『孤軍奮闘 ― 奪われた八年を取り戻すまで ―』3
第三部 預けた口座、失った主導権
― FXと信頼によってお金を任せる ―
4人で暮らし始めてから、最初の一週間は、まるで修学旅行の延長のようだった。
朝、誰かが起きる。
誰かが冷蔵庫を開ける。
誰かがシャワーを浴びる。
誰かがコンビニへ行く。
それぞれが好きな時間に動きながらも、同じ部屋に戻ってくる。
狭い1LDKは、4人で暮らすには明らかに窮屈だった。
リビングの隅に布団を敷けば、歩ける場所はほとんど残らない。誰かが寝ている横を、誰かがまたいで通る。キッチンに立てば、背中を向けるだけで部屋の中央にいる人間と肩がぶつかる。
それでも、直人は不思議と嫌ではなかった。
実家にいたころは、家に帰っても自分の生活が変わることはなかった。
母親がいて、決まった場所に食器があり、決まった時間に風呂へ入り、決まった部屋で眠る。
安心はあった。
しかし、変化はなかった。
ここには、変化の予感があった。
壁の薄い部屋。
足りない家具。
借金で始まった生活。
それでも、ここから何かが始まると思っていた。
その中心にいたのが、桐谷蓮と三浦湊だった。
二人は、毎日のようにスマートフォンやノートパソコンを並べていた。
画面に表示されているのは、見慣れない数字や線、アルファベットだった。
赤と緑の四角形が何本も並び、線が上がったり下がったりしている。
直人には、その画面が何を意味しているのか、ほとんどわからなかった。
「これが相場」
蓮は、画面を指でなぞりながら説明した。
「上がるか下がるかを読む。安いところで買って、高いところで売る。単純に見えるけど、実際はもっと奥が深い」
「じゃあ、ずっと画面を見ていないといけないのか?」
亮が尋ねた。
「やり方による。俺たちは仕組みを作るから、ずっと張り付く必要はない」
「仕組み?」
「資金を分けて、リスクを管理して、勝てるタイミングだけ入る。感情でやらなければ、ちゃんと増やせる」
蓮の口調には迷いがなかった。
まるで、すでに何度も成功している人間のようだった。
直人は、蓮の言葉を聞きながら、画面を見つめた。
そのときの彼には、数字が上下する理由よりも、数字が増えていく未来のほうが重要だった。
月給30万円をもらうために、自分は毎晩働いている。
時間を削り、酒の匂いに囲まれ、眠気を押し殺し、客の表情を読みながら働く。
それに対して、蓮と湊は部屋にいながらお金を増やそうとしている。
もし本当に利益が出るなら、これほど効率のいいことはない。
「俺も勉強したほうがいいのかな」
直人が言うと、蓮は笑った。
「もちろん勉強は必要。でも、最初から全部覚えようとすると時間がかかる。俺たちが運用を担当して、直人と亮は働いて資金を作る。そのほうが効率いいだろ」
「俺たちは働いて、二人は増やすってことか」
「そう。役割分担だよ」
役割分担。
その言葉は、直人の中で自然に受け入れられた。
4人で始めた夢なのだから、全員が同じことをする必要はない。
働く人間がいて、管理する人間がいる。
資金を作る人間がいて、増やす人間がいる。
それぞれが得意なことを担当すれば、ひとりで全部やるよりも早く成功できる。
直人は、そう考えた。
亮も、蓮と湊の話を聞いて納得しているようだった。
「俺は投資とかよくわからないから、任せたほうがいいと思う」
「だろ?」
蓮が笑う。
「大丈夫。俺たちが責任を持ってやる」
その言葉に、直人は安心した。
責任を持つ。
その言葉が、何よりも心強かった。
数日後、4人で生活費と投資資金について話し合うことになった。
リビングの中央に、コンビニで買った弁当の空き容器が置かれていた。
テーブルがないため、床に直接座る。
蓮はノートを開き、湊は電卓を持っていた。
「まず、毎月の家賃と光熱費を合わせて、だいたい15万円くらい」
湊が言った。
「食費や日用品を入れると、4人で月20万円前後は必要になる」
「一人5万円か」
亮が計算した。
「そう。直人と亮が働いて、最低限の生活費を入れる。残りを運用に回す」
直人は、ノートに書かれた数字を見た。
自分の給料から5万円を生活費に出す。
それとは別に、将来のための資金を投資へ回す。
毎月、少しずつでも増えれば、半年後には大きな金額になる。
蓮は、簡単な計算を見せた。
「仮に毎月30万円を運用に回して、月に数%取れたら、半年後には元金も利益もかなり大きくなる」
「数%って、そんなに取れるものなのか?」
直人が尋ねる。
「相場次第。でも、無理な勝負をしなければ可能性はある。俺たちは一発勝負をするつもりはない」
「負けることもある?」
「もちろんある。でも、負けを小さくして、勝つときに大きく取る。そういう管理をする」
蓮はそう言いながら、ノートに数字を書き込んだ。
利益。
損失。
資金配分。
リスク管理。
初めて聞く言葉ばかりだった。
しかし、わからない言葉が並ぶほど、直人には本格的に見えた。
専門的な話を理解している蓮と湊。
夜の店で働く自分。
コンビニで働く亮。
その差が、いつの間にか能力の差のように感じられていった。
「俺たちは、運用のことを勉強しているから」
湊が言った。
「任せてもらえれば、直人たちが働いている間にも、資金を動かせる」
直人は頷いた。
その場で、口座の話が出た。
「それぞれの口座から、運用に使う分をまとめたほうが管理しやすい」
蓮が言った。
「別々に入れると、利益の計算が面倒になる。ひとつにまとめて、誰がいくら出したかだけ記録しておけばいい」
「俺の口座を使うのか?」
亮が尋ねた。
「いや、運用担当の湊が管理したほうがいい。直人の口座も、亮の口座も、必要な分だけ移してくれればいい」
その瞬間、直人の中に小さな引っかかりが生まれた。
自分の口座を、他人が管理する。
それは少し怖いことのように思えた。
しかし、その不安を口にする前に、蓮が続けた。
「もちろん、勝手に使うわけじゃない。全部記録するし、毎週報告もする。4人でやるなら、そのくらいの信頼は必要だろ」
信頼。
その言葉を出されると、反対しにくかった。
直人は、自分が疑っているように思われるのが嫌だった。
ここまで一緒に来た。
同じ部屋で暮らしている。
同じ夢を語っている。
それなのに、口座ひとつ渡せないのか。
そんなふうに思われたくなかった。
「俺は大丈夫」
直人は言った。
「任せるよ」
亮も少し遅れて頷いた。
「俺も」
湊は、直人と亮のスマートフォンを受け取った。
暗証番号やログイン情報について確認する。
直人は、自分の口座情報を伝えながら、奇妙な感覚になった。
自分が働いて得た給料。
これまで何も考えず使ってきたお金。
それを、今から別の人間が管理する。
自分の人生に関わる大切なものを、自分の手から離す。
それでも、直人は自分に言い聞かせた。
これは、お金を失うためではない。
お金を増やすためだ。
成功するために必要な、最初の一歩なのだ。
翌日、直人は仕事へ向かった。
夜の街は、いつも通りに騒がしかった。
店内には、酔った客の笑い声が響いている。
グラスを片付け、灰皿を交換し、店のスタッフへ指示を出す。
働いている間も、直人の頭にはFXの数字が浮かんでいた。
今日の夜勤で稼ぐお金。
来月の給料。
それを投資に回せば、どれくらい増えるのか。
もし利益が出れば、こんな仕事を続けなくてもいい。
半年後には、配当だけで生活できるかもしれない。
1年後には、起業資金が貯まるかもしれない。
そんな考えが、疲れた体を動かしていた。
仕事を終えて部屋へ帰ると、湊がスマートフォンを見ながら笑っていた。
「どうした?」
直人が聞く。
「少し増えた」
「本当に?」
亮がすぐに近づいた。
湊は、画面を見せた。
数字がわずかに増えている。
大きな金額ではない。
しかし、直人にはそれが未来の証拠に見えた。
「すごいな」
亮が言った。
「まだ始まったばかりだから」
湊は落ち着いた様子で答えた。
蓮は、ソファの背もたれに寄りかかりながら言った。
「ほら、働くだけじゃなくて、金にも働かせる。これが大事なんだよ」
直人は、自分の口座から移した金額を思い出した。
それが、画面上で増えている。
自分が働いていない時間にも、お金が動いている。
その事実に興奮した。
もっと入れれば、もっと増えるのではないか。
そんな考えが、自然に浮かんだ。
「次の給料も、ほとんど回していいかな」
直人が言うと、亮がこちらを見た。
「生活費は残しとけよ」
「もちろん。でも、今のうちに入れたほうがいいんじゃないか?」
蓮は頷いた。
「その判断は悪くない。資金が大きいほど、利益も大きくなるからな」
「じゃあ、俺もできるだけ入れる」
亮が言った。
その日から、直人と亮は、働いて得たお金の多くを口座へ入れるようになった。
生活費を除いたほとんどの金額。
時には、手元に数千円しか残らない月もあった。
それでも、将来のためだと思えば我慢できた。
食事は安いものにした。
外食を減らした。
必要なもの以外は買わなかった。
4人で自炊をする日も増えた。
だが、家事の負担は少しずつ偏っていった。
直人と亮が働いて帰る。
蓮と湊は、相場を見ながら家にいる。
料理をする日もあれば、しない日もある。
食器を洗う人も決まっていない。
直人は疲れていても、シンクに積まれた皿を見れば洗った。
亮は、黙ってゴミをまとめた。
「投資のほうが大事だから」
蓮は、そう言った。
「俺たちは、4人分の資金を動かしてるんだ。家事まで全部やるのは無理だよ」
その言葉を聞いて、直人は何も返せなかった。
確かに、蓮と湊は資金を運用している。
自分たちの代わりに、増やす役割を担っている。
そう考えれば、家事の負担くらいは仕方ない。
そんなふうに、直人は何度も自分を納得させた。
ある月、湊が大きく損を出した。
画面に表示された数字は、前日までよりかなり減っていた。
「どういうことだよ」
亮が声を荒げた。
「相場が急に動いた」
湊は、画面から目を離さなかった。
「想定の範囲内だよ」
「でも、俺の金も入ってるんだぞ」
「わかってる」
「わかってるなら、何でこんなことになるんだよ」
部屋の空気が重くなった。
直人も、損失の数字を見つめていた。
金額だけを見れば、何日も働いて稼いだ給料が消えている。
それでも蓮は、冷静だった。
「短期の損失に騒ぐな。トータルで勝てばいい」
「本当に戻るのか?」
直人が聞くと、蓮は少しだけ眉をひそめた。
「信じられないなら、最初から任せるなよ」
その一言で、直人は黙った。
信じられないなら任せるな。
たしかに、その通りだった。
自分は口座を渡した。
自分で任せると決めた。
今さら損失だけを見て、責任を追及するのは違う気がした。
その夜、直人はひとりでベランダに出た。
街の明かりが、遠くまで続いていた。
手すりに置いたスマートフォンには、口座残高が表示されている。
残高は減っていた。
しかし、直人には何が正しくて、何が間違っているのかわからなかった。
投資の知識がない。
運用の仕組みもわからない。
どの取引をしたのかも、すべては把握していない。
わかっているのは、自分の名前で作られた口座があり、その管理を他人に任せているということだけだった。
直人は、スマートフォンを握りしめた。
自分のお金なのに、自分では動かせない。
自分の口座なのに、何が起きているのか説明できない。
それでも、「仲間だから」という理由で、追及することを避けていた。
翌朝、蓮はいつも通りに言った。
「昨日の損失は取り戻せる」
湊も頷いた。
「むしろ、ここからがチャンス」
亮は黙っていた。
直人は、二人の顔を見た。
不安そうな亮。
自信を失っていない蓮。
何かを考え込んでいる湊。
4人で始めた夢は、まだ壊れていない。
直人はそう思おうとした。
壊れているのは、数字だけだ。
人間関係は大丈夫だ。
信頼は残っている。
だから、もう一度資金を入れればいい。
働けばいい。
頑張ればいい。
直人は、また仕事へ向かった。
夜の店で働き、帰宅し、口座へお金を入れる。
その繰り返しが始まった。
給料日が来るたび、直人は自分の口座残高を確認した。
一定額を残し、残りを運用資金として移す。
亮も同じようにした。
蓮と湊は、取引の結果を簡単に説明した。
勝った日には、明るい声で話した。
負けた日には、相場のせいにした。
直人は次第に、結果を細かく聞かなくなった。
聞いても理解できない。
理解できないことを尋ねると、無知を見透かされる気がする。
何より、質問することで、4人の関係にひびが入るのが怖かった。
だから、任せた。
任せ続けた。
自分が汗をかいて稼いだお金を。
未来のために必要な資金を。
いつか自分で事業を起こすための夢を。
口座の暗証番号を教えたとき、直人は仲間に信頼を渡したつもりだった。
しかし実際に渡していたのは、信頼だけではなかった。
お金を管理する権利。
判断する権利。
自分の人生を選ぶ主導権。
それらを少しずつ、他人の手に渡していた。
そのことに気づくのは、もっと先のことだった。
この頃の直人は、まだ笑っていた。
4人で食卓を囲み、安い肉を焼き、未来の話をした。
「金が増えたら、もっといいところに住もう」
蓮が言う。
「車も買おう」
湊が続ける。
「会社を作ったら、俺たちが社長だな」
亮が笑う。
直人も笑った。
目の前の生活が、成功への途中にあると信じていた。
借金も、貯金のなさも、口座を任せていることも、すべては大きな未来のための犠牲だと思っていた。
だが、人生において最も危険なのは、損をすることではない。
損をしているのに、それを損だと認められなくなることだ。
不安を感じても、信じているふりをする。
疑問を持っても、仲間のために黙る。
残高が減っても、未来のためだと言い聞かせる。
そうして人は、自分の判断を少しずつ手放していく。
直人がそれを理解したときには、すでに多くのお金と時間が、彼の手元から消えていた。
けれど、その夜の直人は、そんな未来を知らなかった。
彼はただ、暗い部屋の中で、スマートフォンに表示された数字を見ていた。
そして、わずかに増えた残高を確認すると、安心したように画面を閉じた。
明日も働こう。
もっと稼ごう。
もっと入れよう。
いつか、この努力は報われる。
そう思いながら、直人は4人分の布団が並ぶ部屋で目を閉じた。
夢を見ていた。
仲間と成功し、高い場所から街を見下ろす夢だった。
その夢の中で、直人はまだ、自分の人生を自分の手で握っていた。
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