見出し画像

『孤軍奮闘 ― 奪われた八年を取り戻すまで ―』5

第五部 朝、親が来た

― 親友が実家へ連れて行かれて共同生活が崩壊する ―

 その朝、相馬直人は、誰かに名前を呼ばれる夢を見ていた。

 遠くから、何度も呼ばれている。

 直人。

 直人。

 起きろ。

 夢の中で、直人は夜の街を歩いていた。

 看板の明かりが滲み、濡れた道路に赤や青の光が伸びている。店の前には、酔った客が何人も立っていた。誰かが笑い、誰かが怒鳴り、誰かがスマートフォンを片手に誰かへ電話をかけている。

 直人は、その人混みの中で、ひとりの男を探していた。

 背中しか見えない。

 黒いパーカー。

 見慣れた歩き方。

 高校時代から知っている、あの男。

 直人が追いかけようとすると、足元に何かが落ちていることに気づいた。

 それは、茶色い封筒だった。

 拾い上げる。

 中には、何枚かの紙と、見覚えのない鍵が入っていた。

 鍵を見た瞬間、背後から大きな音がした。

 ドアを叩く音だった。

 ドンドン、という低い音が、夢の中ではなく現実のものとして響いた。

 直人は、布団の中で目を開けた。

 部屋は薄暗かった。

 カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。

 隣の布団では、三浦湊が背中を向けて眠っていた。

 リビングのソファには、桐谷蓮が横になっている。

 高瀬亮の布団だけが、少し離れた場所で乱れていた。

 また、ドアを叩く音がした。

 今度は、夢ではなかった。

「誰だよ、こんな朝に……」

 蓮が眠そうな声を出した。

 湊も身を起こした。

 直人は時計を見た。

 午前八時過ぎ。

 普段の4人の生活からすれば、まだ夜の続きのような時間だった。

 夜職の仕事から朝方に帰り、昼過ぎまで眠る。

 昼夜逆転した生活の中で、午前8時に訪ねてくる人間はほとんどいない。

 再び、ドアを叩く音が響いた。

「亮、いるんだろ」

 男の声だった。

 低く、張り詰めている。

 直人は、その声を聞いた瞬間、胸の奥に冷たいものを感じた。

 知っている声だった。

 高瀬亮の父親。

 高校時代、直人たちが馬鹿なことをするたびに、何度も怒鳴られた声。

 玄関先で腕を組み、険しい顔で息子を睨みつけていた男。

 あの頃よりも、声が低く聞こえた。

「親父……」

 亮が、いつの間にか起きていた。

 布団の上で、顔を青くしている。

「どうしてここが……」

「お前が言ったんだろ」

 蓮が言った。

 亮は、何も答えなかった。

 ドアを叩く音が、もう一度響く。

「亮。いるなら開けろ」

 直人は立ち上がった。

 足元に置かれていた服を拾い、適当に着る。

「俺が出る」

「待って」

 亮が直人の腕を掴んだ。

「俺が話す」

「でも、お前の親父だろ」

「だから、俺が出る」

 亮は、震える手で立ち上がった。

 その顔には、眠気など残っていなかった。

 玄関まで歩く間、誰も口を開かなかった。

 靴が乱雑に並んでいる。

 直人の靴、亮のスニーカー、湊のサンダル、蓮の革靴。

 4人分の靴が、狭い玄関に重なっていた。

 亮は、チェーンを外した。

 ドアを少しだけ開く。

「親父……」

「亮」

 廊下に立っていたのは、亮の父親と、母親だった。

 父親は以前より痩せて見えた。

 髪には白いものが増えている。

 母親は、両手でバッグの持ち手を握り、心配そうに息子を見つめていた。

「何で連絡を返さない」

「寝てたんだよ」

「電話を何度もした」

「仕事が……」

「仕事の話をしているんじゃない」

 父親の視線が、亮の背後へ移った。

 狭い玄関。

 散らかった部屋。

 床に敷かれた布団。

 空になったペットボトル。

 ソファの上で、蓮が立ち上がる。

 湊は、黙ってその様子を見ていた。

「中へ入ってもいいか」

 父親が言った。

 亮は答えられなかった。

 直人は、黙ってドアを開けた。

 亮の両親が部屋へ入る。

 母親は、足元の荷物を避けながら、息子の布団のそばへ歩いた。

「亮、顔色が悪いわ」

「大丈夫だよ」

「大丈夫な人間が、何日も電話に出ないの?」

 亮は、目を伏せた。

 直人は、玄関の近くに立ったまま、その様子を見ていた。

 昔と同じだった。

 亮は、父親に怒られると、必ず視線を下げる。

 何を言われても反論せず、ただ口を閉じる。

 高校時代、何度も見た光景だった。

 ただ、あの頃と違うのは、亮の後ろにあるものだった。

 今の亮には、借金がある。

 仕事も安定していない。

 仲間と暮らしている部屋には、毎月大きな家賃がかかる。

 そして、何か言葉にできない問題を抱えている。

 父親は、部屋を見回した。

「ここで、4人で暮らしているのか」

「そうだよ」

 亮が答えた。

「家賃はいくらだ」

「4人で割ってるから、大丈夫」

「大丈夫かどうかを聞いている」

「父さんには関係ないだろ」

 その言葉に、父親の表情が変わった。

 怒りというより、傷ついたように見えた。

「関係ない?」

 父親は、低い声で繰り返した。

「お前が何をしているのかもわからず、何度連絡しても返事がない。突然、こんな部屋で知らない人間と暮らしている。関係ないと言うのか」

 亮は黙った。

 直人は、胸が苦しくなった。

 亮の父親の言葉には、責める気持ちだけではなく、恐怖が含まれていた。

 息子がどこへ行ったのかわからない。

 何に巻き込まれているのかわからない。

 助けようにも、本人が何も話さない。

 その恐怖だった。

「今日は、亮を連れて帰る」

 父親が言った。

「は?」

 蓮が声を上げた。

「いきなり何を言ってるんですか」

「亮のことは、家族で話す」

「もう子どもじゃないですよ」

「子どもじゃないなら、自分の生活を自分で説明しろ」

 蓮の口が止まった。

 父親は、亮を見た。

「荷物をまとめろ」

「俺は帰らない」

 亮が言った。

 その声には、弱々しいが、抵抗する意思があった。

「帰るかどうかをお前ひとりで決められる状態に見えるか」

「俺は大丈夫だ」

「何が大丈夫なんだ」

「ちゃんと仕事もしてる」

「金はあるのか」

 亮は答えなかった。

 沈黙が、答えの代わりになった。

 父親は、その沈黙を見て、目を閉じた。

「財布を見せろ」

「嫌だよ」

「見せろ」

「何でだよ」

「お前が、本当に自分の生活を管理できているのか確認する」

 亮は、ポケットから財布を出した。

 中には、数枚の紙幣と小銭しか入っていなかった。

 母親が息を呑んだ。

「亮……」

「給料日前なんだよ」

「給料日前だからって、これでどうやって生活するの」

「何とかなる」

「その“何とかなる”を、何回聞いたと思ってる」

 父親の声が、少し震えた。

 直人は、亮の財布を見ていた。

 自分の財布にも、大した金は入っていない。

 しかし、直人はそれを誰にも見せたくなかった。

 自分たちは、成功へ向かっている。

 そう思っていなければ、今の生活を続けることなどできなかった。

 父親は、部屋の隅に置かれた段ボールへ近づいた。

「これは亮の荷物か」

「そう」

「持って帰る」

「全部?」

「必要なものだけでいい」

 亮は、しばらく動かなかった。

「親父、俺は逃げるわけじゃない」

「逃げているように見える」

「ここで、みんなでやってるんだよ」

「何をやっている」

「投資とか、仕事とか」

「説明してみろ」

 亮は、口を開いた。

 しかし、言葉が出てこなかった。

 FX。

 運用。

 資金。

 起業。

 共同生活。

 そのどれを説明しても、自分が何をしているのか、うまく伝えられない気がした。

 父親は、亮の沈黙を見て、直人へ視線を向けた。

「君は、相馬くんか」

「はい」

「亮とは高校からの友人だったな」

「そうです」

「君たちは、この生活をどう考えている」

 直人は、答えに迷った。

 正しいことを言おうとすれば、何も言えない。

 うまくいっていると答えれば、嘘になる。

 うまくいっていないと答えれば、4人の生活を否定することになる。

「俺たちは、これから事業を始めるつもりで……」

「つもり?」

 父親が言葉を返した。

「仕事は決まっているのか」

「俺は夜の仕事をしています」

「亮は?」

「コンビニで働いています」

「投資をしているのは誰だ」

 直人は、蓮と湊を見た。

 蓮は腕を組んでいる。

 湊は、何も言わずにスマートフォンを見ていた。

「この二人が、FXを」

「利益は出ているのか」

 直人は答えられなかった。

 父親の顔が、ますます険しくなる。

「亮は、借金をしている」

 突然、父親が言った。

 亮の肩が跳ねた。

「何でそれを……」

「通知が実家に届いた」

 父親は、封筒を取り出した。

「お前宛てのものが届いていた。勝手に開けたわけじゃない。宛名を見て、何度も連絡した」

 亮は、封筒を見つめた。

「俺が返す」

「どうやって」

「働いて返す」

「その給料で、家賃を払って、生活費を出して、借金も返すのか」

「だから、これから増やすんだよ」

「何を」

「投資で……」

 亮の声は、最後まで続かなかった。

 父親は、蓮を見た。

「君たちが、亮に投資を勧めたのか」

 蓮は、ゆっくり首を振った。

「勧めたというか、本人も納得して参加しています」

「参加?」

「4人でやっている事業のようなものです」

「事業なら、契約書はあるのか」

 蓮は、答えなかった。

「利益の配分は」

「それは、これから」

「資金の管理者は」

「みんなで話し合って……」

「口座を管理しているのは誰だ」

 父親の質問に、部屋の空気が変わった。

 直人は、無意識に自分のスマートフォンを握った。

 父親は、その反応を見逃さなかった。

「口座を、誰かに預けているのか」

「預けているというか……運用を任せているだけです」

 直人が答えた。

「同じことだ」

 父親は言った。

「君たちは、いくらのお金を、誰に、どんな条件で任せている」

 4人は黙った。

 直人の胸の中で、嫌な感覚が広がっていった。

 これまで、誰も正確な数字を一度に並べたことがなかった。

 直人はいくら出したのか。

 亮はいくら出したのか。

 利益はいくらなのか。

 損失はいくらなのか。

 今、どこにお金があるのか。

 それらは、すべて曖昧だった。

 その曖昧さを、4人は信頼と呼んでいた。

 父親は、リビングの棚に置かれていた封筒へ目を向けた。

「それは何だ」

 湊の顔が変わった。

「触らないでください」

 父親は、封筒へ手を伸ばさなかった。

 ただ、そこに視線を向けていた。

 封筒は薄い茶色だった。

 表面には何も書かれていない。

 直人は、それを見たことがなかった。

「何の封筒だ?」

 直人が尋ねた。

「運用関係の書類」

 湊が答えた。

「どうして、そんなところに置いてあるんだ?」

「後で整理する予定だった」

 蓮が言った。

 父親は、封筒から視線を外した。

「亮。荷物をまとめろ」

「親父、待ってくれ」

「待たない」

「俺は、ここでやることがある」

「お前が今やることは、家へ帰って、借金と生活の話をすることだ」

「俺だけ帰ったら、みんなが困る」

「みんな?」

 父親は、ゆっくり部屋を見回した。

「君がいなくなったら困る生活なら、最初から成立していない」

 その言葉は、直人の胸にも突き刺さった。

 亮は、段ボールへ向かった。

 服を詰める。

 充電器を探す。

 洗面所から歯ブラシを取る。

 動作のひとつひとつが、別れの準備に見えた。

 直人は、何も手伝えなかった。

 手伝えば、亮を送り出すことを認めるような気がした。

「直人」

 亮が呼んだ。

「何?」

「俺のスマホ、充電器知らない?」

「ベッドの横じゃないか」

「ああ、あった」

 亮は、充電器をバッグへ入れた。

 それから、部屋を見回した。

 高層階の窓。

 大きなソファ。

 4人分の生活用品。

 ここで過ごした半年間が、短い時間のようにも、長い時間のようにも感じられた。

「俺、戻ってくるから」

 亮が言った。

 誰に向けた言葉なのか、わからなかった。

 直人に向けたのか。

 蓮や湊に向けたのか。

 それとも、自分自身に言い聞かせたのか。

「すぐ戻れるよ」

 蓮が言った。

「親と話して、落ち着いたら帰ってくればいい」

 亮は、頷いた。

 だが、その目には不安があった。

 直人は亮の荷物を持とうとした。

「俺が持つ」

「いいよ、自分で持てる」

「でも……」

「大丈夫だって」

 亮は笑った。

 その笑顔は、高校時代のものと同じだった。

 怒られた後に見せる、何でもないふりの笑顔。

 直人は、その笑顔を見て、余計に苦しくなった。

 玄関へ向かう途中、亮が突然足を止めた。

「そういえば、俺の封筒知らない?」

「封筒?」

 直人が聞く。

「茶色いやつ。借入の明細とか、仕事関係の書類を入れてた」

「それなら、棚にあるんじゃないか?」

「いや、棚にはない」

 亮は、部屋の中を見回した。

「前は、リビングの棚の上に置いたはずなんだけど」

 直人は、先ほど湊が見ていた茶色い封筒を思い出した。

「そこにあるやつじゃないのか?」

 直人が指を向ける。

 湊は、すぐに封筒を手に取った。

「これは俺のだ」

「同じ茶色じゃないか」

「中身が違う」

「見せてくれよ」

 直人が近づくと、湊は封筒を胸元へ引いた。

「今、整理してるところだから」

 亮が言った。

「俺の封筒かもしれない。中を確認させてくれ」

「だから違うって」

 湊の声が強くなった。

 部屋の空気が硬くなる。

 亮の父親も、湊を見ていた。

「亮のものかどうか、確認すれば済む話ではないのか」

 湊は答えなかった。

 蓮が割って入った。

「書類が混ざってるだけです。大したことじゃない」

「大したことがないなら、なぜ確認しない」

 父親の声は冷静だった。

 その冷静さが、逆に怖かった。

 湊は、封筒をテーブルの下へ置いた。

「今は、亮が帰る準備をするのが先だろ」

「その前に、確認したい」

 亮は、封筒を見つめていた。

「それ、俺のじゃないのか?」

「違う」

「中を見せてくれ」

「だから違うって言ってるだろ」

 湊の苛立ちが、部屋に広がった。

 蓮が湊の肩に手を置く。

「落ち着け」

「俺は落ち着いてる」

 直人は、誰もが何かを隠しているように感じた。

 亮は、自分の封筒がなくなったと言っている。

 湊は、似た封筒を持っている。

 蓮は、話を終わらせようとしている。

 父親は、そのすべてを見ている。

 ただの取り違えなのか。

 誰かが勝手に移動させたのか。

 そもそも、亮は本当にそこへ置いたのか。

 直人には、判断できなかった。

「亮、もういい」

 父親が言った。

「その書類が必要なら、帰ってから確認する」

「でも……」

「今ここで騒いでも、何も解決しない」

 亮は、湊を見た。

「俺の書類が見つからなかったら、どうするんだ」

「探せばいいだろ」

 湊が言った。

「俺は知らない」

「本当に?」

「疑うのか?」

 その言葉に、湊自身が反応した。

 直人は、以前聞いた言葉を思い出した。

 疑っているのか。

 信じられないのか。

 任せたのは自分だろ。

 それらの言葉は、いつも直人を黙らせてきた。

 しかし今回は、亮の父親がいる。

 亮の生活と、彼の持ち物が関係している。

 いつものように笑って済ませることはできなかった。

「亮、荷物を持て」

 父親が繰り返した。

 亮は、何か言いたそうにしたが、結局黙った。

 母親が、亮のバッグを持った。

 父親は、最後に直人を見た。

「相馬くん」

「はい」

「亮と、連絡を取ってやってくれ」

「もちろんです」

「ただ、君も無理をするな」

 その言葉に、直人は返事ができなかった。

 無理をしている。

 そのことを、誰かに見抜かれた気がした。

 亮の両親が玄関へ向かう。

 亮も後に続いた。

 靴を履く。

 亮のスニーカーが、他の靴の間から消える。

 4人分あった靴が、3人分になる。

 それだけの変化なのに、玄関がひどく広く見えた。

「直人」

 亮が振り返った。

「何だよ」

「俺、戻ってくるから」

「わかってる」

「絶対に戻ってくる」

「だから、わかってるって」

 直人は笑おうとした。

 しかし、顔がうまく動かなかった。

「お前は、ちゃんと寝ろよ」

 亮が言った。

「お前もな」

「俺は実家で寝るから大丈夫」

 亮はそう言って、玄関の外へ出た。

 ドアが閉まる。

 足音が遠ざかる。

 エレベーターの到着を知らせる電子音が聞こえる。

 その後、静寂が戻った。

 直人は、しばらく玄関に立っていた。

 何かを待っているような気分だった。

 亮が戻ってくるかもしれない。

 忘れ物を取りに来るかもしれない。

 冗談だったと言って、また部屋に戻るかもしれない。

 しかし、エレベーターが下へ降りていく音だけが、遠くに聞こえた。

「行ったな」

 蓮が言った。

「ああ」

「まあ、すぐに戻るだろ」

 蓮は、そう言いながらリビングへ戻った。

 湊は、茶色い封筒を持ったまま、黙って立っている。

 直人は、湊を見た。

「その封筒、亮のじゃないのか?」

「違うって言っただろ」

「じゃあ、何が入ってる?」

「仕事の書類」

「見せられないのか?」

「直人まで疑うのかよ」

 湊の顔には、怒りが浮かんでいた。

 直人は、すぐに謝りそうになった。

 しかし、そこで言葉を止めた。

「疑ってるんじゃない。確認したいだけだ」

「同じだろ」

「違う」

「何が違うんだよ」

 湊は、封筒をソファの上へ置いた。

「俺たちは、ずっと直人たちの金を運用してきた。勝ったときは何も言わないくせに、少し損失が出たら、急に全部見せろ、説明しろって言うのか?」

「勝ち負けの話じゃない」

「じゃあ何だよ」

「自分の金がどこにあるのか知りたいんだよ」

 部屋に、直人の声が響いた。

 言った直後、自分でも驚いた。

 それは、これまで何度も心の中で繰り返していた言葉だった。

 自分の金がどこにあるのか知りたい。

 自分が何をしているのか知りたい。

 自分がこれからどうなるのか知りたい。

 湊は、しばらく直人を見ていた。

 やがて、低い声で言った。

「今さらだろ」

「今さらでも、知りたい」

「だったら、最初から任せるなよ」

 また、その言葉だった。

 直人は、拳を握った。

「任せたことと、説明を求めることは別だろ」

 蓮が、二人の間に入った。

「やめろ。朝から揉めても意味がない」

「蓮、お前はどう思ってる?」

 直人が尋ねた。

「何が?」

「亮の封筒がなくなったこと」

 蓮の顔から、わずかに表情が消えた。

「俺は知らない」

「誰かが移動させた可能性は?」

「知らないって言ってるだろ」

「湊が持ってた封筒は?」

「湊のだろ」

「中身を確認したのか?」

「直人、落ち着け」

「俺は落ち着いてる」

 自分でもわかっていた。

 落ち着いてなどいない。

 亮がいなくなったことで、今まで見ないようにしていたものが、一気に目の前へ現れた。

 借金。

 口座。

 投資。

 不透明な資金管理。

 そして、亮が言った封筒の紛失。

 何かが起きている。

 しかし、それが何なのかはわからない。

 それが、余計に怖かった。

 湊は、封筒を手に取った。

「これ以上、俺を疑うなら、出ていく」

 直人は、黙った。

「俺たちは、仲間としてやってるんだ。毎回、疑われながら続けるなんて無理だ」

「出ていけなんて言ってない」

「でも、疑ってる」

「確認したいだけだ」

「もういい」

 湊は、封筒を持って自分の荷物のそばへ移動した。

 蓮は、直人を見た。

「亮がいなくなって、少し混乱してるんだよ」

「俺が?」

「全員だよ」

「じゃあ、俺たちの生活は大丈夫なのか?」

「大丈夫だ」

「亮がいなくても?」

「役割を組み直せばいい」

 その言葉に、直人は寒気を覚えた。

 亮が、長年の親友が、さっき実家へ連れて行かれた。

 それなのに、蓮は「役割を組み直せばいい」と言った。

 亮は、人間ではなく、生活費を負担する役割だったのか。

 直人は、そんな疑問を抱いた。

 だが、蓮の表情には、深刻さがあった。

 彼も不安なのかもしれない。

 亮がいなくなれば、収入が減る。

 家賃の負担が増える。

 生活が苦しくなる。

 蓮にとっても、亮は必要な存在だった。

 その“必要”が友情なのか、金銭なのか、直人にはわからなかった。

 昼過ぎ、直人は亮へ電話をかけた。

 呼び出し音が数回鳴ったあと、亮が出た。

「もしもし」

「今、実家?」

「うん」

「大丈夫か?」

「大丈夫だよ」

「親父さん、怒ってたな」

「怒ってるというより、心配してるんだと思う」

「お前、いつ戻る?」

 電話の向こうで、亮は黙った。

「まだ、わからない」

「いつまで?」

「少し考える」

「考えるって、何を?」

「このまま続けていいのか」

 その言葉に、直人は胸を掴まれた。

「続けるに決まってるだろ」

「直人は、そう思ってる?」

「思ってるよ」

「本当に?」

 亮の声は静かだった。

 直人は答えに詰まった。

 電話の向こうから、家の中の生活音が聞こえた。

 食器の音。

 誰かが歩く音。

 遠くでテレビがついている。

 亮は、実家に戻っている。

 そこには、家族がいる。

 自分たちが捨てたはずの、普通の生活がある。

「封筒のこと、何か思い出した?」

 直人が聞いた。

 亮はしばらく黙った。

「あれには、借金の書類だけじゃない」

「何が入ってた?」

「口座の記録も入れてた」

 直人の背筋が伸びた。

「口座の記録?」

「俺が出した金額とか、振り込んだ日とか。念のため、自分で控えてた」

「それがなくなったのか?」

「うん」

「本当に、あの部屋に置いたのか?」

「置いた。棚の上に」

「湊が持ってた封筒は?」

「見てないからわからない」

「何か、誰かに言われてないか?」

「どういう意味?」

「いや……」

 直人は言葉を止めた。

 あまり深く聞けば、亮を不安にさせる。

 しかし、直人自身も知りたい。

 何が起きているのか。

「亮、戻ってくるよな」

 直人は、別のことを尋ねた。

「すぐには無理かもしれない」

「でも、戻るんだろ?」

「直人」

「何だよ」

「お前、自分の口座の記録、持ってるか?」

 直人は、スマートフォンを見た。

 自分の口座には、入出金の履歴が残っている。

 しかし、運用口座へ移した後のことは、ほとんど把握していない。

「一部はある」

「全部確認したほうがいい」

「何で?」

「俺も、全部は確認できてないから」

 亮の声が震えた。

「俺がいくら入れたのか、今いくら残ってるのか、ちゃんとわからなくなってる」

 直人は、息を呑んだ。

「蓮たちに聞けばいいだろ」

「聞いた。でも、あとでまとめるって言われた」

「俺も同じだ」

「だから、確認したほうがいいと思う」

 電話の向こうで、亮が息を吐いた。

「直人、俺たちは、何をしてるんだろうな」

 直人は答えられなかった。

 電話を切ったあと、しばらく動けなかった。

 亮の言葉が、何度も頭の中を回った。

 何をしているんだろう。

 その疑問は、直人自身の疑問でもあった。

 直人は、自分の口座履歴を確認し始めた。

 給料日に入金される。

 生活費を引き出す。

 指定された口座へ送金する。

 その繰り返し。

 送金先の名義。

 送金額。

 日付。

 直人は、ノートへ書き写した。

 一件ずつ確認する。

 記憶と履歴が一致しない。

 自分が思っていたよりも、多くのお金を送っていた。

 その金額を合計すると、背中に汗がにじんだ。

 自分は、これだけのお金を稼いだのか。

 これだけのお金を、他人へ渡したのか。

 直人は、リビングの机に座っていた。

 蓮と湊は、別の部屋にいる。

 画面を閉じたまま、何か話している。

 声は聞こえない。

 直人は、再び履歴を確認した。

 何件か、用途のわからない出金がある。

 生活費なのか。

 運用に使ったのか。

 家具や道具の購入なのか。

 そのどれかはわからない。

 直人は、蓮へ尋ねた。

「この出金、何に使った?」

 蓮は、スマートフォンを見た。

「運用関係」

「具体的には?」

「細かいことは、あとでまとめる」

「亮の封筒にも、記録が入ってたらしい」

 蓮の手が止まった。

「亮が何か言ったのか?」

「口座の記録を入れていたって」

「それがどうした?」

「なくなった」

「部屋のどこかにあるんだろ」

「湊が持ってる封筒は?」

 蓮は、直人を見た。

「湊のものだろ」

「中を確認してない」

「お前、湊を疑ってるのか?」

「疑ってるんじゃない。確認したいだけだ」

「亮の親父に何か吹き込まれたか?」

「そういう話じゃない」

「じゃあ、何だよ」

 蓮の声が荒くなった。

「俺たちは、ここまで一緒にやってきただろ。失敗もあったけど、全部、取り戻すために動いてる。なのに、今さら疑うのか?」

 直人は、その言葉を聞きながら、胸の奥に別の感情が生まれるのを感じた。

 ここまで一緒にやってきた。

 その言葉は、これまで直人をつなぎ止めていた。

 だが、同時に、離れることを許さない鎖のようにも聞こえた。

「俺は、自分のお金の流れを知りたいだけだ」

 直人は、ゆっくり言った。

「それを説明してくれ」

 蓮は、何も答えなかった。

 窓の外では、昼の街が広がっている。

 昨日までと同じ景色。

 しかし、直人の中では、何かが崩れ始めていた。

 亮がいなくなった。

 封筒がなくなった。

 口座の記録が曖昧だった。

 投資の状況も、はっきりしない。

 4人で始めた生活の土台が、少しずつ剥がれている。

 その夜、直人は仕事へ行かなかった。

 珍しく休みを取った。

 部屋に残り、3人で話すためだった。

 しかし、話し合いは始まらなかった。

 蓮は、電話をしていた。

 湊は、パソコンの前に座っていた。

 直人は、リビングでひとり、ノートを広げていた。

 亮がいなくなっただけなのに、部屋はひどく広かった。

 4人分の布団。

 4人分の食器。

 4人分の荷物。

 その中から、亮のものだけが少しずつ減っている。

 母親が取りに来るまで、亮の荷物は残っていた。

 服。

 靴。

 充電器。

 高校時代の写真。

 直人は、写真立てを手に取った。

 そこには、まだ少年だった自分と亮が写っている。

 髪型も服装も今とは違う。

 何も知らず、何も持たず、ただ笑っている。

 直人は、その写真を見ながら思った。

 あの頃の自分たちは、こんな未来を想像していなかった。

 借金をすること。

 知らない人間と暮らすこと。

 友人の口座を管理すること。

 家賃17万円の部屋で、誰かの親に連れて行かれること。

 何かを盗んだ、盗まれたという疑いが、部屋の中に漂うこと。

 そんな未来を、誰も望んでいなかったはずだ。

 それなのに、ここまで来てしまった。

 直人は、写真立てを元の場所へ戻した。

 夜になっても、亮から連絡はなかった。

 直人からメッセージを送った。

〈今日は大丈夫か〉

 しばらくして、返信が来た。

〈大丈夫。少し家にいる〉

〈いつ帰る?〉

〈わからない〉

〈封筒のこと、もう一度確認してみて〉

 送信してから、直人は後悔した。

 亮を責めているように見えるかもしれない。

 しかし、亮からの返事は短かった。

〈わかった〉

 その夜、直人は眠れなかった。

 高層階の窓から見える夜景が、いつもより遠く感じる。

 ソファに座り、時計を見る。

 午前1時。

 午前2時。

 午前3時。

 蓮と湊は、別室で話していた。

 直人は、聞き耳を立てるつもりはなかった。

 だが、静かな部屋では、声が漏れてくる。

「もう、ここに置いておけない」

 湊の声。

「どこへ持っていく?」

 蓮の声。

「知らない。とにかく、今は触らないほうがいい」

「亮が戻ってきたら?」

「戻ってこない可能性もある」

 直人は、息を止めた。

 何の話をしているのか。

 封筒のことか。

 お金のことか。

 亮のことか。

 直人は立ち上がりかけた。

 しかし、やめた。

 今、部屋へ入れば、3人の関係は完全に壊れる。

 それでも、すでに壊れ始めている。

 声が途切れた。

 しばらくして、蓮が部屋から出てきた。

 直人と目が合う。

「寝てなかったのか」

「ああ」

「何か聞いた?」

「何を?」

「いや」

 蓮は、視線を逸らした。

 その手には、あの茶色い封筒があった。

 直人は、封筒を見た。

 蓮も、その視線に気づいた。

「これは、俺たちの資料だ」

「亮のものじゃないのか?」

「違う」

「中を見せてくれ」

 蓮は、封筒を握り直した。

「今は無理だ」

「なぜ?」

「直人、俺たちは疲れてる」

「俺は疲れてるからこそ確認したい」

 蓮の顔に、苛立ちが浮かんだ。

「お前まで、俺たちを疑うのか」

「何度も言わせるな。疑っているんじゃない。確認したいんだ」

「同じだ」

「違う」

 二人の声が、静かな部屋の中でぶつかった。

 湊が部屋から出てきた。

「やめろよ」

「湊、お前はこの封筒の中身を知ってるのか?」

 直人が聞いた。

「知ってる」

「亮のものじゃないのか?」

「違う」

「どうして言い切れる?」

「俺のものだからだ」

「じゃあ、何が入ってる?」

 湊は黙った。

 答えられない沈黙。

 直人は、その沈黙を見て、かえって何も言えなくなった。

 封筒の中身が、亮のものなのか。

 湊のものなのか。

 誰かが勘違いしているだけなのか。

 それとも、誰かが嘘をついているのか。

 確かなことは、何ひとつなかった。

 やがて、蓮が言った。

「今日はもう寝よう」

「寝られるわけないだろ」

「直人が騒いでも、亮は戻ってこない」

 その言葉が、直人の胸に刺さった。

 亮は、もうここにはいない。

 それが現実だった。

 どれだけ待っても、玄関のドアが開くことはない。

 靴が増えることもない。

 布団に亮が戻ってくることもない。

 直人は、窓際へ歩いた。

 街の明かりが、夜の中で揺れている。

 そのひとつひとつが、まるで誰かの目に見えた。

 誰かがこちらを見ている。

 お前は何をしている。

 誰を信じている。

 自分の人生を、誰に預けている。

 直人は、窓ガラスに手を当てた。

 冷たかった。

 亮が実家へ連れて行かれた朝、4人の生活は終わった。

 まだ部屋は同じだった。

 家賃も同じだった。

 蓮も湊もそこにいる。

 投資も続いている。

 しかし、4人で始めた生活は、もう存在しなかった。

 亮がいなくなったことで、役割が崩れた。

 収入が減った。

 家賃の負担が増えた。

 何より、直人の中にあった「4人なら大丈夫」という思いが消えた。

 直人は、亮が戻ってくるのを待った。

 一日。

 二日。

 一週間。

 亮からの連絡は、少しずつ減っていった。

 最初は毎日、短いメッセージが届いた。

〈今日は実家で寝た〉

〈親と話した〉

〈仕事のことを考えている〉

 しかし、やがて返信が遅くなった。

 電話に出ない日も増えた。

 直人が実家へ行こうとすると、亮は「まだ来ないでくれ」と言った。

〈戻るから〉

 その言葉だけは、何度も送られてきた。

 直人は、その言葉を信じた。

 戻ってくる。

 亮は、またこの部屋へ戻ってくる。

 4人で話し合い、今まで通りにやり直す。

 直人は、そう思っていた。

 しかし、亮の母親から電話が来た。

「直人くん」

「はい」

「亮は、しばらくこちらで暮らすことになりました」

 その声は、静かだった。

「仕事も、いったん見直します」

「でも、本人は戻るって……」

「亮は、あなたたちのことを大切に思っています」

 母親は、少し間を置いた。

「だからこそ、離れたほうがいいと考えました」

 直人は、何も言えなかった。

「生活のことも、お金のことも、もう一度家族で整理します。亮から、そちらのことを詳しく聞きました」

「何を……」

「借金のこと、投資のこと、家賃のこと」

 直人は、唇を噛んだ。

「亮は、誰かを責めたいわけではありません。ただ、自分で何をしているのかわからなくなっていたんです」

 電話の向こうで、母親が息を吐いた。

「直人くんも、どうか自分のことを考えてください」

 電話が切れた。

 直人は、スマートフォンを耳から離せなかった。

 部屋の中では、蓮と湊が話している。

 いつものように、相場の話をしている。

 いつものように、未来の話をしている。

 だが、直人にはその声が遠く聞こえた。

 亮は戻ってこない。

 親友は、実家へ連れて行かれた。

 それは、誰かに奪われたのではなく、亮自身が戻ることを選ばなかったということだった。

 直人は、その事実を受け入れられなかった。

 高校時代からの友人。

 馬鹿なことをして、何度も怒られた。

 それでも一緒にいた。

 家を出るときも、一緒だった。

 借金をするときも、そばにいた。

 タワーマンションへ移るときも、同じ景色を見た。

 その亮が、いなくなった。

 直人は、リビングに残された亮の布団を見た。

 布団は、もう何日も使われていない。

 少しずつ、部屋の匂いが消えていく。

 そこに亮がいたという感覚が薄れていく。

 直人は、布団を片付けることができなかった。

 片付ければ、本当に帰ってこない気がした。

 蓮は、数日後に言った。

「亮の布団、どうする?」

「まだ置いとく」

「邪魔だろ」

「戻ってくるかもしれない」

「戻ってきたとしても、また一緒にやれるとは限らない」

 直人は、蓮を睨んだ。

「お前は、もう戻ってこないと思ってるのか?」

「現実的に考えろよ」

「現実的?」

「亮が抜けた分、俺たちで何とかしなきゃいけない」

「亮の話をしてるんだぞ」

「だから、いつまでも感情で止まるなって言ってる」

 直人は、言葉を失った。

 蓮の言うことにも、一理ある。

 家賃は待ってくれない。

 返済も待ってくれない。

 生活費は必要だ。

 亮がいなくなったことで、直人の負担は増える。

 それは、わかっていた。

 しかし、わかっているからこそ、苦しかった。

 友情が終わるとき、何か大きな音がするわけではない。

 ドアが閉まり、足音が遠ざかり、残された布団が冷たくなっていく。

 それだけだ。

 生活は続く。

 家賃の請求書は届く。

 洗濯物は溜まる。

 仕事へ行く時間は来る。

 誰かがいなくなっても、世界は止まらない。

 直人は、亮がいなくなった翌週から、さらに仕事を増やした。

 タワーマンションの家賃を支払うため。

 投資に回すため。

 亮の穴を埋めるため。

 何より、4人の夢を終わらせないため。

 しかし、働けば働くほど、直人は部屋にいる時間を失った。

 蓮と湊が何をしているのか、確認する時間もない。

 帰宅すると、二人は寝ている。

 起きているときは、パソコンの画面に向かっている。

 直人は、また自分の口座履歴を確認した。

 見れば見るほど、不安になった。

 運用口座へ移したお金。

 説明のない出金。

 返金されていない利益。

 借入金。

 どこまでが生活費で、どこからが投資なのか、境界は曖昧になっていた。

 直人は、湊にもう一度尋ねた。

「亮の封筒は、見つかったのか?」

「知らない」

「亮の母親から、連絡が来た。封筒には口座の記録が入っていたらしい」

「俺は知らない」

「お前が持っていた封筒は?」

「俺の資料だ」

「中身を見せてくれ」

「断る」

 湊は、はっきり言った。

 直人は、その態度に驚いた。

「なぜ?」

「プライベートな資料だから」

「俺の金のことが書かれている可能性がある」

「可能性で人を責めるな」

「責めてない」

「でも、同じだ」

 直人は、拳を握った。

 何を聞いても、疑っているのかと言われる。

 何も聞かなければ、何もわからない。

 その間で、直人は身動きが取れなくなっていた。

 ある夜、直人は亮から電話を受けた。

「もしもし」

「直人」

 声を聞いた瞬間、直人の胸が熱くなった。

「亮か。今どこ?」

「家」

「実家?」

「うん」

「戻ってこいよ」

 直人は、思わず言った。

「まだ何も終わってないだろ」

 電話の向こうで、亮は黙った。

「直人、俺はもう戻れないかもしれない」

「何でだよ」

「父さんが、かなり怒ってる」

「怒ってるだけだろ」

「それだけじゃない」

「じゃあ何だよ」

「俺が、自分で何も決めてなかったことに気づいた」

 直人は、息を止めた。

「俺が働いて、直人が働いて、蓮と湊が管理してる。そういう形にしたけど、俺は何も確認してなかった」

「俺も同じだ」

「直人は、まだ続けるのか?」

 直人は、窓の外を見た。

 夜景が広がっている。

 以前は美しく見えた光が、今は遠い。

「続ける」

 直人は言った。

「ここまで来たんだ。やめるわけにはいかない」

「それは、夢を続けたいから?」

「そうだ」

「それとも、ここまでの借金を無駄にしたくないから?」

 直人は答えられなかった。

 亮の問いが、心の奥へ入ってきた。

 夢を続けたいのか。

 損失を取り戻したいだけなのか。

 これまでの選択を正しかったことにしたいだけなのか。

「直人」

「何だよ」

「俺の封筒、見つかったら教えて」

「ああ」

「中には、俺が出したお金の記録がある」

「わかった」

「それがないと、何もわからなくなる」

「亮」

「何?」

「お前は、誰かを疑ってるのか?」

 電話の向こうで、長い沈黙があった。

「わからない」

 亮は答えた。

「だから、怖いんだよ」

 電話が切れたあと、直人はしばらく動けなかった。

 わからない。

 その言葉が、部屋全体に広がった。

 誰が正しいのか。

 何が起きているのか。

 どの金額が本当なのか。

 何を信じればいいのか。

 わからない。

 直人は、亮の布団へ座った。

 布団は、もう冷たかった。

 その上に、亮の匂いは残っていない。

 直人は、手のひらで布団を撫でた。

 高校時代、亮の家に泊まったことを思い出す。

 くだらない話をして、夜中まで笑った。

 父親に怒られ、二人で黙り込んだ。

 それでも、翌朝にはまた一緒に学校へ行った。

 あの頃、友人を信じることに条件はなかった。

 お金も、契約も、利益も関係なかった。

 ただ一緒にいる。

 それだけでよかった。

 しかし今は、友情の中に金が入り込んでいる。

 誰がいくら出した。

 誰がいくら働いた。

 誰がいくら管理した。

 誰が何を持っている。

 それらが、すべての会話の裏側にある。

 直人は、ふと、玄関を見た。

 亮の靴はもうない。

 空いた場所が、妙に目立っていた。

 その空間が、共同生活の崩壊を証明しているように見えた。

 数日後、亮の母親が荷物を取りに来た。

 直人は、亮の荷物をまとめていた。

 衣類。

 靴。

 日用品。

 写真立て。

 母親は、写真立てを見て、少し微笑んだ。

「高校のときの写真ね」

「はい」

「直人くんも写ってる」

「昔は、よく一緒に遊んでました」

「今も、友達でしょう」

 直人は、答えに迷った。

「はい」

 そう答えた。

 母親は、亮の布団を見た。

「これは、置いていきます」

「亮が戻ってくるかもしれないので」

 直人が言うと、母親は少し悲しそうに笑った。

「本人も、そう言っていました」

「じゃあ……」

「でも、今すぐ戻ることはないと思います」

 母親は、荷物を持ち上げた。

「亮は、あなたのことを責めていません」

「でも、俺は……」

「直人くんが悪いと言っているわけではありません。ただ、誰かを信じることと、自分のことを任せきりにすることは違います」

 その言葉に、直人は何も言えなかった。

「亮も、そこを間違えたのだと思います」

 母親は、玄関へ向かった。

「直人くんも、自分のお金と、自分の生活を大事にしてください」

 ドアが閉まる。

 亮の荷物が、部屋から消えた。

 残ったのは、布団と写真立てだけだった。

 蓮が、亮の布団を片付けようとした。

「やめてくれ」

 直人が言った。

「もう、置いておいても仕方ないだろ」

「まだ、戻ってくるかもしれない」

「直人」

 蓮はため息をついた。

「もう、戻ってこない」

 その言葉を聞いた瞬間、直人の中で何かが切れた。

「お前に何がわかるんだよ」

「何が?」

「亮がどんな気持ちで出ていったのか、お前にわかるのか?」

「俺たちだって、同じように大変なんだよ」

「お前たちの大変と、亮の大変を一緒にするな」

 蓮は、直人を睨んだ。

「じゃあ、お前はどうするんだ? 亮がいなくなった分、家賃も生活費も、誰が払う?」

 直人は黙った。

「夢を続けるなら、現実を見ろ」

 蓮は続けた。

「亮が抜けた分、直人が働くしかない」

 その言葉を聞き、直人は笑いそうになった。

 結局、そういうことなのか。

 亮がいなくなった悲しみより先に、家賃の不足を考える。

 友人を失ったことより、資金繰りを考える。

 そして、その役割を自分に押しつける。

「わかった」

 直人は言った。

「俺が働く」

 蓮は、それで話が終わったと思ったのか、黙って布団を畳み始めた。

 直人は、その様子を見ていた。

 亮の布団が、折りたたまれていく。

 高校時代からの親友がいた場所が、消えていく。

 それを止めることもできない。

 直人は、ただ立っていた。

 その夜、部屋には3人分の布団が並んだ。

 4人分あったときよりも、ずっと狭く見えた。

 直人は、布団に入っても眠れなかった。

 亮がいない。

 その事実が、何度も胸の中で繰り返される。

 隣では、蓮が寝返りを打った。

 湊は、スマートフォンを見ている。

 画面の光が、暗い部屋を照らしている。

 直人は、目を閉じた。

 朝、親が来た。

 親友が連れて行かれた。

 そして、4人で始めた共同生活は崩壊した。

 何か大きな事件が起きたわけではない。

 誰かが叫び、誰かが暴れたわけでもない。

 ただ、亮の父親が部屋へ入り、亮の荷物をまとめ、息子を連れて帰った。

 その静かな出来事によって、直人たちの夢は大きく揺らいだ。

 窃盗という言葉が、部屋の中に残っていた。

 何かがなくなった。

 誰かの封筒が見つからない。

 誰かが持っている封筒の中身がわからない。

 誰かが嘘をついているのかもしれない。

 ただの勘違いかもしれない。

 証拠はない。

 確かな事実もない。

 だからこそ、直人は怖かった。

 もし誰かが本当にお金や書類を持ち出したのなら、4人の関係はもう戻れない。

 もし単なる勘違いなら、疑ったことそのものが、友情を壊す。

 どちらに転んでも、以前と同じには戻れなかった。

 直人は、スマートフォンを手に取った。

 亮へメッセージを送る。

〈必ず、もう一度話そう〉

 すぐには返事が来なかった。

 画面を伏せ、しばらく待つ。

 やがて通知が鳴った。

〈うん〉

 それだけだった。

 短い返事。

 それでも、直人は少しだけ安心した。

 まだ完全に終わったわけではない。

 そう思いたかった。

 しかし、その後、亮から連絡が来ることは少なくなった。

 季節が変わっても、亮は戻らなかった。

 タワーマンションの生活は続いた。

 家賃は払い続けた。

 借金も返し続けた。

 投資資金も、さらに要求された。

 直人は、以前より長く働くようになった。

 朝、眠れないまま仕事へ行く。

 夜、店で働く。

 帰宅して、口座を確認する。

 数字が増えていることを願う。

 減っていると、不安になる。

 それでも、誰かに任せるしかないと思う。

 直人は、亮がいなくなったことで、自分が何を失ったのか、すぐには理解できなかった。

 親友を失った。

 生活費の支えを失った。

 共同生活の一員を失った。

 そして、自分たちの夢を疑わないための、最後の言い訳を失った。

 4人なら大丈夫。

 4人で始めたから成功する。

 4人で分担すれば、何とかなる。

 その言葉が、もう使えなくなった。

 残ったのは、3人だった。

 3人なら大丈夫なのか。

 直人には、わからなかった。

 ただ、窓の外の街は、何も知らないまま輝いていた。

 タワーマンションの高層階から見える夜景は、あの日と同じだった。

 4人で乾杯した夜。

 成功を誓った夜。

 直人が、自分の人生を預けた夜。

 今、窓のそばに立っているのは、直人ひとりだった。

 誰もいない場所で、直人は小さく呟いた。

「亮、戻ってこいよ」

 返事はなかった。

 ただ、遠くで救急車のサイレンが鳴り、街の光が静かにまたたいていた。

 直人は、窓ガラスに映る自分を見た。

 その顔は、もう以前の自分ではなかった。

 不安を抱え、疲れ果て、それでも働こうとしている。

 誰かを信じたいのに、疑い始めている。

 夢を諦めたくないのに、夢の形が見えなくなっている。

 そんな顔だった。

 この日を境に、直人の中で何かが変わった。

 それは、すぐに行動へ移せるような明確な決意ではなかった。

 ただ、疑問という小さな亀裂が、心の奥に残った。

 お金は、どこにあるのか。

 誰が、何を管理しているのか。

 自分は、どこまで責任を負うのか。

 そして、自分は本当に、仲間と同じ未来を見ているのか。

 直人は、まだ答えを出せなかった。

 しかし、その問いから逃げることも、もうできなかった。

 朝、親が来た。

 親友は実家へ連れて行かれた。

 封筒は見つからないまま。

 口座の記録も曖昧なまま。

 窃盗の真相もわからないまま。

 ただひとつ確かなのは、4人の共同生活が、あの朝を境に終わったことだった。

 そして直人の長い孤軍奮闘は、ここから始まることになる。

いいなと思ったら応援しよう!

ベラミー@副業研究所 よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!