【知っていますか「福山城落城」】1945年8月8日――敗戦1週間前に焼け落ちた五重六階の大天守
1945年8月6日の広島市への原爆投下から2日後の8日夜、広島県福山市は激しい焼夷弾爆撃に見舞われた。
午後10時25分ごろ、一発の照明弾がさく裂。市街地は一瞬にして昼間のように浮かび上がった。四国方面から来襲したB29爆撃機は91機。遥か上空を北上しながら大量の焼夷弾を次々に投下した。市内各地で火の手が上がり、断続的に大きな破裂音が轟く。1時間10分に及ぶ焼夷弾爆撃で街中が猛火に包まれた。
米軍の「作戦任務報告書」によると、大型のM47焼夷爆弾139・2㌧(4035発)と、M50エレクトロン焼夷弾を束ねたM17集束焼夷弾を416・5㌧(1666発)の計555・7㌧を落としたと記録されている。
M50焼夷弾は金属の還元反応(テルミット反応)を直接利用したもので、着弾すると2000度を超す高熱の火柱が噴き上がり、鉄も溶かす。水をかけると燃焼が拡大するため、消火活動を混乱させた。

焼夷弾は避難する人たちの頭上にも降り注ぎ、直撃を受けて倒れる人もいた。すさまじい炎と煙にまかれて逃げ場を失い、消火活動に従事して逃げ遅れるなど、多くの市民が犠牲になった。
2日前に広島に原爆が投下されたことで、警防団が「爆弾の光を見たら昼夜を問わず、遮蔽物の中に入るように」と指導したため、粗末な防空壕に入ったまま焼死したり、窒息死したりした人も少なくなかったという。
「被爆・福山空襲70周年記念誌」には、この日の空襲による焼失面積は314㌶、市街地の8割に及んだと記されている。当時の人口約5万6000人のうち、死者355人、重軽傷者は864人。市民の8割を超える4万7326人が焼け出された。

森近静子さん(1938年生まれ)は空襲時7歳。霞町の霞国民学校(現霞小学校)2年だった。森近さんは、市内中心部の霞町で、寝具屋を営む両親、姉と3人の妹との家族7人で暮らしていた。父親は自分に召集令状が来ることを想定し、残された家族をどう守るのかを考えた。自宅から2㌔ほど南、市街地から離れた野上町にある工場の敷地に仮住まいと頑丈な防空壕を作り、引っ越したのだ。
「硬い栗の板で周りを囲み、屋根を覆った上に土を盛った防空壕でした。『栗の八分板(厚さ約2・5㌢)を使った防空壕だ』というのが父の自慢でした」
8日午後10時過ぎ、森近さんは寝ていたところを母に起こされ、枕元に置いていた防空頭巾と着替えを持って防空壕に駆け込んだ。
家族が避難しているのを確認した父親は、空襲警報が鳴り響く中、バケツ二つ持って警防団の人たちと消火活動に向かった。
2畳半ほどの防空壕の中で、母と5人姉妹は肩を寄せ合った。入口の向こう側に落ちてくる焼夷弾が見えた。「ドーン」という破裂音が体にも響く。ほどなく、父親が血相を変えて防空壕の中に滑り込んできて、叫んだ。
「だめだ。もうだめだ」
同時に、「シューシューシュー」という風を切る音とともに焼夷弾が落ちた。防空壕が激しく揺れた。森近さんは何度も「家族みんな死ぬんだ」と覚悟したという。
「爆音が収まり、外から近所の人の声がしたのです。『森近さん、大丈夫か』と。その声を聞いて『私たちは助かったんだ』と安堵しました。防空壕の中で顔を見合わせると、みんな泣きじゃくっていました」
空襲が過ぎ去った深夜、防空壕を出た。真っ暗な北の空で何かが燃えているのに気づいた。
「あ、お城が燃えている」

天守は五重六階地下一階。一重目から五重目まで規則正しく縮めていく層塔型で、東南の角には二重三階の小天守を接合した複合型。天守の各重に三角形の「千鳥破風」をつけて華やかに飾った。北側に堀もなく砲撃に対して防御が手薄だったため、天守の1~4階の北壁に厚さ3㍉ほどの鉄板を張っていた。
「毎日眺めて、家族と遊びにも出かけた城が赤い炎に包まれていた。なぜか、涙が流れてきました」
敗戦の1週間前のことだった。(矢野宏)
