見出し画像

『孤軍奮闘 ― 奪われた八年を取り戻すまで ―』6

第六部 週7日の配達

    自分で稼ぐため、限界まで働く

 高瀬亮が実家へ連れて行かれてから、しばらく経った。

 最初の頃は、部屋の中に亮の不在がはっきりと残っていた。

 リビングの隅に敷かれていた布団。

 玄関に並んでいたスニーカー。

 洗面所の歯ブラシ。

 冷蔵庫に入っていた、亮がよく買っていた飲み物。

 ひとつひとつが、亮がこの部屋で暮らしていた証拠だった。

 直人は、それらを見るたびに、あの日のことを思い出した。

 朝、亮の両親が突然訪ねてきたこと。

 父親が部屋を見回し、亮に荷物をまとめろと言ったこと。

 亮が、何度も「戻ってくるから」と言ったこと。

 そして、玄関のドアが閉まり、亮の足音が遠ざかっていったこと。

 あの日から、亮とは短い連絡しか取れていない。

 最初のうちは、数日に一度メッセージが届いた。

〈今日は実家にいる〉

〈親と話している〉

〈まだ戻れない〉

 直人が「いつ帰ってくる」と尋ねると、亮は決まって同じ言葉を返した。

〈もう少し考えたい〉

 その返事が来るたびに、直人の胸には不安が広がった。

 亮は、本当に戻ってくるのか。

 あの日、亮が探していた封筒は、どこへ行ったのか。

 湊が持っていた封筒は、本当に亮のものではなかったのか。

 投資に回した金は、今どうなっているのか。

 直人の口座には、いくら残っているのか。

 何ひとつ、確かな答えはなかった。

 しかし、直人がその疑問について話そうとすると、蓮はいつも別の話を持ち出した。

「今は、亮のことを考えていても仕方ないだろ」

「家賃は待ってくれない」

「今月の資金が足りない」

「配達の件数を増やせないか」

「投資は止められない。ここで止めたら、今までの努力が全部無駄になる」

 蓮の言葉は、いつも落ち着いていた。

 直人を責めるわけでもない。

 怒鳴るわけでもない。

 ただ、現実を説明しているような口調だった。

「亮がいなくなった分は、俺たちで埋めるしかない」

 ある朝、蓮はそう言った。

 直人は、仕事から帰ったばかりだった。

 夜の仕事を終え、ほとんど眠らずに部屋へ戻った直後だった。

「家賃は17万円のままだ。光熱費も食費も変わらない。投資に回す資金も必要だ」

「わかってる」

「じゃあ、配達を増やせるか?」

 直人は、玄関に立ったまま考えた。

 眠りたい。

 少しでも横になりたい。

 身体中が重い。

 腰も痛い。

 それでも、口から出たのは別の言葉だった。

「増やす」

 蓮は、安心したように頷いた。

「助かる。直人が働いてくれれば、何とかなる」

 その言葉を聞いた瞬間、直人は少しだけ気持ちが軽くなった。

 自分が働けば、生活を守れる。

 自分が稼げば、亮がいなくなった穴を埋められる。

 自分が頑張れば、投資も続けられる。

 今は、そうするしかない。

 直人は、配達の仕事を増やした。

 朝から荷物を積み込み、昼過ぎまで走る。

 夕方から夜の仕事へ向かう。

 店を出るのは、空が白み始める頃だった。

 数時間だけ眠り、また配達へ行く。

 夜の仕事が休みの日も、配達を入れた。

 配達が少ない日には、別の仕事を探した。

 予定表に空白があると、不安になった。

 何も予定がない時間があれば、亮のことを考えてしまう。

 自分の口座のことを考えてしまう。

 投資のことを考えてしまう。

 だから、仕事を入れた。

 働いている間だけは、考えずに済んだ。

 荷物を積む。

 住所を確認する。

 車を走らせる。

 インターホンを押す。

 荷物を届ける。

 次の住所へ向かう。

 同じ作業を繰り返していると、頭の中が空っぽになった。

 空っぽになれば、亮の顔を思い出さずに済む。

 封筒のことも、口座のことも、投資のことも考えずに済む。

 直人は、仕事をしている自分を、少しずつ気に入るようになっていた。

 働いていれば、何かを進めている気がした。

 働いていれば、自分は役に立っていると思えた。

 働いていれば、今の苦しさには意味があると思えた。

 配達の初日は、蓮が助手席に乗った。

「最初は、時間指定の荷物を先に回ったほうがいい」

 蓮は、スマートフォンの地図を見ながら説明した。

「この地域は道が狭い。大きい荷物は、車を停めやすい場所にまとめておけ」

「わかった」

「不在が多いマンションは、後回しにしたほうがいい。再配達で戻ることになるから」

 蓮は、仕事の段取りをよく知っていた。

 直人が荷物を抱えて建物へ入っている間、蓮は車で待っていた。

 直人が戻ると、次の住所を確認する。

 配達の仕事を手伝ってくれているように見えた。

 しかし、その会話の多くは、仕事と金の話だった。

「今日、何件回れそうだ?」

「まだわからない」

「最低でも、このくらいは作ってくれ」

 蓮は画面を見せた。

 そこには、必要な金額が書かれていた。

「これは何の分?」

「家賃と、今月の運用資金」

「俺が全部?」

「全部じゃない。湊も出す」

「でも、亮の分もあるだろ」

「だから、直人が多めに働く必要がある」

 直人は、画面に表示された金額を見つめた。

 自分が一日にどれだけ稼げるのか、まだ正確にはわからない。

 それでも、蓮が必要だと言うのなら、作らなければならないと思った。

 昼食は、おにぎり二個だった。

 朝、直人はコンビニで鮭と昆布のおにぎりを買った。

 一個を昼に食べ、もう一個を夕方まで残す。

 車内で袋を開け、片手で食べる。

 もう片方の手で、次の配達先を確認する。

「それだけで足りるのか?」

 蓮が聞いた。

「大丈夫」

「夜も仕事だろ」

「帰ったら食べる」

 直人は、そう答えた。

 しかし、帰宅する頃には、食事をする気力も残っていないことが多かった。

 シャワーを浴び、布団へ倒れ込む。

 数時間後には、また起きる。

 冷蔵庫を開けても、すぐに食べられるものはない。

 コンビニで何か買おうと思っても、手元の金が気になった。

 自分で稼いでいるはずなのに、自由に使える金はほとんどなかった。

 給料が入る口座は、いつの頃からか、直人自身が残高を確認できなくなっていた。

 ログインしようとしても、以前の情報では入れない。

 蓮に尋ねると、いつも同じ説明が返ってきた。

「管理の都合で、ログイン情報を変えた」

「資金をまとめて動かしている」

「直人が個別に見ると、数字が混乱する」

「必要なときは、こちらから説明する」

 直人は、最初こそ強く反発した。

「自分の口座なのに、自分で見られないのはおかしくないか?」

 そう言ったこともある。

 蓮は、落ち着いた口調で答えた。

「おかしくない。投資と生活費を一緒に管理しているだけだ」

「でも、残高は見たい」

「数字を見て不安になるだけだろ」

「自分の金がいくらあるのか知りたい」

「直人は、投資の仕組みを全部理解しているわけじゃない」

「だから説明してほしい」

「今は運用中だ。途中の数字を見ても意味がない」

 湊も、同じような説明をした。

「今は資金を動かしている」

「利益が確定するまで待て」

「直人は配達に集中してくれ」

「お前が働いてくれれば、運用も続けられる」

 直人は、いつの間にか、それを受け入れていた。

 自分は投資のことをよく知らない。

 相場の動きもわからない。

 口座の仕組みも、資金管理も、蓮や湊のほうが詳しい。

 ならば、任せるしかない。

 自分は働く。

 二人は運用する。

 それが役割分担なのだ。

 直人は、そう考えた。

 しかし、月の小遣いさえ渡されない生活が続くと、その考えは少しずつ崩れていった。

 仕事で使う飲み物が欲しい。

 配達用の靴が古くなった。

 雨の日の上着が必要だ。

 車内で食べる食事を買いたい。

 そう思っても、自由に使える金がない。

「必要なら、金額を言って」

「何に使うのか説明して」

「今月は余裕がない」

「投資の資金を優先する」

 自分で稼いでいるのに、自分のお金を使うために許可を求めなければならない。

 直人は、そのことに違和感を覚えた。

 しかし、その違和感を考え始めると、蓮は決まって仕事の話をした。

「明日は、午前の配達を増やせる」

「夜も出られるだろ?」

「今月は、追加でこれだけ必要だ」

「ここを乗り越えれば、後で楽になる」

 直人は、そのたびに、疑問を飲み込んだ。

 今は働くときだ。

 今は我慢する時期だ。

 投資がうまくいけば、全部取り戻せる。

 その言葉を、自分自身に言い聞かせた。

 ある雨の日、直人は大きな荷物を抱えて、マンションの階段を上っていた。

 エレベーターが点検中だった。

 荷物は重く、階段は濡れている。

 足元が滑り、直人の身体が壁にぶつかった。

 荷物を落とさなかったことだけが救いだった。

 腰に鋭い痛みが走った。

 直人は、踊り場で立ち止まった。

 少し休めば動ける。

 そう思った。

 しかし、時間指定の荷物だった。

 遅れれば、売上に影響する。

 直人は、壁に手をつきながら階段を上がった。

 荷物を届け、車へ戻る。

 運転席へ座った瞬間、全身の力が抜けた。

「今日は、もうやめたほうがいい」

 助手席の蓮が言った。

「まだ配達が残ってる」

「でも、腰を痛めたら働けなくなる」

「働かないと、今月が足りない」

「一日くらい休んでも、何とかなる」

「蓮はそう言うけど、実際に足りないのは俺だろ」

 蓮は黙った。

 直人は、痛む腰を押さえながら、次の住所をナビへ入力した。

「行くよ」

「本当に大丈夫か?」

「大丈夫」

 また、その言葉を使った。

 大丈夫ではなかった。

 それでも、そう言うしかなかった。

 休めば、何かが崩れる気がした。

 配達を休めば、売上が足りない。

 売上が足りなければ、家賃が払えない。

 家賃が払えなければ、部屋を失う。

 投資資金が足りなければ、今までの努力が無駄になる。

 だから、直人は働いた。

 身体が痛くても。

 眠くても。

 空腹でも。

 何かを考える余裕がなくても。

 夜の仕事では、客から「疲れているのか」と聞かれた。

 直人は笑って答えた。

「少し寝不足なだけです」

 本当は、寝不足だけではなかった。

 身体も、心も、限界に近づいていた。

 しかし、弱音を吐けば、すぐに仕事の話へ戻される。

「今月は、もう少し頑張れば目標に届く」

「直人が動いてくれれば、投資の資金が作れる」

「ここまで来たんだから、途中でやめるのはもったいない」

 それらの言葉は、直人を励ますように聞こえた。

 だが、同時に、立ち止まることを許さない言葉でもあった。

 直人は、仕事をすることで亮のことを忘れようとしていた。

 亮がいなくなったことを考えない。

 実家へ連れて行かれた理由を考えない。

 封筒のことを考えない。

 投資の明細を見られないことを考えない。

 自分がいくら稼いで、いくら家賃を払い、いくら投資に回したのかを考えない。

 ただ、蓮と湊が「投資は続いている」と言う言葉を信じる。

 直人が働いている間にも、どこかで資金が動き、利益が積み上がっている。

 いつか大きな金額になり、そのときにはすべてが報われる。

 直人は、その未来を信じることで、今の生活に耐えた。

 ある日、配達の途中で、直人は亮の実家の近くを通った。

 ナビに表示された住所を見た瞬間、胸が詰まった。

 そこから少し行けば、亮の家がある。

 亮がいるかもしれない。

 会えるかもしれない。

 あの日から何があったのか、聞けるかもしれない。

 直人は、車を止めようとした。

 しかし、次の配達時間が迫っていた。

 蓮からメッセージが届いた。

〈次の時間指定、遅れるなよ〉

 直人は、画面を見つめた。

 亮の家へ行くか。

 配達へ向かうか。

 直人は、ハンドルを握り直した。

 そして、亮の家の前を通り過ぎた。

 仕事へ向かった。

 その日の夜、亮からメッセージが来た。

〈今日、近くを通った?〉

 直人は、しばらく返信できなかった。

〈配達で通っただけだよ〉

〈寄ってくれればよかったのに〉

 その文章を見て、直人の胸が痛んだ。

 会いたかった。

 話したかった。

 しかし、会えば、今まで押し殺していた疑問が一気に噴き出す気がした。

 亮の件。

 封筒の行方。

 投資の明細。

 自分の口座。

 共同生活。

 直人は、それらを考えることが怖かった。

〈また今度〉

 直人は、そう返信した。

 それから、スマートフォンを伏せた。

 また今度。

 その言葉は、四年間、何度も繰り返されてきた。

 また今度話す。

 また今度会う。

 また今度確認する。

 しかし、その“また今度”は、いつも来なかった。

 四年目の冬、直人は、ある夜に珍しく配達を休んだ。

 身体が限界だった。

 朝から頭が重く、手に力が入らない。

 運転中、何度も眠気に襲われた。

 このまま続ければ事故を起こす。

 そう思い、蓮へ連絡した。

〈今日は休む〉

 すぐに返信が来た。

〈今月の売上が足りなくなる〉

〈身体がもたない〉

〈一日くらいなら何とかなる〉

〈今日は無理だ〉

 しばらくして、蓮から電話がかかってきた。

「直人、何があった?」

「身体が限界なんだ」

「無理するなとは言ってるだろ」

「でも、休むと売上が足りない」

「だからこそ、今月だけ頑張ればいい」

「今月だけって、何年言ってる?」

 電話の向こうが静かになった。

 直人は、自分が初めて言い返したことに気づいた。

「亮がいなくなってから、ずっと今月だけって言われてきた」

「そのうち投資がうまくいく」

「そのうち利益が出る」

「そのうち楽になる」

「でも、四年経っても、俺はおにぎり二個で働いてる」

「直人、感情的になるな」

「俺は、自分の口座も見られない」

「管理の都合だ」

「自分がいくら稼いだのかも、いくら家賃を払ったのかもわからない」

「全部、必要なところに使っている」

「何にいくら使った?」

 蓮は答えなかった。

「明細を見せてくれ」

「今は整理中だ」

「いつ整理が終わる?」

「直人、投資は長期で見るものだ」

「投資の話じゃない」

「じゃあ何だよ」

「俺の人生の話だ」

 電話が切れた。

 直人は、暗い部屋の中で、スマートフォンを握ったまま座っていた。

 四年間、直人は、自分の人生を誰かに預けていた。

 自分は働く。

 蓮と湊が管理する。

 投資は続いている。

 家賃は払われている。

 その言葉だけを信じていた。

 しかし、信じることと、何も確認しないことは違う。

 任せることと、すべてを手放すことも違う。

 直人は、初めてその違いを理解した。

 直人は、古いスマートフォンを引き出しから取り出した。

 過去のメールを探す。

 給料の通知。

 配達の売上。

 振込完了の連絡。

 借入の明細。

 蓮や湊から送られてきたメッセージ。

 亮との会話。

 ひとつずつ確認していく。

 最初の年。

 投資を始めた頃。

 二年目。

 亮が実家へ戻った頃。

 三年目。

 直人の口座情報が変更された頃。

 四年目。

 配達の売上が増え、手元の金が減っていった頃。

 直人は、紙に数字を書き出した。

 収入。

 家賃。

 生活費。

 借金の返済。

 投資資金。

 経費。

 確認できない金額。

 数字は、きれいにはつながらなかった。

 記憶と履歴が合わない。

 口頭で説明された額と、実際に振り込んだ額が違う。

 家賃として払ったと言われた金額も、直人には支払いの証拠がなかった。

 投資に回したはずの金も、どの口座に入ったのか、明確な記録が見つからない。

 直人は、紙の上に残った空白を見つめた。

 空白は、小さなものではなかった。

 四年間という時間の一部が、数字のないまま消えている。

「俺は、何のために働いたんだ」

 直人は、ひとりで呟いた。

 その問いに答える者はいなかった。

 直人は、亮へ電話をかけた。

 何度か呼び出し音が鳴ったあと、亮が出た。

「もしもし」

「直人?」

「ああ」

「どうした?」

「四年間の記録を確認している」

 亮は、しばらく黙った。

「俺も、最近調べてる」

「何かわかった?」

「まだ全部じゃない。でも、俺が思っていたより、振り込んだ金額が大きい」

「俺もだ」

「残っているはずの金額と、説明されていた金額が合わない」

 直人は、目を閉じた。

「封筒は?」

「まだ見つかっていない」

「そうか」

「あの封筒には、振込日と金額を書いていたんだろ?」

「うん。口座の記録と、蓮たちから聞いた説明をまとめていた」

「誰かを疑っていたのか?」

「わからない」

 亮の声は、静かだった。

「ただ、自分がいくら出したのか、どこへ行ったのか、知りたかった」

 直人の胸が痛んだ。

 それは、自分も同じだった。

「俺たちは、もっと早く確認すべきだったな」

 直人が言うと、亮は少し息を吐いた。

「でも、怖かった」

「うん」

「聞いたら、仲間を疑っていると思われる」

「俺も、ずっとそう思ってた」

「だから、戻れなかった」

 亮は、そう言った。

「戻ったら、また同じように、何もわからないまま金を出すことになると思った」

 直人は、返事ができなかった。

 亮がいなくなったあと、直人は、亮を置いて自分だけが残ったような気持ちになっていた。

 しかし、本当は違った。

 亮は先に離れた。

 直人は、離れられないまま、働き続けた。

 その違いだけだった。

「直人は、まだあの部屋にいるのか?」

 亮が聞いた。

「いる」

「まだ投資を続けている?」

「わからない」

「わからないのに?」

「続いていると信じてきた」

「四年間?」

「ああ」

 亮は、しばらく黙った。

「直人、もう一度、自分の生活を見たほうがいい」

「うん」

「金額じゃなくて、毎日のことも」

 直人は、窓の外を見た。

 配達。

 夜の仕事。

 おにぎり二個。

 必要最低限の給油。

 睡眠不足。

 自分で使える金のない生活。

 亮のことを考えないための仕事。

 投資がうまくいっていると信じるための仕事。

 自分の欲求を押し殺すための仕事。

 直人は、ようやく、自分の毎日が普通ではなかったことに気づき始めた。

「また会って話そう」

 直人が言った。

「うん」

「今度は、ちゃんと話す」

 電話を切ったあと、直人はノートを開いた。

 ページの一番上に、こう書いた。

〈四年間の収支〉

 その下に、もう一つ書いた。

〈自分の時間〉

 そして、最後に書いた。

〈自分の人生〉

 直人は、翌日からも配達へ出た。

 週7日の生活を、すぐに変えることはできなかった。

 家賃も、借金も、生活費も残っている。

 働かなければならない。

 自分で稼がなければならない。

 しかし、以前とは違った。

 ただ身を粉にして働くのではなく、働いた金を自分で記録する。

 経費を確認する。

 生活費を確保する。

 自分の口座を取り戻すために動く。

 投資の明細を求める。

 共同生活を続ける必要があるのか、考える。

 そして、亮のことを忘れるためではなく、きちんと向き合うために、連絡を取る。

 直人は、車へ乗り込む前に、コンビニへ入った。

 いつものように、おにぎりを二個手に取る。

 そこで、一瞬だけ立ち止まった。

 今日は、温かい弁当も買った。

 味噌汁も買った。

 合計金額を見て、少し迷った。

 しかし、財布から自分のお金を出した。

 誰かに許可を取ることなく、自分で選んだ。

 車内で弁当を食べる。

 温かいご飯が、身体に染みた。

 直人は、その感覚に驚いた。

 自分は、こんな簡単なことまで我慢していた。

 食べたいものを食べる。

 休みたいときに休む。

 会いたい人に会う。

 自分の金を自分で確認する。

 それは、特別な望みではなかった。

 ただ、当たり前の欲求だった。

 直人は、その当たり前のものを、四年間押し殺していた。

 仕事が始まる時間になった。

 直人は、エンジンをかけた。

 ナビが、最初の配達先を案内する。

 四年間、直人は走り続けた。

 しかし、どこへ向かっているのかを考えなかった。

 今日からは違う。

 自分がどこへ向かうのか、自分で考える。

 仕事を続けるか。

 投資を続けるか。

 共同生活を続けるか。

 亮と会うか。

 そのすべてを、自分で決める。

 遠回りしてもいい。

 止まってもいい。

 道を変えてもいい。

 それは、誰かに許可されるものではない。

 直人自身が決めることだった。

 車を走らせる。

 朝の道路は混雑している。

 配達先はまだ遠い。

 身体は重い。

 それでも、直人は以前のように、何も考えず急ぐことはなかった。

 働くことは必要だ。

 自分で稼ぐことも必要だ。

 しかし、働くことで疑問から逃げてはいけない。

 働くことで、自分自身を消してはいけない。

 直人は、次の信号で車を止めた。

 スマートフォンを開き、銀行へ問い合わせるための番号を確認した。

 それから、再び前を向く。

 投資が本当に続いているのか。

 家賃はいくら払われたのか。

 自分はいくら稼ぎ、いくらを渡してきたのか。

 亮がいなくなった朝、何が起きていたのか。

 四年間の空白には、まだ多くの謎が残っている。

 しかし、直人はもう、その空白を仕事で埋めようとはしなかった。

 ひとつずつ、事実を確認する。

 わからないものを、わからないままにしない。

 自分の生活を、自分の手へ戻す。

 そのために、直人は今日も配達へ向かった。

 週7日の配達。

 自分で稼ぐため、限界まで働く。

 その日々は、まだ終わらない。

 けれど、直人が働く理由は、少しずつ変わり始めていた。

 誰かの投資を支えるためではない。

 亮の不在を忘れるためでもない。

 疑問を押し殺すためでもない。

 自分の生活を守り、自分の金を確かめ、自分の未来を選ぶために働く。

 直人は、ハンドルを握り直した。

 長く続いた空白の先へ向かって、車を走らせた。

いいなと思ったら応援しよう!

ベラミー@副業研究所 よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!