階建ての上に望楼をのせた三層天守を四層四階にし、白漆喰の総塗籠造りの層塔型天守に改築された。
1635年に譜代大名の戸田氏鉄(うじかね)が摂津尼崎藩5万石から10万石に加増されて大垣城に入り、戸田氏11代の居城として明治維新を迎えた。
1873年の「廃城令」で廃城となると、多くの建物も破却され、払い下げられて、本丸を残してほとんど市街地化された。本丸も中学校に下げ渡されたが、建設されなかった。5年後に有志が公園建設を出願。岐阜県の許可を受け、本丸を中心にした一帯は大垣公園として整備された。かろうじて残った天守は1936年、旧国宝に指定される。

焼け落ちる天守を間近に見た消防団長の記事が1972年7月11日付の岐阜日日新聞(現岐阜新聞)に掲載されている。
〈「大垣城が燃え出した」と聞いた時、当時、市の警防団長をしていた三輪広吉さん(七六)=市内郭町、食料品店経営は、市の警防団本部で、頭の血がスーッと引くのを覚えた。この城だけは——と決心していた。名古屋の警防団が大垣市へやってきた時(先に焼け野原となった名古屋の消防車が、大垣市へ配備されてきた)「お前ら、名古屋城を守れなかったじゃないか」とタンカを切ったことがあったからだ。ありとあらゆる窓から煙と火を吹く白い城は、例えようもなく壮烈だった。手近にいた団員を集め、城へ向かって「最敬礼」をさせた。申し訳ない——の一心だった〉(掲載当時の年齢)
敗戦まであと17日だった。(矢野宏)
