【知っていますか「名古屋落城」】1945年5月14日―米軍の「誤爆」で旧国宝第1号天守が炎上
旧国宝第一号だった名古屋城天守が空襲による炎に包まれたのは1945年5月14日のこと。マリアナ基地(サイパン・テニアン・グアム)のB29部隊は大都市への空爆を一時中断し、3月末から沖縄上陸作戦支援のため、九州各地の特攻基地を爆撃していた。その2カ月の間に底をついていた焼夷弾が補給され、B29爆撃機も500機以上配置された。
この日、大都市への空襲が再開された。出撃したB29は524機、うち472機が紀伊半島を縦断して琵琶湖上空で集結した後、進路を東に向けた。名古屋市の中心部は3月の空襲で焼失しており、焼け残った市北部に爆撃の照準を定めていた。

午前6時に発令された警戒警報は午前7時50分、空襲警報に切り替わった。爆撃は午前8時5分から1時間20分にわたって大小の焼夷弾計2515㌧が投下された。日本の都市に対する初めての本格的な白昼空爆で、338人が犠牲になった。
名古屋城では、最悪の状態に備えて国宝などの文化財の「疎開」を始めており、本丸御殿の障壁画や天井の板絵の多くを移した。金の鯱の移転も考えられたが、大きすぎて収める建物がない。一説には城内に穴を掘って埋めることにしたという。
相次ぐ空襲の中、何度も中断しながら足場を組み、この日ようやく南側のメスを天守の2階まで下ろし、オスに取り掛かり始めた矢先だった。足場に多くの焼夷弾がひっかかり、作業のために開けていた城の窓から飛び込んだ焼夷弾が火の手を広げた。天守は猛然と火を噴いた。
戦争と平和の資料館「ピースあいち」(名東区)に天守が炎上する写真パネルが展示されている。撮影したのは東海軍管区司令部の報道部に所属していた岩田一郎さん(故人)。城の間近で名古屋城炎上の一部始終を目の当たりにした時の様子を「名古屋空襲誌」に書き残している。

〈真っ黒と言っても過言ではない黒い空に真っ赤な炎が何十㍍も立ち上がる姿は何と表現したらよいか。300年の歴史を秘めたお城が空の魔物に吸い上げられるように天高く炎が舞い上がっている。その赤い炎の中から緑色の炎が魔物のように立ち上がる。銅瓦が焼ける炎だ。……いよいよ世紀の終わりが来た。あ、最後だと思った瞬間、一種異様な音とともに堀の中に崩れ落ちていった〉
わずか2時間のうちに、旧国宝天守は金の鯱とともに焼け落ち、本丸御殿なども焼失した。
米軍が焼夷弾を落とす目標とした「爆撃中心点」は名古屋城の北側。にもかかわらず、なぜ炎上したのか。
5月14日の空襲の特徴は初めて昼間の時間帯に行われたこと。白昼の空襲だったので、B29部隊は思わぬ痛手を受けている。夜間空襲だった3月12、19日の名古屋空襲ではB29の損失がそれぞれ1機ずつだったが、5月14日は11機、損傷は66機にも及んでいた。
.ピースあいちを運営する「NPO平和のための戦争メモリアルセンター」理事で元教員の西形久司さん西形さんはこう推測する。
「予期せぬ日本側の激しい抵抗に遭遇したB29の操縦士や爆撃士は、早く焼夷弾を投下して身軽になろうとする心理が働き、はるか手前で投弾してしまったのではないか。それが予定外の名古屋城天守の炎上につながったのではないでしょうか」(矢野宏)
