「無宗教」と言いながら、私たちは何を信じているのだろう
「あなたは何か宗教を信じていますか?」
そう聞かれたら、
「特にありません」
と答える日本人は多いのではないでしょうか。
私自身も、長い間そういう感覚でした。
特定の宗教を信仰しているわけではない。教会に行くわけでもない。聖書やコーランを信じているわけでもない。
だから、自分は「無宗教」なのだと思っていました。
でも、あるときふと考えました。
本当にそうなのだろうか。
たとえば、日本人は事故物件をあまり好みません。
「前にここで人が亡くなった」と聞くと、たとえ科学的には何も問題がなくても、なんとなく避けたくなる。
一方で、亡くなった家族のために仏壇に手を合わせたり、お墓参りをしたり、先祖を祀ったりする。
お正月には神社へ行き、家を建てるときには地鎮祭をする。
子どもが生まれればお宮参りをし、七五三では神社に行く。
こうして並べてみると、私たちは本当に「何も信じていない」のだろうか。
むしろ、かなり多くのものを大切にしているようにも見えます。
日本には昔から、八百万の神という考え方があります。
山にも、川にも、木にも、岩にも、風にも。
あらゆるものに神が宿る。
「物にも魂が宿る」という感覚もあります。
長く使った道具に愛着を持つ。
人形を簡単には捨てられない。
古い木をむやみに切ることに、何となく抵抗を感じる。
亡くなった人の持ち物を、ただの「物」として扱えない。
こうした感覚は、今も私たちの中に残っているように思います。
それなのに、私たちはそれを「宗教」とはあまり呼びません。
「これは宗教ではなく、昔からの習慣です」
「日本の伝統です」
「先祖を大切にするのは当たり前です」
そんなふうに考えます。
そこで、少し面白いことに気づきました。
「宗教」と「伝統」を別のものとして考えすぎているのではないだろうか。
「宗教」と聞いたとき、私たちが思い浮かべるのは、キリスト教やイスラム教のようなものなのかもしれません。
教典がある。教祖がいる。教会やモスクがある。信者がいる。
そういうものを「宗教」だと思っている。
だから、自分には教典も教祖もいない。特定の宗教団体にも所属していない。だから「無宗教」。
でも、その定義だけでは、日本人の生活の中にあるさまざまなものがこぼれ落ちてしまいます。
お墓参りをする。
先祖を大切にする。
神社にお参りする。
自然を畏れる。
死者を丁寧に扱う。
節目の日に儀式を行う。
こうした「伝統」の中には、
「人間は自然の一部である」
「死者は完全にいなくなるわけではない」
「目に見えないものにも畏敬の念を持つ」
といった、世界についての考え方が含まれているのではないでしょうか。
それならば、それはかなり「宗教的」なものなのかもしれません。
もちろん、だから日本人はみんな宗教を信じている、と言いたいわけではありません。
ただ、
「私は無宗教です」と言った瞬間に、自分たちが何を大切にしてきたのかを見えなくしてしまってはいないだろうか。
そんなことを考えます。
私たちは「宗教を信じている」という自覚を持たないまま、長い時間をかけて受け継がれてきた世界観の中で暮らしている。
そして、それを「宗教」ではなく、「文化」や「伝統」と呼んでいる。
私はこのことが、なんだか面白いと思うのです。
「自分は無宗教だ」と思っている自分自身に、
「では、あなたは何を大切にしているの?」
と問いかけてみる。
すると、普段は当たり前すぎて見えていなかったものが、少しずつ浮かび上がってくる。
もしかすると、宗教を考えるということは、特定の神を信じるかどうかだけではなく、
「私は、この世界をどんなものとして見ているのか」
を考えることなのかもしれません。
📕今日の一冊
『日本人はなぜ無宗教なのか』阿満利麿

