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『孤軍奮闘 ― 奪われた八年を取り戻すまで ―』4

第四部 家賃17万円の夢

― 借金でタワーマンションへ移る ―

 1LDKでの生活が始まってから、半年が過ぎようとしていた。

 最初の頃、部屋の狭さは笑い話だった。

 4人分の布団を敷けば、床のほとんどが埋まる。

 誰かが寝ていると、トイレへ行くにも、その身体をまたがなければならない。

 キッチンに立つ人間がいれば、リビングにいる人間は身動きが取れなくなる。

 冷蔵庫には、名前の書かれた飲み物が並び、洗面所には4人分の歯ブラシが置かれていた。

 玄関には靴が重なり、誰のものかわからない傘が何本も立てかけられている。

 それでも、4人は笑っていた。

「ここを出るころには、もっといいところに住んでいる」

 蓮は、そう言っていた。

 その言葉を聞くたび、直人は未来を想像した。

 広い部屋。

 大きな窓。

 夜景の見えるリビング。

 自分たちだけの仕事場。

 誰かに雇われるのではなく、自分たちでお金を生み出す生活。

 今の狭い部屋は、そのための通過点だと思っていた。

 しかし、現実は思うように進んでいなかった。

 FXの運用状況は、蓮や湊の説明ほど順調ではなかった。

 利益が出た月もあった。

 けれど、まとまった金額が残るわけではない。

 利益が出ると、そのお金はさらに運用へ回された。

 損失が出ると、取り返すために追加資金が必要だと言われた。

「今はまだ、元金が少ないから」

 蓮は言った。

「資金が大きくなれば、少しの値動きでも利益が大きくなる」

「だから、もう少しだけ入れよう」

 その“もう少し”が、何度も繰り返された。

 直人は、給料が入るたびに生活費を取り分けた。

 残ったお金を口座へ移す。

 亮も同じだった。

 働いて、生活費を払い、残ったお金を運用に回す。

 毎月のように、それを繰り返していた。

 直人の財布に残るのは、給料日から数日も経てば、必要最低限の現金だけだった。

 それでも不思議と、不安よりも期待のほうが勝っていた。

 大きな利益が出れば、すべてが変わる。

 これまで入れたお金も、借金も、生活の苦しさも、全部取り戻せる。

 今は、成功する前の苦しい時期だ。

 そう考えていた。

 ある夜、直人が仕事から帰ると、蓮がスマートフォンを片手に、珍しく興奮した様子で立ち上がった。

「直人、ちょっと見てくれよ」

「何?」

「いい部屋が見つかった」

 蓮が見せてきた画面には、白くて明るい部屋の写真が表示されていた。

 大きな窓。

 木目調の床。

 壁一面に広がる夜景。

 キッチンには、今の部屋にはない収納があり、浴室には大きな鏡が付いている。

 写真の隅には、都心の高層ビル群が見えていた。

「タワマン?」

 直人が尋ねた。

「そう。駅からも近い。今より広いし、設備もいい」

 湊が横から口を挟んだ。

「共有スペースもある。ラウンジ、ジム、宅配ボックス。仕事をする環境としても悪くない」

「家賃は?」

 亮が聞いた。

 蓮は、少しだけ間を置いてから答えた。

「17万円」

 部屋の空気が止まった。

 今の家賃でも、4人で分担しなければ厳しい。

 それが、月17万円になる。

 数字だけを見れば、今より大きく増えるわけではない。

 しかし、入居費用、保証料、引っ越し費用、家具や家電の買い足しを考えれば、必要になる金額は大きい。

「無理じゃないか?」

 亮が言った。

「今の状況で、そんなところに住んだら……」

「今の状況だからこそだよ」

 蓮は即座に返した。

「環境を変えれば、意識も変わる。狭い部屋に4人で住んでいるから、考え方まで貧しくなるんだ」

 直人は、画面をもう一度見た。

 高層階から見下ろす街。

 窓に映る自分の姿。

 誰にも雇われず、仲間と成功している自分。

 その未来が、写真の中にあるように感じた。

「投資の利益で払えるのか?」

 直人が聞いた。

 蓮は、少しだけ視線を外した。

「今はまだ、安定してない。でも、資金が増えればいける」

「資金が増えればって、また追加するのか?」

 亮の声には、警戒が混じっていた。

「何度も言ってるけど、今は準備段階なんだよ。ここで小さくまとまったら、いつまで経っても変われない」

 湊が静かに言った。

「大きく稼ぐには、大きく動く必要がある」

 その言葉は、直人の胸に残った。

 大きく稼ぐには、大きく動く。

 たしかに、何も捨てず、何も賭けず、何も変えずに成功しようとするのは都合がよすぎるのかもしれない。

 借金をしてでも、先に環境を作る。

 先に成功者の生活をする。

 そうすれば、自分たちの意識も現実も、あとから追いついてくる。

 直人は、そう信じたかった。

「いつから入れる?」

 直人が聞いた。

 亮がこちらを見た。

「直人、本気か?」

「本気だよ。ここで止まってたら、何も変わらない」

「でも、今でもお金が残ってないだろ」

「だからこそ、今までのやり方を変えるんだ」

 それは、直人自身に言い聞かせる言葉でもあった。

 自分の中にある不安を押し込めるため、もっともらしい理由を探していた。

 数日後、4人は物件を見に行った。

 エントランスに入った瞬間、直人は言葉を失った。

 床は光を反射するほど磨かれていた。

 壁には間接照明が入り、受付のようなカウンターにはコンシェルジュが立っている。

 居住者らしき人たちは、静かな服装で歩いていた。

 手にしている荷物も、身につけているものも、直人たちとは違って見えた。

 直人は、自分の黒いジャケットの袖口を確認した。

 仕事帰りの服に、少しだけ汚れが付いている。

 場違いなのではないか。

 そんな気持ちがあった。

 しかし、蓮は堂々としていた。

 まるで、ずっとここに住むことが決まっていたかのように、担当者へ質問をしている。

「この部屋からの眺望は?」

「夜間の騒音は?」

「法人契約は可能ですか?」

「宅配ボックスは何台ありますか?」

 直人は、担当者の説明を聞きながら、窓際へ歩いた。

 部屋は、写真で見たよりも広く感じた。

 リビングの窓から、街が一望できる。

 夕暮れの空が、建物の隙間に沈んでいく。

 遠くの道路を走る車のライトが、細い線のように流れている。

 直人は、窓に手を伸ばしかけて、やめた。

 この景色を、毎日見ることができる。

 仕事から帰ってきて、この部屋で眠る。

 仲間とここで食事をする。

 やがて、投資で成功して、さらに大きな仕事を始める。

 今までの狭い部屋とは違う。

 自分たちは、変わるのだ。

「どう?」

 蓮が尋ねた。

「いいと思う」

 直人は答えた。

「ここに住めば、何かが変わる気がする」

「だろ?」

 蓮は満足そうに笑った。

 亮だけが、窓から離れた場所に立っていた。

「俺は、ちょっと怖いけどな」

「怖いくらいでちょうどいい」

 湊が言った。

「何も怖くない選択なんて、現状維持と同じだから」

 その言葉に、直人はまた頷いた。

 契約の話が進むにつれて、現実的な問題が現れた。

 初期費用が足りない。

 4人で出せる金額を計算しても、必要な額には届かなかった。

 家賃の前払い。

 敷金や礼金。

 仲介手数料。

 保証会社の費用。

 引っ越し代。

 家具や家電。

 全部合わせると、かなりの金額になる。

 蓮は、何度も計算機を叩いた。

「あと100万円くらいあれば足りる」

「100万?」

 亮の顔が引きつった。

「そんな金、誰が持ってるんだよ」

「直人なら借りられるんじゃないか?」

 蓮が言った。

 直人は、言葉を失った。

 自分の名前を呼ばれた瞬間、部屋の窓から見た夜景が頭に浮かんだ。

「俺が借りるのか?」

「4人で使うんだよ。直人だけのためじゃない」

「でも、名義は俺になるだろ」

「もちろん返す。利益が出たら、毎月ちゃんと返済する」

 蓮は、まっすぐ直人を見ていた。

 その目に、悪意があるようには見えなかった。

 むしろ、直人には蓮が本気で未来を信じているように見えた。

「今の部屋より、こっちのほうが稼ぐための環境がいい」

 湊が続けた。

「人を呼ぶこともできる。仕事の話もできる。生活の質が上がれば、集中力も変わる」

 生活の質。

 集中力。

 環境。

 どれも、もっともらしい言葉だった。

 直人は、借金という現実よりも、タワーマンションに住む意味を考えていた。

 普通なら、貯金を作ってから住む。

 収入が安定してから住む。

 将来の支払いを計算してから契約する。

 しかし、直人たちは順番を逆にしようとしていた。

 先に環境を手に入れ、あとから収入を追いつかせる。

 それが成功者の考え方だと、蓮は言った。

「俺たちは、ここで変わる」

 蓮が言った。

「直人が一歩踏み出せば、全員が前へ進める」

 その言葉を聞いて、直人は断れなくなった。

 自分が断れば、4人の計画が止まる。

 自分が怖がれば、仲間の足を引っ張る。

 直人の中に、そんな責任感が生まれた。

 それは責任感というより、罪悪感に近かった。

「わかった」

 直人は言った。

「俺が借りる」

 亮は何か言おうとしたが、黙った。

 蓮は、直人の肩を叩いた。

「絶対に後悔させない」

 その言葉を、直人は信じた。

 借入の手続きを進める間、直人は何度も自分のスマートフォンに表示される金額を見た。

 借りる金額。

 毎月の返済額。

 返済期間。

 利息。

 数字を見ていると、胸が締め付けられた。

 毎月、決まった額を返さなければならない。

 どれだけ仕事が苦しくても、体調を崩しても、返済日は来る。

 それでも、直人は申込画面を閉じなかった。

 ここで引き返せば、何も始まらない。

 そう思った。

 審査が通ったとき、直人のスマートフォンに通知が届いた。

 借入可能額が表示されている。

 直人は、しばらく画面を見つめていた。

 自分の人生を変える資金が手に入ったような気がした。

 同時に、未来の自分に借りを作ったような感覚もあった。

 だが、その不安は、仲間の声によって打ち消された。

「これで入れるな」

「本当にタワマン生活が始まる」

「成功者のスタートだよ」

 4人は、引っ越しの日を決めた。

 1LDKの部屋には、家具が増えていた。

 安い棚。

 中古のテーブル。

 誰かが拾ってきた椅子。

 壁際に置かれた段ボール。

 それらをひとつずつ片付けていく。

 引っ越しの準備をしていると、直人は妙な気持ちになった。

 この部屋で過ごした時間は、まだ半年ほどだった。

 しかし、4人で暮らしたという事実が、部屋のあちこちに残っていた。

 床の傷。

 壁に貼ったメモ。

 キッチンに染みついた油の匂い。

 狭い部屋で、何度も語った夢。

「ここも、いつか思い出になるな」

 亮が言った。

「成功した後に、最初の部屋として笑えるようにしよう」

 直人は答えた。

 引っ越し当日、4人は荷物を車に積んだ。

 大した家具はない。

 それでも、荷物を運ぶだけで何度も往復した。

 直人は汗をかきながら、段ボールを抱えた。

 背中に借金の重さがあるような気がした。

 けれど、タワーマンションの前に着くと、その感覚は薄れた。

 高く伸びた建物が、青空を切り取っている。

 ガラス張りのエントランス。

 広い車寄せ。

 整然とした植木。

 行き交う人々。

 直人は車から降り、建物を見上げた。

「ここに住むのか」

 口から、自然に言葉がこぼれた。

「今日からな」

 蓮が笑った。

 部屋へ入ると、窓からの景色が待っていた。

 前の部屋とは比べものにならない。

 街が小さく見える。

 道路を走る車は、光る点にしか見えない。

 遠くの建物の屋上まで見渡せた。

 4人は、しばらく誰も話さなかった。

 荷物を運び込むことも忘れ、窓の外を見ていた。

 直人は、胸の奥で何かが満たされていくのを感じた。

 これまで生きてきた場所から、少しだけ高いところへ来た。

 自分たちは、もう普通の生活から抜け出した。

 そう思った。

 夕方、4人は床に座り、コンビニで買った缶の酒を開けた。

 テーブルはまだ届いていなかった。

 紙コップに酒を注ぎ、窓の向こうの夜景を眺める。

「乾杯しよう」

 亮が言った。

「何に?」

 蓮が笑う。

「新しい生活に」

「成功に」

 湊が付け加えた。

 4人は缶を軽く合わせた。

「乾杯」

 声が重なった。

 その瞬間、直人の中には、不安よりも高揚感があった。

 月17万円の家賃。

 100万円の借金。

 安定しない投資利益。

 まだ何も決まっていない事業。

 現実だけを見れば、危うい生活だった。

 しかし、窓の外の光は、そんな危うさを隠してくれた。

 高い場所にいると、地上の細かな問題が見えなくなる。

 家賃の支払いも、借金の返済も、投資の損失も、夜景の向こうに押しやることができた。

 直人はスマートフォンを取り出し、写真を撮った。

 窓に広がる街。

 部屋の中にいる4人の影。

 新しい生活の始まり。

 その写真を、直人は保存した。

 誰かに見せるためではなく、自分自身に言い聞かせるためだった。

 自分たちは、ここまで来た。

 ここから、もっと上へ行く。

 夜遅く、亮が先に眠った。

 湊はノートパソコンで相場を確認している。

 蓮は、部屋の間取り図を眺めながら、家具の配置を考えていた。

「ここに大きいソファを置こう」

 蓮が言った。

「それから、仕事用の机も必要だな」

「そんな金、残ってるのか?」

 直人が聞く。

「必要なものには使うんだよ。環境への投資」

 蓮は、またその言葉を使った。

 環境への投資。

 直人は、その言葉を聞くたびに納得してしまう自分に気づいていた。

 家具を買う。

 服を買う。

 外食をする。

 便利なものを揃える。

 それらはすべて、成功のための環境づくりだと説明された。

 我慢をするのは、貧しい人間の考え方。

 先に理想の生活を作るのが、成功する人間の考え方。

 直人は、そう信じるようになった。

 数日後、部屋には新しい家具が届いた。

 大きなソファ。

 ガラスのテーブル。

 壁際に置かれたテレビ。

 部屋の雰囲気は、少しずつ写真に近づいていった。

 直人は、仕事へ向かう前に、鏡の前で服装を整えた。

 以前よりも高い服を買った。

 靴も新しくした。

 タワーマンションのエントランスを通るとき、住人の視線が気になった。

 自分も、ここに住む人間の一人だ。

 そう思いたかった。

 しかし、現実の直人は、夜の店で働くボーイだった。

 昼間の街を歩く住人たちとは、生活の時間帯も、働き方も違う。

 朝方に帰ってくると、エントランスの窓から差し込む光がまぶしかった。

 コンシェルジュに挨拶をされる。

 直人も会釈を返す。

 そのときだけは、自分が成功者の側に立っているような気がした。

 だが、部屋に戻れば、家賃の支払いが待っていた。

 クレジットカードの明細。

 借入の返済予定。

 食費。

 光熱費。

 投資資金。

 それらを合計すると、毎月必要な金額は以前より大きくなっていた。

 直人は、紙に数字を書き出した。

 収入から必要経費を引く。

 残った金額を確認する。

 余裕は、ほとんどない。

 少しでも仕事を休めば、支払いが苦しくなる。

 投資で損失が出れば、さらに資金が必要になる。

 それでも、直人は紙を折りたたんだ。

 「来月はもっと働けばいい」

 そう思った。

 問題を解決するのではなく、働く量で押しつぶす。

 それが、この頃の直人にできる唯一の方法だった。

 蓮と湊は、タワーマンションに移ってから、さらに投資に力を入れるようになった。

 大きな窓のそばに机を置き、ノートパソコンを並べる。

 モニターを買い足し、専門的な用語を口にする。

「この水準を抜けたら、流れが変わる」

「ここで入るのは危険だ」

「もう少し資金があれば、分散できる」

 直人は、その会話を聞きながら、二人が本当に有能なのだと思っていた。

 知らない言葉を知っている。

 数字を見て判断できる。

 自分が寝ている間も、世界の市場と向き合っている。

 それに比べて、自分は、誰かの注文を取り、誰かの酔いを見守り、朝になれば部屋へ帰って眠る。

 自分のほうが、遅れている。

 だから、二人に任せるのは合理的だ。

 そんな考えが、心の奥に根を張っていった。

 ある日、直人が仕事へ出る前に、蓮から声をかけられた。

「今月、もう少し資金を回せないか?」

「今月は、返済もあるから厳しい」

「わかってる。でも、今が重要な局面なんだ」

「どのくらい必要なんだ?」

「20万あれば、かなり違う」

 直人は黙った。

 財布の中身を確認する。

 口座の残高を確認する。

 借金の返済日を確認する。

 20万円を出せば、生活費が足りなくなる。

 しかし、蓮は続けた。

「ここで資金を入れれば、今までの損失を取り戻せる可能性がある」

「可能性?」

「相場に絶対はない。でも、チャンスは今しかない」

 直人は、窓の外を見た。

 朝の街は、すでに動き始めていた。

 高層階から見ると、人々の姿は小さい。

 忙しそうに歩く人。

 駅へ向かう人。

 車に乗る人。

 その一人ひとりに、それぞれの生活がある。

 直人にも生活がある。

 返済がある。

 仕事がある。

 それでも、ここで20万円を入れれば、未来が変わるかもしれない。

 変わらないかもしれない。

 怖い。

 だが、何もしなければ何も変わらない。

 そう思った。

「わかった。何とかする」

 直人が答えると、蓮は安心したように笑った。

「直人ならそう言ってくれると思ってた」

 その言葉は、直人の胸に温かく響いた。

 必要とされている。

 信頼されている。

 自分がいなければ、4人の夢は進まない。

 そんな錯覚が、直人を支えた。

 仕事へ向かう途中、直人は銀行へ寄った。

 お金を引き出し、指定された口座へ移す。

 窓口の前で手続きをしているとき、手が少し震えた。

 20万円。

 直人にとって、何日も働いてようやく手に入る金額だった。

 そのお金が、数回の取引で増えたり減ったりする。

 そう考えると、現実感がなくなる。

 けれど、部屋へ戻れば、蓮と湊がその資金を運用する。

 自分は、自分の役割を果たす。

 そう考え、直人は仕事へ向かった。

 その後、相場は一時的に上がった。

 蓮は画面を見ながら、声を上げた。

「来た!」

 湊も椅子から立ち上がった。

 数字が増えていく。

 直人の資金も含まれている。

 ほんの短い時間で、数万円の利益が表示された。

 亮が歓声を上げる。

「すげえな!」

 直人は、画面を見ながら笑った。

 不安は、簡単に喜びへ変わった。

 やはり任せてよかった。

 やはり、ここへ来て正解だった。

 やはり、自分たちは成功できる。

 しかし、その利益は長く続かなかった。

 翌日には、また相場が動いた。

 湊は、深夜まで画面を見ていた。

 蓮は、何度も電話をしていた。

「まだ持ってるのか?」

「切るな。戻る可能性がある」

「追加できる資金は?」

 直人は、リビングの端でその会話を聞いていた。

 2人の表情に、初めて焦りが見えた。

「どうした?」

 直人が尋ねると、蓮は振り返った。

「少し逆に動いただけ」

「損失が出てるのか?」

「一時的なものだよ」

「どのくらい?」

 蓮は答えなかった。

 湊が画面を閉じる。

「今、数字を見て騒いでも意味がない」

「でも、俺たちの金だろ」

 直人の声が強くなった。

 湊は、ゆっくりと直人を見た。

「任せたのは、直人たちだろ」

 その言葉が、部屋に落ちた。

 直人は黙った。

 確かに、その通りだった。

 自分たちは、口座を渡した。

 運用を任せた。

 それを今になって責めるのは、都合がよすぎる。

 しかし、任せたからといって、何が起きているのか知らなくていいということではない。

 その言葉は、直人の喉まで出かかった。

 けれど、言えなかった。

 4人の間に、初めて見えない壁ができた気がした。

 それから、直人は口座の状況を細かく確認するようになった。

 だが、確認できる情報は限られていた。

 運用に使われている金額。

 現在の残高。

 大まかな取引結果。

 詳しい明細を見せてほしいと言うと、蓮は「今まとめている」と答えた。

 湊は「複雑だから説明してもわからない」と言った。

 直人は、そのたびに引き下がった。

 わからない自分が悪い。

 もっと勉強すべきだった。

 投資の知識を持たず、ただお金だけを出している自分に責任がある。

 そう思った。

 しかし、知識がないからこそ、任せる前に確認すべきだった。

 契約を作るべきだった。

 誰が、いくら出し、誰が管理し、利益や損失をどう分けるのか。

 お金を引き出すとき、誰の承認が必要なのか。

 損失が出た場合、誰が責任を負うのか。

 そのどれも決めていなかった。

 当時の4人には、書面よりも信頼のほうが大事に思えた。

 紙に書かなければ信じられない関係など、本当の仲間ではない。

 そんな考えがあった。

 直人は、何かを確認しようとするたびに、その考えに押し戻された。

 家賃17万円の部屋に移ってから、生活費はさらに膨らんだ。

 光熱費も増えた。

 家具の費用もかかった。

 引っ越し後に買った家電の支払いも発生した。

 見栄えのいい部屋には、見栄えのいい生活が必要だった。

 ソファに座り、床に何も置かれていない空間を見ていると、何かを買わなければならない気分になる。

 収納が空いていれば、物を入れたくなる。

 壁が寂しければ、テレビを大きくしたくなる。

 キッチンが広ければ、調理器具を揃えたくなる。

「せっかくの部屋なんだから、もっと使いこなそう」

 蓮はそう言った。

 直人も、そう思った。

 だが、使いこなすためのお金は、未来の利益から出るはずだった。

 今の収入から出してはいけない。

 そう考えながらも、必要なものは増えていった。

 タワーマンションは、住むだけで成功したような気分にさせる。

 しかし、住み続けるためには、毎月の支払いが必要だった。

 景色は毎日見られる。

 けれど、景色は家賃を払ってくれない。

 夜の仕事から帰ってくると、直人はまずスマートフォンを確認した。

 運用の残高。

 口座の入出金。

 返済の予定。

 仕事の連絡。

 いくつもの数字を確認し、眠る。

 寝不足のまま起き、また働く。

 生活は、金を生むための時間と、金が減っていく時間の繰り返しになった。

 亮は、次第に疲れを見せるようになった。

「俺、コンビニだけじゃ厳しいな」

 ある夜、亮が言った。

「何が?」

「毎月の支払い。借金の返済もあるし、今の給料じゃ余裕がない」

 直人は、返事をしなかった。

 自分も同じだった。

 夜職の給料は決して低くない。

 だが、家賃、借金、生活費、投資資金をすべて払えば、手元にはほとんど残らない。

 亮は正社員の仕事を探した。

 何度か面接へ行った。

 しかし、思うように決まらなかった。

 履歴書を書き、面接を受け、結果を待つ。

 不採用の通知が届くたび、亮の表情は暗くなった。

「なかなか決まらないな」

 直人が言うと、亮は笑おうとした。

「まあ、俺に合う仕事がまだ見つかってないだけだよ」

 それでも、現実の支払いは待ってくれない。

 亮はコンビニの勤務日数を増やした。

 朝のシフトに入り、夕方まで働く。

 帰宅してから、眠る。

 それでも月の収入は10万円ほどだった。

 直人は、亮の姿を見て、胸が痛くなった。

 自分たち二人が働いて、蓮と湊が投資をする。

 その形は、最初は公平に見えた。

 しかし、働く側には疲労が積み上がり、投資する側には結果が見えにくい。

 少しずつ、役割分担という言葉が、言い訳に変わり始めていた。

 それでも、蓮は変わらなかった。

「もう少しで大きく動く」

「ここを越えたら、利益が伸びる」

「資金が足りないだけ」

 その言葉を聞くたび、直人はまた期待した。

 資金が足りないだけなら、もっと入れればいい。

 資金が大きくなれば、問題は解決する。

 そうして、生活のために必要な金まで、運用に回そうとするようになった。

 ある月、直人の給料が入った。

 その日、返済と家賃の支払いを済ませると、手元に残ったのはわずかだった。

 直人は、銀行口座の残高を見つめた。

 数字が少ない。

 次の給料日まで、まだ時間がある。

 食費を抑えれば生活できる。

 仕事へ行くための交通費は必要だ。

 それ以外は、何とかなる。

 直人は、残ったお金の一部を運用口座へ移した。

 そのとき、迷いはあった。

 しかし、蓮の言葉を思い出した。

「資金が足りないだけ」

 直人は、送金ボタンを押した。

 完了画面が表示される。

 自分の生活を支えるはずのお金が、画面の向こうへ移っていった。

 その夜、蓮は言った。

「ありがとう。直人が入れてくれた分で、かなり動かせる」

「本当に増えるんだよな?」

「任せてくれ」

 蓮の返事は、いつもと同じだった。

 任せてくれ。

 その言葉に、直人は何度も安心した。

 だが、安心というものは、ときに自分で考えることをやめさせる。

 直人は、考える代わりに信じた。

 確認する代わりに任せた。

 働く代わりに、誰かが増やしてくれる未来を待った。

 やがて、4人の生活には、ささやかな変化が現れ始めた。

 蓮は、以前よりも高い服を着るようになった。

 湊は、新しいスマートフォンを手にしていた。

 食事も、安い自炊だけではなくなった。

 外食が増えた。

 出前を取る日も増えた。

 直人は、仕事帰りに高い料理の残りを見つけることがあった。

「これ、誰が払ったんだ?」

 直人が尋ねると、蓮は答えた。

「運用益から出した」

「利益が出てるのか?」

「少しな」

「じゃあ、俺たちの取り分は?」

「まだ出せない。資金を大きくする段階だから」

 また、準備段階だった。

 利益は出ている。

 しかし、取り出せない。

 資金を大きくするために必要だという。

 直人は、疑問を飲み込んだ。

 未来のために、今は我慢する。

 これまで何度も聞いてきた言葉だった。

 ある日の深夜、直人は仕事から帰ってきた。

 部屋は暗かった。

 亮は眠っている。

 湊も布団に入っていた。

 蓮だけが、窓際の机に座っていた。

 高層階の夜景を背にして、ノートパソコンの画面を見ている。

「まだ起きてるのか?」

 直人が聞いた。

「相場が動いてるからな」

「眠らないのか?」

「眠ってる間にチャンスを逃したくない」

 蓮は画面から目を離さなかった。

「直人も、もっと稼いだほうがいい。今のうちに資金を作れば、後で楽になる」

「これ以上は、少し厳しい」

「厳しいからやるんだろ」

 蓮の声は、穏やかだった。

 怒っているわけではない。

 それでも、直人は責められているように感じた。

「俺たちは直人のためにもやってる」

「わかってる」

「だったら、もっと信じてくれよ」

 直人は、窓の外を見た。

 街の明かりが、ガラスに反射している。

 その向こうに、自分の顔が映っていた。

 疲れている。

 目の下には、濃い影がある。

 それでも、直人は笑った。

「信じてるよ」

 蓮も笑った。

「なら大丈夫だ」

 その日、直人は何も言わずに眠った。

 夢の中で、彼はまた高い場所にいた。

 広い部屋。

 大きな机。

 たくさんの人が働く会社。

 自分の名前が書かれた看板。

 その隣には、蓮と湊と亮がいる。

 4人で成功した。

 4人でここまで来た。

 そう思ったところで、夢の中の誰かが叫んだ。

 「金がない」

 直人は振り返った。

 誰もいない。

 床には、破れた通帳と、見覚えのない請求書が散らばっていた。

 そこで目が覚めた。

 部屋はまだ暗かった。

 隣では亮が眠っている。

 直人は、スマートフォンを手に取った。

 口座を確認する。

 残高は、また減っていた。

 取引の結果について、蓮から説明はなかった。

 直人は、メッセージを打ちかけた。

「今月の運用状況を詳しく教えてほしい」

 しかし、送信する前に消した。

 こんな時間に聞くのは迷惑だ。

 明日聞けばいい。

 直人は、そう考えた。

 翌日になると、聞くことを忘れた。

 仕事へ行き、疲れて帰り、また次の日が来る。

 生活の中には、確認しなければならないことが多すぎた。

 家賃。

 返済。

 仕事。

 食費。

 運用。

 その全部を自分で管理するには、直人はまだ未熟だった。

 だから、管理できると言う人間に任せた。

 任せれば、いつか楽になると思った。

 タワーマンションに移ってから、4人の会話は少しずつ変わっていった。

 以前は、起業の話や将来の話をしていた。

 しかし、次第に話題は、次の入金額や相場の動き、生活費の不足について増えていった。

「今月、家賃分が足りない」

「運用に回したから、来週まで待って」

「来週って、支払い日は明後日だぞ」

「何とかする」

 何とかする。

 その言葉も、少しずつ増えていった。

 直人は、仕事の前に追加でお金を借りることも考えた。

 すでに100万円の借入がある。

 そこへさらに借入を重ねることには抵抗があった。

 しかし、ここで生活が崩れれば、4人の計画そのものが終わる。

 自分が借りれば、みんなが助かる。

 自分が動けば、全員が前へ進める。

 そう思っていた。

 亮は、直人に何度か言った。

「俺たち、ちょっと無理してないか?」

「どういう意味?」

「家賃も高いし、投資に入れてる金も多い。俺、返済を考えると怖いんだよ」

「でも、ここでやめたら今までの意味がなくなる」

「それはわかるけど……」

「大丈夫だよ。蓮と湊が考えてくれてる」

 直人がそう言うと、亮はそれ以上何も言わなかった。

 亮もまた、直人を信じていた。

 直人が信じているものを、亮も信じようとしていた。

 4人の中で、誰かが疑問を口にしても、別の誰かがそれを打ち消す。

 そうやって、不安は表面に出る前に消されていった。

 ある日、蓮が大きな箱を持って帰ってきた。

「何それ?」

 直人が聞くと、蓮は箱を開けた。

 中には、新しいモニターが入っていた。

「これがあったほうが、分析しやすい」

「いくらしたんだ?」

「そんなに高くない」

 蓮は具体的な金額を言わなかった。

 湊も、別の日に新しい椅子を買った。

 長時間座るには、安い椅子では体がもたないらしい。

 直人は、自分の仕事用の靴が傷んでいることに気づいていた。

 買い替えたい。

 しかし、その金があれば運用に回せる。

 直人は、靴を修理して使い続けた。

 それなのに、蓮と湊の周りには、新しい道具が増えていく。

 直人は、少しずつ不満を感じるようになった。

 だが、不満を持つ自分のほうが悪いような気がした。

 二人は、資金を増やすために必要なものを買っている。

 自分は、ただ働いているだけだ。

 そう考えると、不満を口にする資格がないように思えた。

 投資の知識がない。

 相場の判断ができない。

 だからこそ、自分は稼ぐしかない。

 自分がもっと稼げば、二人も大きな結果を出せる。

 直人は、勤務日数を増やした。

 休みの日も、別の仕事を入れた。

 夜の仕事が終わってから、短時間の仕事へ行く日もあった。

 睡眠時間が削られていく。

 身体は重い。

 目を閉じると、すぐに眠ってしまう。

 しかし、家に帰れば、蓮と湊が画面を見ながら話している。

 その姿を見ると、もう一度動かなければならない気持ちになった。

「直人、今月はどれくらい入れられそう?」

 蓮が聞く。

「まだわからない」

「できれば、前より増やしてほしい」

「無理かもしれない」

「無理じゃなくて、どうすればできるかを考えるんだよ」

 その言葉は、直人の胸を刺した。

 自分は、逃げているのか。

 仲間が努力しているのに、自分だけが弱音を吐いているのか。

 もっと働けばいい。

 もっと我慢すればいい。

 もっと借りればいい。

 そう思い始めていた。

 借金をして100万円を作ったとき、直人はそれが一度きりだと思っていた。

 しかし、生活を続けるには、また別の支払いが発生する。

 利益が出る前に、家賃や生活費が必要になる。

 資金が増える前に、資金が減る。

 その差を埋めるために、直人はさらに働いた。

 働いても足りないときは、借りることを考えた。

 借りたお金を返すために、また働く。

 そんな循環が始まっていた。

 タワーマンションの窓から見る夜景は、毎日変わらなかった。

 それなのに、直人の心だけが少しずつ沈んでいった。

 華やかな場所に住んでいるのに、生活は苦しい。

 成功者のような部屋にいるのに、手元にはお金がない。

 誰かに自慢できる景色を手に入れた代わりに、自分の自由を失っている。

 それでも、直人は写真を消せなかった。

 SNSに投稿することはなかったが、何度もその写真を見返した。

 自分たちは、ここまで来た。

 ここで終わるはずがない。

 この部屋を、成功の証に変える。

 直人は、何度もそう思った。

 ある夜、亮がリビングに座っていた。

 仕事から帰ってきたばかりなのか、制服のまま、うつむいている。

「どうした?」

 直人が声をかけた。

「何でもない」

「何でもない顔じゃないだろ」

 亮はしばらく黙っていた。

 やがて、ポケットから一枚の紙を取り出した。

「返済の案内が来た」

 直人は、紙を見た。

 借入金の返済予定。

 毎月の金額。

 残りの期間。

 亮の名前の下に、長い数字が並んでいる。

「大丈夫だよ」

 直人は言った。

「投資が増えれば返せる」

「本当に?」

「蓮たちが言ってた」

 亮は、紙を折りたたんだ。

「直人は、蓮たちを信じてるんだな」

「ああ」

「俺も信じたいよ」

 亮はそう言った。

 その“信じたい”という言葉が、直人の胸に残った。

 信じている、ではない。

 信じたい。

 その違いに、直人は気づいていた。

 しかし、気づかないふりをした。

 もし、信じられないなら、何を支えにしてこの生活を続ければいいのかわからなかった。

 4人の関係は、信頼でつながっているように見えた。

 だが、その下には借金があり、生活費の負担があり、説明されない数字があり、言えない不満が積もっていた。

 誰かが糸を引いているわけではない。

 それでも、4人は自分たちで、見えない網の中へ入っていった。

 その網を作ったのは、夢だった。

 成功したいという気持ち。

 普通の生活から抜け出したいという焦り。

 誰かに認められたいという欲求。

 そして、仲間に必要とされたいという願い。

 それらがすべて絡み合っていた。

 ある月末、投資の損失が大きくなった。

 蓮は、夜中に何度も電話をしていた。

 湊は、画面を睨み続けている。

 直人が帰宅すると、部屋の空気は異様に重かった。

「また減ったのか?」

 直人が尋ねると、湊は答えなかった。

 蓮が、低い声で言った。

「今は、追加資金が必要だ」

「いくら?」

「少なくとも、50万」

 直人は、しばらく動けなかった。

「50万なんて、すぐには無理だ」

「借りられないか?」

「また?」

「直人、今までの損失を取り戻せる機会なんだ」

「取り戻すって、今までいくら入れたと思ってるんだよ」

 直人の声が震えた。

 初めて、蓮に対して強い言葉が出た。

 蓮は黙り、湊が画面を閉じた。

「だったら、全部やめるか?」

 湊が言った。

「ここまで入れた金を、全部諦めるのか?」

 直人は、答えられなかった。

 すでに入れた金額は、決して小さくない。

 ここでやめれば、それがすべて消える。

 続ければ、取り戻せる可能性がある。

 その二つを並べられると、人は続けるほうを選びやすい。

 損失を確定することが怖いからだ。

 直人は、頭の中で何度も考えた。

 50万円を入れて、もし増えたら。

 損失を取り戻して、利益まで出たら。

 それで返済もできる。

 生活も楽になる。

 もう二度と借金をしなくて済む。

 その未来を想像すると、50万円を用意することが、正しい選択のように思えた。

「俺が何とかする」

 直人は言った。

 言った瞬間、亮が立ち上がった。

「直人、やめろよ」

「何で?」

「これ以上は危ないだろ」

「じゃあ、今までの金はどうするんだよ」

「それでも、追加するのは違う」

「お前は、俺たちの夢を諦めたいのか?」

 直人が言うと、亮は黙った。

 その顔に傷ついた表情が浮かんだ。

 直人自身も、自分が言いすぎたと思った。

 亮は、夢を諦めたいわけではない。

 ただ、怖がっているだけだ。

 でも、怖がる人間に負けたくなかった。

 自分まで弱気になれば、本当に何もかも終わる気がした。

 翌日、直人は借入について調べた。

 スマートフォンの画面には、いくつもの広告が表示された。

 簡単な手続き。

 最短即日。

 必要なときにすぐ借りられる。

 そんな言葉が並んでいる。

 簡単に借りられることが、簡単に返せることを意味しない。

 その当たり前のことを、直人はわかっていた。

 それでも、申し込み画面を開いた。

 入力欄に自分の名前、住所、勤務先、年収を入れる。

 指が止まる。

 画面の向こうにいる審査担当者は、直人の生活を知らない。

 タワーマンションで4人暮らしをしていることも、投資にお金を回していることも、仲間に口座を任せていることも知らない。

 ただ、返済能力を数字で見る。

 直人は、自分の人生が数字に変換されていくような気がした。

 申し込みを終えると、しばらくして結果が届いた。

 借入可能だった。

 直人は、画面を見つめたまま動かなかった。

 お金が手に入る。

 しかし、それは自分のお金ではない。

 未来の自分が働いて返すお金だ。

 それでも、直人は借りた。

 50万円。

 そのお金を、湊が管理する口座へ移した。

 振込が完了したとき、直人の胸の奥に、安堵と恐怖が同時に広がった。

 これで、取り戻せる。

 これで、終わる。

 これで、うまくいく。

 そう思いながら、直人は部屋へ戻った。

 蓮は、直人の肩を抱いた。

「ありがとう。直人がいなかったら、本当に終わってた」

「終わらせたくないからな」

「絶対に成功させよう」

「ああ」

 その夜、4人はまた乾杯した。

 高層階の窓の向こうで、街の明かりが輝いている。

 誰も、借金の話をしなかった。

 返済の話もしなかった。

 ただ、成功した未来の話をした。

 会社を作る。

 人を雇う。

 もっと高い部屋に住む。

 車を買う。

 家族に恩返しをする。

 世界中を旅行する。

 直人は、グラスを持ったまま、窓の外を見ていた。

 タワーマンションの明かりは、部屋ごとに違う色をしている。

 そのひとつひとつに、人の暮らしがある。

 誰かが仕事から帰り、誰かが家族と食事をし、誰かが眠りにつこうとしている。

 その中で、自分たちは何をしているのだろう。

 そう思ったが、口には出さなかった。

 自分たちは、普通の人間とは違う。

 普通の人間が選ばない道を選んでいる。

 だから、今は苦しい。

 だから、今は理解されない。

 成功した後になれば、すべてが正しかったと証明できる。

 直人は、そう考えた。

 その日から、直人の借金は増えた。

 毎月の返済額も増えた。

 家賃17万円の部屋を維持するためには、一定の収入が必要だった。

 投資に回す資金を作るためにも、働かなければならなかった。

 直人は、仕事の時間を増やした。

 眠る時間を減らした。

 遊ぶ時間をなくした。

 友人から誘いがあっても断った。

 家族から連絡が来ても、忙しいとだけ返した。

 生活の中心は、仕事と借金と投資になった。

 直人が家にいる時間は短くなった。

 帰宅するのは、朝方だった。

 玄関のドアを開けると、部屋は静まり返っている。

 リビングには、誰かの服が脱ぎ捨てられている。

 キッチンには、食べ終わった容器が置かれている。

 窓の外は明るくなり始めている。

 直人は靴を脱ぎ、部屋の隅に布団を敷いた。

 隣では、亮が眠っている。

 少し離れた場所では、蓮か湊が寝ている。

 同じ家に住んでいるのに、会話をする時間は減っていた。

 直人が起きるころ、蓮と湊は出かけていることがあった。

 直人が帰るころ、亮は眠っている。

 4人が同じ部屋に揃う時間は、ほとんどなくなった。

 タワーマンションに移れば、仲間との距離が近くなると思っていた。

 しかし実際には、生活時間の違いが大きくなっただけだった。

 直人は、亮の寝顔を見ることが増えた。

 高校時代から知っている友人。

 一緒に家を出た仲間。

 100万円の借金を背負い、この生活を始めた人間。

 亮は、いつも疲れていた。

 頬が少し痩せている。

 目の下にクマがある。

 直人は、彼を起こさないように静かに布団へ入った。

 自分も、同じように疲れているはずだった。

 それでも、眠る前にスマートフォンを確認した。

 投資の残高。

 借金の返済日。

 家賃の引き落とし。

 数字を見ているうちに、不安で眠れなくなることが増えた。

「あと少しで、全部変わる」

 直人は、暗い部屋で自分に言い聞かせた。

「あと少しだけ頑張ればいい」

 しかし、“あと少し”は、いつまでも終わらなかった。

 ある日、直人が仕事から帰ると、部屋の照明がすべて消えていた。

 誰もいないのかと思ったが、窓際に人影があった。

 湊が、暗い部屋で街を見下ろしていた。

「どうした?」

 直人が聞く。

「別に」

「寝ないのか?」

「もう少ししたら寝る」

 湊は、窓ガラスに映る自分の顔を見ていた。

 しばらく沈黙が続いた。

「直人は、後悔してない?」

 突然、湊が言った。

 直人は、その言葉の意味がわからなかった。

「何を?」

「この生活」

 直人は、窓の外を見た。

「後悔してないよ」

「借金して、働き続けて、金を入れて……それでも、まだ何も形になってない」

「これからだろ」

「そうだな」

 湊は短く答えた。

 その声には、これまでのような自信がなかった。

 直人は、初めて湊の不安を感じ取った。

 蓮だけではない。

 湊も、何かを恐れている。

 しかし、その恐怖を言葉にすれば、4人の夢が崩れてしまう。

 だから、誰も本当のことを言わない。

 直人は、その夜、湊に尋ねた。

「運用の金、本当に大丈夫なのか?」

 湊は、すぐには答えなかった。

「大丈夫にする」

「今、いくら残ってる?」

「細かい数字は、蓮が見てる」

「お前が運用担当じゃないのか?」

「担当は俺だけど、最終的な判断は蓮と一緒にしてる」

「じゃあ、二人とも正確な数字を知ってるんだな」

「知ってるよ」

「俺たちにも見せてくれよ」

 湊は、直人へ顔を向けた。

「明日、まとめる」

「いつもそう言うけど、まだ見てない」

 直人の言葉に、湊は目を伏せた。

「疑ってるのか?」

「そういうつもりじゃない」

「でも、疑ってるだろ」

「自分の金だから、確認したいだけだよ」

 言い終わった後、部屋はさらに静かになった。

 直人は、自分が間違ったことを言ったとは思わなかった。

 しかし、正しいことを言うだけで、関係が壊れそうになる。

 それが怖かった。

 湊は、しばらくしてから言った。

「明日、見せる」

 翌日、直人は仕事へ出た。

 帰宅すると、蓮と湊はすでに眠っていた。

 確認することはできなかった。

 その次の日も、二人は忙しそうにしていた。

 その次の日には、直人自身が疲れ切っていた。

 約束は、いつの間にか流れていった。

 直人も、追及しなかった。

 追及しなかったというより、できなかった。

 仕事、返済、家賃、生活。

 目の前のことに追われているうちに、重要な疑問が後回しになっていった。

 やがて、タワーマンションでの暮らしは、当たり前になった。

 高層階からの景色も、毎日見れば日常になる。

 豪華なエントランスも、ただの通り道になる。

 最初は誇らしかった部屋も、支払いのことを考えれば、重たい箱に見えてくる。

 直人は、家賃17万円という数字を、毎月のように頭の中で繰り返した。

 17万円。

 1年で204万円。

 4年なら、800万円を超える。

 その計算をしたとき、直人は一瞬だけ息を止めた。

 それだけのお金を、住むために払い続ける。

 それだけ働いても、自分の手元には何も残らない。

 しかし、今さら引っ越すこともできなかった。

 ここまで来たのに、下へ戻ることは敗北のように思えた。

 直人は、タワーマンションに住むことそのものを、成功の証だと考えていた。

 だから、そこから離れることは、夢を諦めることと同じだった。

 ある週末、蓮が知人を部屋へ呼んだ。

 直人は仕事から帰ってきたばかりだった。

 リビングには、見知らぬ男女が数人座っている。

 テーブルの上には、高そうな酒と料理が並んでいた。

「直人、おかえり」

 蓮が声をかける。

「誰?」

「仕事関係の人。今後、一緒に動くかもしれない」

 直人は軽く頭を下げた。

 見知らぬ人たちは、直人を見て何かを話していた。

「この部屋、4人で借りてるんですか?」

「そうです」

「すごいですね。若いのに」

 その言葉に、直人は少しだけ誇らしくなった。

 実際には、家賃の大部分を自分たちの労働で支え、借金をして入居した部屋だった。

 しかし、他人から見れば、成功している若者たちに見える。

 その錯覚が、直人を満たした。

 蓮は、投資やビジネスについて熱く語った。

 将来は大きな事業を作る。

 資金を運用して、さらに大きな資金を作る。

 人脈を広げて、投資家ともつながる。

 話は次々と膨らんだ。

 直人は、黙って酒を飲んでいた。

 自分の部屋なのに、自分が何をしているのかわからない。

 それでも、周囲の人間が羨望の目で部屋を見渡すと、ここへ来た意味があるように思えた。

 翌朝、部屋はひどい状態になっていた。

 空になった酒瓶。

 床に落ちた食べ物。

 キッチンに残された油。

 直人と亮で片付けた。

「昨日の人たち、また呼ぶのか?」

 亮が聞いた。

「仕事につながるなら、必要だろ」

 直人は答えた。

「でも、片付けるのは俺たちだ」

「それくらい、別にいいだろ」

 言ったあと、直人は自分の声が蓮に似てきていることに気づいた。

 仕方がない。

 必要なことだ。

 未来のためだ。

 その言葉を使えば、どんな負担も受け入れられるようになる。

 直人は、床に落ちた紙皿を拾った。

 その裏側には、油が染み込んでいた。

 タワーマンションへ移ってから、4人の生活は一見華やかになった。

 しかし、内側では、負担が増え、借金が膨らみ、疑問が積み上がっていた。

 投資資金を追加する。

 家賃を払う。

 生活費を補う。

 返済する。

 また働く。

 直人は、休むことに罪悪感を覚えるようになった。

 休めば、その分だけ収入が減る。

 収入が減れば、家賃や返済が苦しくなる。

 返済が苦しくなれば、仲間の計画にも影響が出る。

 だから、働く。

 体調が悪くても働く。

 眠くても働く。

 気持ちが沈んでいても、店では明るく振る舞う。

 そして朝方、誰もいない部屋へ帰る。

 タワーマンションの廊下は、いつも静かだった。

 足音が、長く響く。

 エレベーターの鏡に映る自分は、疲れた顔をしている。

 エレベーターが上昇すると、耳が少し詰まる。

 高い場所へ運ばれていく。

 しかし、心は少しも軽くならない。

 玄関を開ける。

 部屋は暗い。

 直人は、亮を起こさないように、静かに靴を脱ぐ。

 リビングの窓には、朝の光が差し込み始めている。

 夜景は消え、街の輪郭がはっきりしてくる。

 夜の間は美しく見えた街が、朝になると現実の姿を見せる。

 道路。

 工事現場。

 忙しく走る人々。

 眠らずに働く人間。

 直人は、窓の前に立った。

 自分はこの街で、何をしているのだろう。

 成功するために働いている。

 そう答えることはできた。

 しかし、本当に成功へ近づいているのかは、わからなかった。

 口座の中身を完全には把握していない。

 投資の利益を手にしていない。

 貯金もない。

 借金だけが、確実に増えている。

 直人は、窓に映る自分の顔を見つめた。

 その顔は、実家を出た日の自分と同じだった。

 いや、少し違う。

 目の奥に、疲れがある。

 期待の奥に、不安がある。

 笑顔の奥に、自分でも認めたくない疑問がある。

 それでも、その疑問を見ないようにした。

 直人は布団へ入った。

 亮の寝息が聞こえる。

 しばらくすると、蓮が起きた。

「おかえり」

 蓮が小声で言った。

「ああ」

「今日、仕事は?」

「夜から」

「じゃあ、昼間に少し話せるな」

「何を?」

「今後の資金のこと」

 直人は、目を閉じたまま聞いていた。

「追加で必要になるかもしれない」

「また?」

「今度は本当に大きく動かせる。タワマンに移ったことで、外部の人とも話がしやすくなった。仕事の話も来てる」

「仕事?」

「投資だけじゃない。事業の話だよ」

 蓮は、まだ見ぬ計画を語った。

 運送。

 人材。

 店舗。

 オンライン事業。

 いくつもの言葉が出てくる。

 しかし、具体的な会社名も、契約も、売上もなかった。

 それでも、直人は聞いていた。

 まだ始まっていないだけ。

 ここから形になる。

 4人の夢は、少しずつ現実へ近づいている。

 そう思いたかった。

「直人がもっと働いてくれれば、流れが作れる」

 蓮が言った。

「俺たちも無駄にしてない。全部、未来のために動かしてる」

 直人は、ゆっくり目を開けた。

「わかってる」

「本当に?」

「ああ」

「なら、もう少しだけ信じてくれ」

 直人は返事をしなかった。

 信じることは、簡単だった。

 信じている間は、責任を考えなくて済む。

 疑うことは、苦しい。

 疑えば、これまでの選択すべてを見直さなければならない。

 家を出たこと。

 借金をしたこと。

 タワーマンションへ移ったこと。

 口座を渡したこと。

 働いたお金を入れ続けたこと。

 それらが間違いだったかもしれないと認めるには、勇気が必要だった。

 直人には、まだその勇気がなかった。

 だから、答えた。

「信じてるよ」

 蓮は、安心したように息を吐いた。

「なら大丈夫だ」

 直人は、再び目を閉じた。

 その言葉を聞きながら、胸の奥に小さな痛みを感じていた。

 タワーマンションは、夢のような場所だった。

 高層階から見る夜景。

 静かな廊下。

 整ったエントランス。

 広い窓。

 普通の暮らしとは違う場所に、自分たちはいる。

 だが、夢のような場所に住んでいるからといって、夢が実現しているわけではない。

 直人は、まだその違いを理解していなかった。

 家賃17万円の部屋は、成功への入口だと思っていた。

 しかし実際には、借金と見栄と依存が作った、高い箱だった。

 その箱の中で、4人はそれぞれ違うものを見ていた。

 蓮は、資金を増やす未来を見ていた。

 湊は、数字と相場の動きを見ていた。

 亮は、返済と生活の不安を見ていた。

 そして直人は、窓の外の夜景を見ていた。

 そこに、自分がいつか手に入れるはずの未来を重ねていた。

 誰も、同じ夢を見てはいなかった。

 それでも、同じ部屋に住み、同じ言葉を使っていた。

 成功。

 自由。

 起業。

 投資。

 仲間。

 信頼。

 言葉が同じなら、心も同じだと思っていた。

 それが、最初の間違いだった。

 ある晩、直人は仕事へ出る前に、窓から街を見下ろした。

 空はすでに暗く、建物の明かりが一つずつ点いている。

 高い場所から見る世界は、すべてが小さく見えた。

 自分の借金も。

 家賃も。

 損失も。

 不安も。

 小さく見えるだけで、消えたわけではない。

 直人は、そのことに薄々気づき始めていた。

 だが、気づいたからといって、すぐに生活を変えることはできなかった。

 すでに4人の生活は、タワーマンションを中心に回っている。

 家賃がある。

 借金の返済がある。

 投資資金がある。

 この部屋を維持するために、働き続ける必要がある。

 そして、働き続けるために、夢を信じ続けなければならない。

 直人は、最後にもう一度だけ、口座の残高を確認した。

 数字は、思っていたよりも少なかった。

 それでも、画面を閉じる。

 不安を見ないために。

 信じるために。

 自分が選んだ道を、正しいと思い続けるために。

「行ってくる」

 直人は、眠っている亮に向かって小さく声をかけた。

 返事はなかった。

 蓮と湊は、窓際の机で画面を見ていた。

 直人は玄関を出た。

 エレベーターの扉が閉まる。

 鏡に映った自分を見て、直人は襟元を整えた。

 これから夜の街へ向かう。

 誰かの酒を作り、誰かの笑顔を支え、給料を得る。

 そのお金を、また仲間に預ける。

 増えることを願い、減らないことを祈り、いつか大きくなる未来を待つ。

 エレベーターは、静かに下降していった。

 高層階から地上へ。

 夢のような部屋から、現実の街へ。

 直人は、まだ知らなかった。

 この先、自分がどれほど働くことになるのか。

 どれほど眠れない夜を過ごすのか。

 どれほど大切なものを失うのか。

 そして、最終的に、自分の人生を取り戻すためには、信じていた仲間と決別しなければならないことを。

 このときの直人は、ただ一つのことだけを信じていた。

 高い場所に住めば、自分も高い場所へ行ける。

 大きく借りれば、大きく稼げる。

 仲間に任せれば、夢は早く実現する。

 その考えは、彼を前へ進ませた。

 同時に、彼の足元から、少しずつ自由を奪っていった。

 タワーマンションの明かりが、背後で遠ざかる。

 直人は振り返らなかった。

 今はまだ、あの場所を誇らしいと思っていた。

 自分たちがつかんだ、成功の第一歩だと思っていた。

 しかし、あの高層階の部屋で始まったのは、成功ではなかった。

 自分の人生の主導権を、他人へ預けていく日々だった。

 その事実に気づくまで、直人はさらに長い時間を必要とすることになる。

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