見出し画像

『孤軍奮闘 ― 奪われた八年を取り戻すまで ―』7

第七部 四年間の空白

    投資と共同生活に疑問を持つ

 四年という時間は、直人にとって、長いのか短いのかわからなかった。

 振り返れば、あっという間だった。

 高瀬亮が実家へ連れて行かれた朝から、四年が過ぎている。

 あの日、亮の父親と母親が部屋へ来た。

 亮は抵抗しながらも、結局は荷物をまとめ、両親と一緒に出て行った。

 玄関のドアが閉まり、エレベーターの音が遠ざかったあと、部屋には三人だけが残された。

 直人と、蓮と、湊。

 そして、亮のものだった布団と、空になった玄関の一角だけが残った。

 最初の頃は、亮の話をしていた。

 いつ戻ってくるのか。

 親と何を話しているのか。

 あの日、亮が探していた茶色い封筒は、本当に部屋にあったのか。

 湊が持っていた封筒は、亮のものではなかったのか。

 亮は、誰かを疑っているのか。

 投資に回した金は、どうなっているのか。

 疑問はいくつもあった。

 しかし、疑問が出るたび、蓮は別の話を持ち出した。

「今は亮のことより、目の前の生活をどうするかだろ」

「家賃は待ってくれない」

「配達の件数を増やせないか」

「投資は止められない。ここで止めたら、今までの資金が無駄になる」

 湊も、似たようなことを言った。

「亮のことは、本人が落ち着いたら戻ってくる」

「親に連れて行かれたからって、ずっと実家にいるわけじゃない」

「今は、俺たちが続けるしかない」

 その言葉を聞くうちに、直人の意識は、少しずつ別の方向へ向けられていった。

 亮を心配することより、働くこと。

 封筒の行方を考えることより、次の配達先を確認すること。

 投資の状況を問いただすことより、資金を作ること。

 そうしなければ、すべてが崩れる。

 直人は、そう思い込んでいった。

 亮がいなくなった分、家賃の負担は増えた。

 家賃は17万円。

 それは、亮がいなくなっても変わらない。

 光熱費も、食費も、車両費も、借金の返済もなくならない。

 投資を続けるための資金も必要だった。

 蓮は、直人に言った。

「亮が抜けた分は、俺たちで埋めるしかない」

 直人は、その言葉を聞いて、すぐに頷いた。

「俺が配達を増やす」

「それが一番早い」

「夜の仕事も続ける」

「無理はするなよ」

 蓮はそう言った。

 しかし、直人が休もうとすると、蓮は必ず別の仕事の話を持ち出した。

「今日、午前の配達を入れられる」

「夜まで時間があるなら、もう一件回れる」

「今月は運用に追加で必要だ」

「少しでも多く作っておけば、後で楽になる」

 無理をするなと言いながら、直人が無理をしなければ回らない状況を作っていく。

 直人は、その矛盾に気づいていた。

 気づいていたが、口には出さなかった。

 今、自分が弱音を吐いたら、生活が崩れる。

 亮がいなくなったことで、すでに一人分の穴が空いている。

 自分まで止まれば、残った二人が困る。

 いや、二人だけではない。

 投資資金が足りなくなれば、これまでの努力が無駄になる。

 家賃を払えなければ、部屋を失う。

 部屋を失えば、共同生活も、夢も、すべて終わる。

 そう考えると、直人は休めなかった。

 朝は配達。

 昼も配達。

 夕方から夜の仕事。

 夜の仕事が終われば、また配達の準備。

 週7日、直人は働いた。

 仕事のない日は、仕事を探した。

 予定表に空白があると、不安になった。

 空白があれば、亮のことを考えてしまう。

 亮が最後に見せた顔。

 玄関で「戻ってくるから」と言った声。

 父親に連れられていく背中。

 見つからなかった封筒。

 自分が何も確認できないまま、時間だけが過ぎたこと。

 そうしたことを考え始めると、胸の奥が重くなった。

 だから、仕事を入れた。

 荷物を積み、車を走らせる。

 住所を確認する。

 階段を上がる。

 インターホンを押す。

 荷物を渡す。

 次の住所へ向かう。

 身体を動かしている間は、何も考えずに済んだ。

 配達の仕事を始めたばかりの頃、蓮も時々、助手席に乗った。

「今日はこの地域を先に回ったほうがいい」

「時間指定が多い荷物を手前に置け」

「このマンションは入口がわかりにくいから、先に確認しておいたほうがいい」

 蓮は、直人の仕事を手伝っているように見えた。

 直人が荷物を運んでいる間、車で待っていることもあった。

 給油のときには、燃料計を見ながら言った。

「満タンにすると、今月の資金が苦しくなる。今日は必要な分だけでいい」

 直人は、給油機に表示される数字を見つめた。

 数千円の給油さえ、気軽にはできなかった。

「これで足りるかな」

「次の入金まで持たせればいい」

 蓮は答えた。

「直人は、余計なことを心配しなくていい。働いてくれれば、投資も続けられる」

 その言葉を聞くと、直人は少し安心した。

 自分が今、苦しい生活をしているのは、将来のためだ。

 手元に自由に使えるお金がなくても、配達で稼いだ金は、家賃と投資に回っている。

 投資が続いているなら、いつか大きな結果が出る。

 そのときになれば、今の苦労はすべて意味を持つ。

 直人は、そう考えることにした。

 食事は、おにぎり二個で済ませることが多かった。

 朝、コンビニで鮭と昆布のおにぎりを買う。

 一個は昼に食べる。

 もう一個は夕方まで残す。

 夜の仕事へ行く前、車の中で食べる。

 温かい食事を取る余裕はなかった。

 財布の中には、自由に使える金がほとんどない。

 直人の給料が入る口座は、いつの頃からか、自分で残高を確認できなくなっていた。

 ログインしようとしても、以前の情報では入れない。

 蓮に尋ねると、いつも同じ答えが返ってきた。

「管理の都合で変更した」

「今は資金をまとめて動かしている」

「直人が個別に見ると、数字が混乱する」

「必要なときは、こちらから説明する」

 湊も同じことを言った。

「投資口座と生活口座をまとめて管理している」

「家賃や光熱費も、こっちで処理している」

「細かい明細を見ても、直人にはわからないと思う」

 最初、直人は反発した。

 自分の口座なのに、自分で残高を見られない。

 おかしい。

 そう思った。

 しかし、蓮は落ち着いた口調で説明した。

「直人は、配達に集中してくれればいい」

「お金の管理は俺たちがやる」

「投資のことを考えながら働いたら、身体も気持ちももたないだろ」

「数字を気にするより、今は稼ぐことが大事だ」

 その言葉には、直人を気遣うような響きがあった。

 だから直人は、強く言い返せなかった。

 自分は、投資のことをよく知らない。

 相場の動きも、取引の仕組みも、専門的な数字の意味もわからない。

 蓮と湊は、それを知っている。

 ならば、任せたほうがいい。

 自分は働く。

 二人は運用する。

 役割分担なのだ。

 直人は、そう考えた。

 けれど、月の小遣いさえ渡されない生活が続くと、その考えは少しずつ変わった。

 仕事で使う飲み物が欲しい。

 車の中で食べるものが欲しい。

 靴が古くなった。

 雨の日の上着が必要だ。

 そう思っても、自由に買うことができない。

「必要なら、金額を言って」

「何に使うのか説明して」

「今月は余裕がない」

「投資の資金を優先する」

 自分で稼いでいるはずなのに、自分のお金を使うために、許可を求めなければならない。

 直人は、そのことを不思議に思った。

 しかし、その不思議さを考える時間も、すぐに仕事で埋められた。

「明日は朝から件数が多い」

「夜も出られるよな?」

「今月は、追加でこれだけ必要だ」

 直人は、また車へ乗った。

 おにぎりを二個買った。

 ガソリンを最低限だけ入れた。

 荷物を積み、配達先へ向かった。

 自分の欲求を押し殺すことは、いつの間にか習慣になった。

 眠りたい。

 休みたい。

 亮に会いたい。

 口座を確認したい。

 食べたいものを食べたい。

 自分のお金を自分で使いたい。

 そう思うたび、直人は自分に言い聞かせた。

 今は我慢だ。

 今は投資のためだ。

 今は家賃のためだ。

 今はみんなのためだ。

 いつか、うまくいく。

 その「いつか」は、四年間、一度も来なかった。

 亮からの連絡は、少しずつ減っていた。

 最初の頃は、直人が何度も電話をかけた。

「いつ戻ってくる?」

「もう少し考えたい」

「封筒のこと、何かわかった?」

「まだ」

「親父さんと話したのか?」

「話した」

 亮の返事は短かった。

 直人は、もっと聞きたかった。

 あの朝、何を思っていたのか。

 自分たちのことをどう考えているのか。

 封筒を持っているのは誰だと思っているのか。

 投資のことを、まだ信じているのか。

 しかし、蓮は亮の話になると、いつも会話を終わらせようとした。

「本人が戻りたいなら戻ってくる」

「親に何か言われたとしても、最後に決めるのは亮だ」

「いつまでも亮のことを引きずるな」

 湊も言った。

「直人が亮のことを考えすぎると、仕事に集中できなくなる」

「それで事故でも起こしたら、全部終わりだ」

「今は、前を見るしかない」

 その言葉は、間違っていないように聞こえた。

 前を見る。

 仕事をする。

 自分で稼ぐ。

 過去を振り返らない。

 直人は、それを自分の強さだと思った。

 だが、実際には、考えることを奪われていただけだった。

 亮のことを忘れる。

 投資のことを考えない。

 口座のことを確認しない。

 働いている限り、直人はそのすべてから逃げることができた。

 そして、蓮と湊にとっても、そのほうが都合がよかった。

 直人が疑問を抱かない。

 直人が明細を求めない。

 直人が働いて資金を入れ続ける。

 その状態が、四年間続いた。

 四年目の冬、直人は配達から戻った。

 外は冷たい風が吹いていた。

 指先はかじかみ、腰には鈍い痛みが残っている。

 今日も朝から荷物を運び、夕方におにぎりを二個食べ、夜の仕事へ向かった。

 売上は、蓮に渡した。

 蓮は、その場で数字を確認した。

「少ないな」

「今日は道路が混んでいた」

「もう少し効率を上げられるだろ」

「朝の時間指定が多かった」

「だったら、もっと早く出ればいい」

 直人は、黙っていた。

 蓮は、数字をメモした。

「この分は家賃と運用に回す」

「家賃、今月はいくら払った?」

 直人が聞いた。

 その問いは、自然に口から出た。

 蓮の手が止まった。

「いつもと同じだ」

「17万円?」

「そう」

「俺は、そのうちいくら払ってる?」

「直人、今は計算できない」

「どうして?」

「全部まとめて処理しているからだ」

「俺の配達売上から、毎月いくら家賃に回している?」

「だから、あとでまとめる」

「四年間、ずっとあとでと言われてきた」

 蓮の顔が険しくなった。

「急にどうしたんだよ」

「急じゃない」

 直人は答えた。

「四年間、聞かなかっただけだ」

「直人、俺たちを疑っているのか?」

 直人は黙った。

 この言葉を、何度聞いただろう。

 疑っているのか。

 信じられないのか。

 任せたのは自分だろ。

 そのたびに、直人は口を閉じた。

 疑ってはいけない。

 仲間を信じなければならない。

 そう思っていた。

 しかし、今は違った。

「疑っているかどうかを確認するためにも、明細が必要なんだ」

 直人は言った。

「信じろと言うなら、見せてくれ」

「今の運用は、明細を一つずつ見せられるようなものじゃない」

「じゃあ、全体の収支を見せてくれ」

「整理が必要だ」

「いつ整理が終わる?」

「今、湊がやっている」

 直人は、湊へ視線を向けた。

 湊は、パソコンの前に座っている。

「湊、四年間の収支は出せるか?」

 湊は、画面を見たまま答えた。

「今すぐは無理」

「いつなら出せる?」

「必要なら」

「今、必要だ」

「直人、落ち着けよ」

「俺は落ち着いている」

「落ち着いている人間は、いきなり四年間の収支を出せなんて言わない」

「四年間見ていないから、今見たいんだ」

 湊は、椅子を回して直人を見た。

「お前が見ても、数字の意味はわからない」

「わからないから説明を聞く」

「説明してきただろ」

「口頭でな」

「それで十分だ」

「俺には十分じゃない」

 部屋の中に、沈黙が落ちた。

 直人は、部屋を見渡した。

 最初にここへ来たとき、四人で成功を誓った。

 亮は、玄関の近くで笑っていた。

 蓮は、投資の説明をしていた。

 湊は、大きな画面を見せていた。

 直人は、何もわからないまま、二人の話を信じた。

 あれから四年。

 亮はいない。

 直人は、週7日働いている。

 自由に使える金もない。

 残高も見られない。

 投資の結果もわからない。

 家賃をいくら負担しているのかも、正確には知らない。

 部屋の中にあるものだけが増え、自分の手元に残るものは増えていなかった。

「俺は、四年間、何のために働いたんだ?」

 直人は、誰にともなく呟いた。

 蓮は、少し間を置いて答えた。

「成功するためだろ」

「成功って、何?」

「投資で利益を出して、生活を変えることだ」

「その利益は、どこにある?」

「今は運用中だ」

「四年間?」

「相場は長期で見るものだ」

「俺の生活は、長期で見ても何も変わっていない」

 蓮の表情が硬くなった。

「直人、今さら不満を言うなよ」

「不満じゃない。疑問だ」

「疑問を持つなら、最初に持てばよかっただろ」

「そうだな」

 直人は、苦笑した。

「俺は、最初に持たなかった。だから、四年間も空白になった」

 その夜、直人は仕事を休んだ。

 週7日の配達を始めてから、初めて、自分から休みを選んだ。

 身体が限界だったからだけではない。

 確認するためだった。

 四年間の記録を、自分の手で集めるためだった。

 直人は、古いスマートフォンを引き出しから取り出した。

 過去のメールを探す。

 送金の通知。

 給与の明細。

 蓮や湊とのメッセージ。

 亮との会話。

 保存された画像。

 メモ。

 断片的な情報を、ひとつずつ拾っていく。

 最初の年。

 投資を始めた頃。

 直人が出した金額。

 亮が出した金額。

 家賃の分担。

 配達を始める前の収入。

 二年目。

 亮が実家へ戻った頃。

 直人が配達の件数を増やした頃。

 口座のログイン情報が変更された頃。

 三年目。

 入金額が増えた。

 しかし、手元の金は増えなかった。

 四年目。

 配達の売上は、さらに増えた。

 それでも、貯金はほとんどなかった。

 直人は、紙へ数字を書き出した。

 収入。

 支出。

 確認できた送金。

 用途のわからない送金。

 家賃。

 投資。

 借入。

 残高。

 数字は、きれいにはつながらなかった。

 どこかに空白がある。

 説明されていない金額がある。

 その差は、小さなものではなかった。

 直人は、手を止めた。

 胸の奥が冷たくなる。

 投資で損失が出た可能性はある。

 運用がうまくいかなかった可能性もある。

 誰かが間違えた可能性もある。

 記録の整理が不十分なだけかもしれない。

 しかし、それならなぜ、明細を見せてもらえないのか。

 なぜ、自分の口座へ入れないのか。

 なぜ、四年間も「あとでまとめる」と言われ続けているのか。

 直人は、初めて、疑問を疑問のまま受け入れた。

 答えが出なくてもいい。

 今すぐ誰かを責めなくてもいい。

 ただ、わからないことを「大丈夫」という言葉で済ませてはいけない。

 そのことに、ようやく気づいた。

 昼過ぎ、亮の母親から電話がかかってきた。

「直人くん、昨日はどうも」

「こちらこそ、突然すみませんでした」

「亮から聞きました。記録を調べているそうですね」

「はい」

「亮も、少しずつ確認しています」

「封筒は、まだ見つかっていないんですよね」

「ええ」

「中には、何が入っていたんですか?」

「亮が言うには、自分が振り込んだ金額と、説明された内容のメモだそうです」

「投資の記録ですか?」

「それだけではないようです」

 直人は、黙って聞いていた。

「家賃や生活費の負担についても書いていたと言っていました」

 直人の手が止まった。

「家賃のことも?」

「亮は、自分が毎月いくら負担しているのか、わからなくなっていたそうです」

 直人は、目を閉じた。

 自分も同じだった。

「亮は、誰かを責めたいわけではありません」

 母親は続けた。

「ただ、自分が何をしているのか、確認したかっただけです」

「はい」

「でも、それを尋ねると、仲間を疑っているように思われるのが怖かったそうです」

 直人は、言葉を失った。

 亮がいなくなった朝、亮は封筒を探していた。

 あの封筒には、自分の生活を確かめるための記録が入っていた。

 亮は、何かを盗まれたと断定したわけではない。

 誰かを犯罪者だと決めつけたわけでもない。

 ただ、自分の金の流れを知りたかった。

 それだけだった。

 しかし、その「確認したい」という気持ちが、部屋の中では疑いとして扱われた。

 直人は、自分が四年間、亮と同じ場所に立っていたことに気づいた。

 違ったのは、直人が仕事をすることで、その疑問を押し込めていたことだけだった。

 亮は実家へ戻った。

 直人は配達を続けた。

 だが、二人が抱えていた疑問は、同じだったのかもしれない。

「亮は、戻りたいと言っていましたか?」

 直人が尋ねた。

 母親は、少し考えてから答えた。

「最初は、戻ると言っていました」

「最初は?」

「でも、時間が経つにつれて、戻ること自体を考えなくなりました」

「どうしてですか?」

「戻れば、また同じことを繰り返すと思ったからだそうです」

 直人は、胸を締めつけられた。

 同じことを繰り返す。

 投資のために働く。

 家賃を払い続ける。

 お金の流れを確認できない。

 疑問を持てば、仲間を疑っていると言われる。

 だから、何も考えずに続ける。

 直人は、電話を切ったあと、窓の外を見た。

 四年間、同じ景色を見てきた。

 高層階から見える街。

 夜になれば、無数の光がともる。

 直人は、その景色を成功の証だと思っていた。

 自分たちは、この場所に住んでいる。

 いつか、もっと大きな場所へ行く。

 投資が成功すれば、すべてが変わる。

 そう信じていた。

 しかし、今は、その景色が檻のように見えた。

 高い場所にいる。

 外の世界が遠い。

 簡単には出られない。

 家賃を払い続けなければならない。

 働き続けなければならない。

 残高も、資金の流れも、二人の手の中にある。

 直人は、窓ガラスに映った自分の顔を見た。

 疲れている。

 痩せている。

 目の奥に、長い時間の影がある。

 自分は、四年間で何を失ったのだろう。

 身体。

 時間。

 友人。

 自信。

 そして、自分で判断する力。

 それでも、取り戻せるものがあるかもしれない。

 まずは記録。

 次に口座。

 そして、共同生活の見直し。

 直人は、ノートへ書いた。

〈自分の口座を、自分で確認する〉

〈四年間の収支を整理する〉

〈家賃の負担額を確認する〉

〈投資に回した金額を確認する〉

〈説明のない出金を確認する〉

〈亮の記録と照合する〉

 書き終えたとき、手が震えていた。

 怖かった。

 数字が示すものを知るのが怖い。

 自分の考えが間違っているかもしれない。

 投資が本当に続いているかもしれない。

 蓮と湊が、何も隠していないかもしれない。

 直人が、ただ疲れと不安から疑心暗鬼になっているだけかもしれない。

 それでも、確かめなければならなかった。

 何も確認しないまま、また四年を過ごすほうが怖い。

 夕方、蓮が帰ってきた。

「今日は配達に出なかったのか?」

「休んだ」

「今月の売上が足りなくなるぞ」

「わかっている」

「わかっているなら、休むなよ」

「必要な休みだ」

「何のために?」

「記録を確認するため」

 蓮は、テーブルの上のノートを見た。

「まだそんなことをやっているのか」

「まだ、というより、これから始める」

「直人、もうやめろ」

「なぜ?」

「お前が見ても、混乱するだけだ」

「混乱しているのは、俺が何も見ていないからだ」

「投資は続いている」

「なら、明細を見せられる」

「今は整理中だ」

「またそれか」

「運用には時間がかかるんだよ」

「四年かかっても整理できない運用なら、俺には続けられない」

 蓮は、直人を睨んだ。

「今さら、投資をやめるのか?」

「やめるとは言っていない。確認してから決めると言っている」

「それじゃ遅い」

「何が遅い?」

「資金を止めたら、これまでの利益が消える」

「利益があるなら、見せてくれ」

 蓮は黙った。

 直人は、もう、その沈黙を見逃さなかった。

「俺の口座の情報を戻してくれ」

「できない」

「なぜ?」

「今、まとめて管理しているから」

「俺の同意なしに?」

「最初に任せると言っただろ」

「四年前に一度、任せると言った。それで、四年間ずっと自分で確認できないのか?」

「お前は俺たちを信用できないんだな」

 直人は、静かに答えた。

「信用と確認は別だ」

 蓮は、何も言わなかった。

 湊が部屋に入ってきた。

「またその話か」

「明細を見せてくれと言っている」

「今は無理だ」

「いつなら可能なんだ?」

「少し待て」

「どれくらい?」

「だから、整理が終わるまでだ」

 直人は、二人の顔を見た。

 四年前と同じだった。

 説明は曖昧。

 答えは先延ばし。

 自分が疑問を持つと、疲れている、考えすぎだ、仲間を信用していないと言われる。

 そして、仕事を増やすように促される。

 身体を疲れさせ、考える時間を奪う。

 直人は、初めてそれを一つの流れとして見た。

 亮がいた頃も、同じだった。

 亮が封筒を探し始めたあとも、同じだった。

 亮が実家へ戻ったあとも、同じだった。

 仕事を増やせば、疑問を考えずに済む。

 投資がうまくいっていると信じれば、明細を求めずに済む。

 共同生活を守ると言えば、家賃の負担を疑わずに済む。

 直人は、そうやって四年間、働き続けていた。

「俺は、これ以上、口頭の説明だけでは納得しない」

 直人は言った。

「書類を出してくれ。口座の履歴も、投資の明細も、家賃の支払い記録も」

「要求ばかりだな」

「自分の金の話だからな」

「直人、俺たちを敵に回すつもりか?」

 蓮の声は、低かった。

 直人の背中に、冷たいものが走った。

 敵に回す。

 それは、どういう意味なのか。

 共同生活を続けている限り、直人は二人と生活を共有している。

 家賃も、食費も、投資資金も、二人の管理下にある。

 もし関係が壊れれば、生活そのものが成り立たなくなる。

 直人は、その恐怖を感じた。

 しかし、それでも、口を閉じることはできなかった。

「敵に回したいわけじゃない」

 直人は言った。

「自分の味方になりたいだけだ」

 その言葉を口にした瞬間、直人は胸の奥で何かが崩れるのを感じた。

 これまで、自分は誰かの味方になろうとしてきた。

 亮の味方。

 蓮の味方。

 湊の味方。

 4人の夢の味方。

 しかし、自分自身の味方になったことはなかった。

 自分が苦しくても、誰かのためなら耐えられると思っていた。

 自分が休めなくても、誰かのためなら働けると思っていた。

 自分の金がなくても、投資が成功すればいいと思っていた。

 だが、四年経った今、手元にあるのは疲労と、曖昧な記録と、消えた時間だけだった。

 直人は、その夜から、共同生活の終了も考え始めた。

 すぐに引っ越すことはできない。

 家賃の精算も必要だ。

 荷物をまとめる場所もない。

 借金の返済も残っている。

 それでも、少なくとも、ここで一生暮らすつもりはなくなった。

 蓮と湊に、生活のすべてを握られたままではいられない。

 投資を続けるかどうかも、自分で判断する。

 配達を続けるかどうかも、自分で決める。

 亮と会うかどうかも、自分で決める。

 直人は、少しずつ生活を自分の手へ戻す準備を始めた。

 配達の売上は、直接自分が確認できる口座へ入れるようにする。

 経費は、自分で記録する。

 食費とガソリン代を確保する。

 家賃の負担分は、明細を確認してから支払う。

 投資資金は、説明を受け、書類を確認してから判断する。

 それまで、ただ渡していた金を、止める必要もあった。

 直人がそう考えていることに、蓮と湊は気づいていた。

「今月分は、いつ入れる?」

 蓮が尋ねた。

「明細を見てから決める」

「もう資金は止めるのか?」

「止めるとは言っていない」

「同じことだ」

「違う」

「直人が止めたら、運用全体に影響が出る」

「俺一人の資金で全体が止まるなら、その運用はどうなっているんだ?」

 蓮は、答えなかった。

 直人は、自分の中に少しずつ力が戻ってくるのを感じた。

 四年間、失っていた力だった。

 怒りでも、憎しみでもない。

 自分のことを、自分で決めるための力。

 誰かに許可を求めず、誰かの機嫌をうかがわず、必要な確認をする力。

 その力が、ゆっくりと戻ってきていた。

 亮から、数日後に電話があった。

「直人、今、話せる?」

「ああ」

「俺のほうでも、記録が少し見つかった」

「何かわかった?」

「俺が送った金額と、説明されていた残高が合わない」

「俺も、今整理している」

「封筒が見つからなくても、メールや振込履歴である程度は追える」

「うん」

「直人、俺たちは、もっと早く確認すべきだったな」

 直人は、窓の外を見た。

「そうだな」

「でも、怖かった」

「俺もだ」

「誰かを疑うことになると思ってた」

「今も、まだ怖い」

 亮は、少し黙った。

「それでも、確認する?」

「する」

「俺もする」

 電話を切ったあと、直人は、四年ぶりに亮と同じ方向を見ているような気がした。

 すぐに昔のように戻れるわけではない。

 戻る必要もないのかもしれない。

 4人で始めた生活は、もう終わっている。

 以前の信頼の形も、壊れてしまった。

 それでも、曖昧なまま終わらせないことはできる。

 自分たちが何をしていたのか。

 どれだけの金を出したのか。

 誰が何を説明したのか。

 どこで記録が途切れたのか。

 それを確かめることはできる。

 四年間の空白は、直人の人生から消えた時間だった。

 その空白を、働くことで埋めようとしてきた。

 週7日の配達。

 自分で稼ぐため、限界まで働く。

 そうしていれば、過去を考えずに済んだ。

 しかし、仕事は空白を埋めなかった。

 ただ、空白の上に疲労を積み重ねただけだった。

 直人は、ようやくそのことに気づいた。

 働くことは必要だ。

 自分で稼ぐことも必要だ。

 けれど、働くことで疑問から逃げてはいけない。

 自分の生活を守るために働く。

 自分の金を確認するために働く。

 自分の時間を取り戻すために働く。

 目的を、少しずつ変えていく。

 直人は、配達の仕事を続けながら、帳簿をつけた。

 毎日の売上。

 ガソリン代。

 駐車場代。

 食費。

 家賃。

 返済額。

 投資資金。

 今までなら、仕事を終えたあとに眠っていた。

 しかし、今は眠る前に、必ず記録を残した。

 身体はきつかった。

 目は重い。

 数字を見ていると、何度も意識が遠くなる。

 それでも、一日の記録を残す。

 昨日の自分がどれだけ働いたのか、今日の自分が何を支払ったのか、明日の自分に何が残るのか。

 それを確認する。

 自分の人生を、少しずつ見える形に戻していく。

 ある夜、直人は帳簿を閉じた。

 四年間分の記録は、まだ完成していない。

 不明な入出金もある。

 確認できない残高もある。

 投資の全容も見えない。

 亮の封筒も見つかっていない。

 それでも、以前とは違った。

 直人は、もう「うまくいっている」と言われるだけで納得しなかった。

 「投資は続いている」と言われても、明細を求めるようになった。

 「家賃は払っている」と言われても、支払い記録を確認するようになった。

 「今は仕事に集中しろ」と言われても、必要なことを考える時間を確保するようになった。

 その変化は、蓮と湊にとって、歓迎できるものではなかった。

 直人が質問をするたび、部屋の空気は重くなった。

 以前なら、直人が聞き役に回っていた。

 蓮が説明し、湊が補足し、直人が頷く。

 それで会話は終わった。

 今は、直人が数字を求める。

 根拠を求める。

 記録を求める。

 そのたびに、二人は苛立ちを見せた。

「直人は変わった」

 湊が言った。

「変わらないほうがおかしかった」

 直人は答えた。

「四年間、何も確認しなかった」

「それで、今さら全部ひっくり返すのか?」

「ひっくり返すんじゃない。調べるだけだ」

「結果が悪かったらどうする?」

 直人は、少し考えてから言った。

「悪くても、知る」

 その答えに、湊は黙った。

 直人は、四年前なら、そんなことを言えなかった。

 結果が悪ければ怖い。

 関係が壊れるのが怖い。

 投資が失敗していると認めるのが怖い。

 自分の選択が間違っていたと認めるのが怖い。

 だから、何も見なかった。

 だが、見ないことで、状況はよくならなかった。

 むしろ、自分の時間と労働だけが、誰かの管理下へ流れていった。

 四年間の空白。

 直人は、その空白の中に、自分自身を置き去りにしていた。

 亮がいなくなった朝から、直人は自分の欲求を押し殺した。

 亮を忘れるために働いた。

 投資を信じるために働いた。

 口座を見ないために働いた。

 共同生活を崩さないために働いた。

 そして、いつか成功すると思い続けるために働いた。

 その結果、直人は、自分が何を望んでいるのかさえわからなくなっていた。

 今、直人が望んでいるのは、派手な成功ではなかった。

 大きな家でもない。

 高級車でもない。

 誰かに認められることでもない。

 ただ、自分がいくら持っているのか知りたい。

 自分がいくら稼いだのか知りたい。

 自分が何にいくら使ったのか知りたい。

 自分の時間を、自分で決めたい。

 それだけだった。

 直人は、最後に亮へメッセージを送った。

〈今度、会って話そう〉

 しばらくして、返信が来た。

〈うん。今度は、ちゃんと話そう〉

 直人は、その文章を何度も読み返した。

 今度は、ちゃんと話そう。

 その言葉には、四年間の沈黙が含まれていた。

 聞けなかったこと。

 言えなかったこと。

 疑ったこと。

 信じたかったこと。

 すべてを、一度は言葉にしなければならない。

 直人は、窓の外を見た。

 夜景は、四年前と同じように輝いていた。

 しかし、直人の目には、もう成功の証には見えなかった。

 ただの街の明かりだった。

 その明かりの下で、誰もが自分の生活をしている。

 働き、食べ、眠り、支払い、選び、失敗し、またやり直している。

 直人も、その中へ戻らなければならない。

 誰かの夢の中ではなく、自分の生活へ。

 翌朝、直人は配達へ向かった。

 週7日の配達は、まだ続いている。

 身体の疲れも、借金も、家賃も、何も消えていない。

 それでも、直人は車へ乗り込む前に、自分の帳簿を確認した。

 今日、いくら稼ぐ必要があるのか。

 いくらを経費に回すのか。

 いくらを生活費として残すのか。

 何のために働くのか。

 それを自分で決めた。

 車を走らせる。

 朝の道路は混んでいる。

 配達先は、まだ遠い。

 しかし、直人は以前のように、ただ急いではいなかった。

 急ぐべきときは急ぐ。

 止まるべきときは止まる。

 確認すべきことは確認する。

 わからないことは、わからないままにしない。

 四年間の空白を埋めるために、直人は走り始めた。

 今度は、何も考えないためではない。

 自分の人生を、自分の手へ取り戻すために。

 投資が本当に続いているのか。

 共同生活は、本当に必要なのか。

 亮の件で何が起きたのか。

 自分がいくら稼ぎ、いくら払ってきたのか。

 その答えを、直人はこれから確かめていく。

 答えがどんなものでも、もう逃げない。

 四年間の空白は、直人から多くのものを奪った。

 けれど、その空白の中で初めて、直人は自分の疑問を見つけた。

 疑問を持つことは、裏切りではない。

 確認することは、仲間を傷つけることではない。

 自分を守ることは、誰かを見捨てることではない。

 その当たり前のことを、直人は四年かけて学んだ。

 車のナビが、次の配達先を告げた。

 直人は、ハンドルを握り直した。

 四年ぶりに、自分で進む方向を選びながら、アクセルを踏んだ。

いいなと思ったら応援しよう!

ベラミー@副業研究所 よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!