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『孤軍奮闘 ― 奪われた八年を取り戻すまで ―』2

第二部 四人の家出

― 仲間と共同生活を始める ―

 家を出ると決めた日の朝、相馬直人は、実家の自分の部屋を見回していた。

 部屋と呼ぶには、あまりにも物が少なかった。

 壁際には、何年も使っている小さな棚があり、その上に香水や整髪料が並んでいる。夜の仕事へ行くための黒いシャツと細身のパンツは、ハンガーに掛けられたままだった。床には、昨夜脱いだ靴下が片方だけ落ちている。

 ベッドの上には、これから持っていく予定のボストンバッグが置かれていた。

 中に入っているのは、数着の服、下着、充電器、財布、身分証、仕事用の靴。それだけだった。

 人生を変えるために家を出るというのに、荷物は驚くほど少なかった。

 直人は、ベッドの端に腰を下ろした。

 窓の外には、見慣れた住宅街が広がっている。通学途中の学生が歩き、近所の家から掃除機の音が聞こえ、遠くで車が走っている。

 いつもと変わらない朝だった。

 ただ、直人にとっては、もう二度と同じには見えない朝だった。

「本当に行くんだな」

 背後から声がした。

 振り返ると、部屋の入り口に高校時代からの友人、高瀬亮が立っていた。

 亮は、直人より少し背が低く、寝起きの髪を手で乱暴に直していた。彼もまた、まともな荷物を持っていない。大きなリュックの中に、衣類を適当に詰め込んだだけに見えた。

「行くって言っただろ」

「いや、言ってたけどさ。こうやって荷物を見ると、なんか本当に家出みたいだな」

「家出みたいじゃなくて、家出だろ」

 直人がそう言うと、亮は笑った。

 その笑い声は、普段と何も変わらなかった。

 高校時代、二人は何度もくだらないことで笑った。先生に怒られ、亮の父親に怒鳴られ、それでも翌日には何事もなかったようにまた遊んだ。

 直人にとって亮は、友人という言葉だけでは足りない存在だった。

 兄弟に近かった。

 だからこそ、今回の話にも迷いなく乗った。

 直人が夜の仕事を終えたあと、何度も通話をした。

 話題はいつも同じだった。

 金の話。

 起業の話。

 投資の話。

 今の生活から抜け出す話。

 その話を持ち込んだのは、桐谷蓮だった。

 蓮は直人が働く店に顔を出すようになった男で、投資やビジネスについて、まるで何年も前から成功している人間のように話した。

「働いて稼ぐだけじゃ限界がある」

 蓮は、いつもそう言っていた。

「自分の時間を切り売りするんじゃなくて、金に働かせるんだよ」

 その言葉を聞いたとき、直人は胸の奥を掴まれたような気がした。

 月給三十万円。

 暮らすには困らない。

 だが、何年働いても、人生が大きく変わる気はしなかった。

 家賃を払い、食費を払い、遊びに使い、残ったお金はいつの間にかなくなる。

 貯金はなかった。

 正確に言えば、貯金をしようと考えたことすら、ほとんどなかった。

 それでも、直人には自分が遅れているような感覚があった。

 同年代の誰かが車を買い、結婚し、家を買い、事業を始める。

 自分は夜の街で、誰かの酒を作り、誰かの機嫌を取り、誰かの一日を終わらせる。

 そんな毎日を、永遠に続けたくはなかった。

「蓮たち、もう駅に着いてるって」

 亮がスマートフォンを見ながら言った。

「じゃあ行くか」

 直人はボストンバッグを肩に掛けた。

 部屋を出る前に、もう一度だけ振り返った。

 ここで過ごした時間に、特別な思い出があるわけではない。

 それでも、何もかもが自分の知っている場所だった。

 帰れば、いつでも誰かがいる。

 食事が用意されている日もある。

 洗濯物が畳まれていることもある。

 その安心を捨ててまで、何を得られるのかはわからなかった。

 ただ、わからないからこそ、行くしかないと思った。

 ドアを閉めると、部屋の空気が途切れた。

 外に出ると、春先の風が冷たかった。

 直人と亮は、駅まで歩いた。

 大きな荷物を持っているせいか、普段より歩幅が狭くなる。駅前のコンビニで飲み物を買い、二人で一本ずつ持った。

「なあ、直人」

「何だよ」

「本当に、俺たちで会社とか作れるのかな」

 亮が、珍しく弱気な声を出した。

 直人は少し考えた。

 正直に言えば、自分にもわからなかった。

 会社を作る方法など知らない。

 必要な資金も、手続きも、経営の仕組みもわからない。

 それでも、蓮が話す未来は、あまりにも鮮明だった。

 数年後には、自分たちで事業を持っている。

 投資で資金を増やしている。

 誰かに雇われるのではなく、自分たちが人を雇っている。

 自由な時間を持ち、好きな場所に住み、好きなものを買う。

 聞いているだけで、今の生活が小さく見えた。

「作れるかどうかじゃなくて、作るんだろ」

 直人は言った。

「そのために出るんだから」

「そうだな」

 亮は頷いた。

 けれど、その横顔には、まだ不安が残っていた。

 駅前には、蓮と三浦湊が待っていた。

 湊は蓮の友人で、直人にとっては数回会ったことがある程度だった。口数が少なく、いつもスマートフォンを見ている。蓮が投資の話をするとき、湊は横で相場の画面を開き、数字を確認していた。

「遅い」

 蓮が言った。

「家を出るのに時間がかかったんだよ」

 直人が答える。

「まあいい。部屋はもう決まってるから」

「どんな部屋?」

 亮が尋ねると、蓮はスマートフォンの画面を見せた。

 駅から徒歩十分ほどの場所にある、築年数の浅い1LDK。

 写真には、白い壁と木目調の床、広そうなリビングが写っていた。

「これ、1LDKだろ。4人で住むの?」

「最初はな」

 蓮は簡単に答えた。

「家賃は?」

「十万円ちょっと。4人なら一人三万円もいかない」

「初期費用は?」

 直人が聞くと、蓮は一瞬だけ黙った。

「そこは亮が何とかする」

 亮の顔から、笑みが消えた。

「俺が?」

「お前、借りられるって言ってただろ」

「いや、借りられるかもしれないって話で……」

「でも、もう申し込んだんだよ」

 蓮の言葉に、直人は違和感を覚えた。

 しかし、ここで引き返すという選択肢は、誰の頭にもなかった。

 亮はしばらく黙っていたが、やがてスマートフォンを取り出した。

 その日の夜、亮は消費者金融から100万円を借りた。

 手続きを終えたあと、彼は駅前のベンチに座り、画面を見つめていた。

「これで、本当に始まるんだよな」

 亮が言った。

 直人は答えられなかった。

 100万円という数字が、あまりにも大きく感じられた。

 だが、蓮と湊は、その金額をまるで事業を始めるための必要経費のように扱っていた。

「最初に必要な金を作っただけだろ」

 蓮は言った。

「この先、増やせばいい」

 その言葉に、亮は小さく頷いた。

 直人も頷いた。

 そのとき、誰も知らなかった。

 その100万円が、4人の共同生活を始めるための資金ではなく、最初から重くのしかかる借金になることを。

 部屋に入った初日、4人は近所のスーパーへ買い出しに行った。

 予算は限られていた。

 米、卵、もやし、玉ねぎ、鶏肉、インスタント味噌汁。

 直人は買い物かごを持ち、亮は値札を確認していた。

 蓮は、調味料をいくつか手に取った。

「これ、高くない?」

「料理するなら必要だろ」

「最初は塩と醤油があればいい」

 湊が横から言った。

 結局、安い食材だけを買った。

 レジに並んでいるとき、直人は妙に嬉しかった。

 自分たちで選んだ食材。

 自分たちで借りた部屋。

 自分たちで始める生活。

 実家にいたときは、食事が出てくることを当たり前だと思っていた。

 しかし、4人分の食材を買うと、それだけで財布の中身が目に見えて減っていく。

 買い物袋を持って部屋へ戻る道で、亮が言った。

「今日、俺が作るよ」

「料理できるのか?」

「焼くくらいならできる」

「それは料理なのか?」

 直人が笑うと、亮も笑った。

 狭いキッチンで、亮は鶏肉を焼いた。

 フライパンに油を引き、肉を並べる。

 ジュッという音とともに、部屋中に匂いが広がった。

 蓮はリビングの床に座り、相場の画面を見ている。

 湊も隣で、何かの数字を計算していた。

 直人は、炊飯器のスイッチを押した。

 しばらくして、4人は床に座って食べた。

 テーブルはまだなかった。

 コンビニでもらった箸を使い、紙皿にご飯を盛った。

「こういうのも悪くないな」

 亮が言った。

「何が?」

「みんなで暮らして、みんなで飯食ってさ。これから金も増えていくんだろ。だったら、今は少しくらい貧乏でもいい」

 蓮は、鶏肉を口に入れながら笑った。

「貧乏なのは今だけだよ」

「そうだな」

 直人も頷いた。

 その夜、4人は遅くまで話した。

 どんな会社を作るか。

 どこに事務所を構えるか。

 何年後にいくら稼ぐか。

 成功したら、どんな車に乗るか。

 高い時計を買うか。

 海外へ行くか。

 家族に何を買ってあげるか。

 話はどんどん大きくなった。

 現実には、100万円の借金があり、部屋の契約費用があり、冷蔵庫の中身はほとんど空だった。

 それでも、夢を語っている間だけは、不安を感じずにいられた。

 夜が深くなると、4人はそれぞれの場所で眠った。

 直人はリビングの隅に敷いた布団に横になった。

 隣には亮がいる。

 少し離れた場所で、湊が寝返りを打った。

 蓮は、まだスマートフォンを見ている。

 暗い部屋の中で、画面の光だけが彼の顔を照らしていた。

「直人」

 蓮が小さな声で呼んだ。

「起きてる?」

「起きてる」

「俺たち、絶対に成功するから」

「何で?」

「何でって……普通の奴らとは違うからだよ」

 蓮はそう言った。

「普通の奴らは、毎日会社に行って、給料をもらって、家賃を払って、死ぬまでそれを繰り返す。でも俺たちは違う。今は何もないけど、これから変えるんだよ」

 直人は天井を見た。

 白い天井に、街灯の光が薄く映っていた。

「そうだな」

 直人は答えた。

「俺たちは、これから変わる」

 その言葉を口にした瞬間、直人の胸の中に熱が生まれた。

 実家を出た。

 仲間と暮らし始めた。

 これまでの自分とは違う選択をした。

 借金はある。

 貯金はない。

 何をすれば成功できるのかもわからない。

 それでも、もう戻るつもりはなかった。

 翌朝から、直人は仕事へ向かった。

 夜の街で働き、帰宅すると、部屋には誰かがいる。

 それまでの家とは違う。

 壁の向こうに家族はいない。

 キッチンには、昨夜使った鍋が置かれている。

 洗面所には、4人分の歯ブラシが並んでいる。

 冷蔵庫には、誰かが買った飲み物が入っている。

 自分の生活と、他人の生活が混ざっていた。

 最初のうちは、それが新鮮だった。

 誰かが帰ってくると、「おかえり」と言う。

 誰かが出かけると、「行ってらっしゃい」と言う。

 疲れて帰ってくれば、誰かがリビングにいる。

 孤独ではなかった。

 少なくとも、最初のうちは。

 数日が経つと、生活の細かな違いが見えてきた。

 食器を洗う人と、洗わない人。

 ゴミを出す人と、放置する人。

 家賃を気にする人と、気にしない人。

 働いて帰る人と、家で過ごす人。

 それでも、直人は深く考えなかった。

 夢を実現するには、多少の不便は仕方ない。

 今は始まったばかりだ。

 まだ準備期間だ。

 そう思っていた。

 毎月の生活費は、直人と亮が働いて稼いだお金から支払われた。

 蓮と湊は、投資に集中している。

 最初の頃、直人はその役割分担を合理的だと思っていた。

 自分たちは働く。

 2人は増やす。

 4人で稼いだお金が増えていけば、誰も不満を持たずに済む。

 だが、投資の結果について、詳しい説明を受けることはなかった。

 蓮は、「今はいい感じ」と言った。

 湊は、「まだ動かす時期じゃない」と言った。

 直人は、それ以上聞かなかった。

 聞くことが、仲間を疑うことになる気がしたからだ。

 自分たちは、同じ夢を見ている。

 同じ部屋で暮らしている。

 同じ食卓を囲んでいる。

 だから、大丈夫だと思った。

 4人で始めた生活は、まだ形になっていなかった。

 事業もない。

 貯金もない。

 確かな利益もない。

 あるのは、借金と、安い食材と、夜遅くまで続く夢の話だけだった。

 それでも、直人は信じていた。

 この部屋から、何かが始まる。

 いつか自分たちは、ここで過ごした日々を笑って振り返る。

「あの頃は、4人で狭い部屋に住んでいたな」

 そう言いながら、成功した未来を語る日が来る。

 直人は、そう思っていた。

 そのときの自分はまだ知らなかった。

 夢を共有することと、人生を預けることは違う。

 仲間を信じることと、自分の責任を手放すことも違う。

 そして、何よりも。

 人は、同じ部屋で暮らしているからといって、同じ未来を見ているとは限らない。

 部屋の中には、4人分の布団が並んでいた。

 4人分の靴が玄関に置かれていた。

 4人分の夢が、同じ天井の下で語られていた。

 しかし、その夢の中で、自分の人生を握っていたのは誰だったのか。

 直人がその問いに気づくのは、まだ先のことだった。

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