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『孤軍奮闘 ― 奪われた八年を取り戻すまで ―』1

第一部 夜の街の青年

平凡なボーイが起業を夢見る

 午前一時を過ぎると、街の明かりは少しだけ色を変えた。

 昼間は人々の顔を明るく照らしていた看板も、深夜になると、酔った客の足元や、路地裏に溜まった雨水をぼんやり照らすだけになる。赤、青、紫、黄色。いくつもの光が濡れたアスファルトににじみ、風が吹くたびに揺れていた。

 駅前の大通りには、まだ人の姿があった。

 仕事を終えた会社員。友人との飲み会を終えた若者。恋人と別れたのか、一人でスマートフォンを見つめる女性。客を探すタクシーの運転手。誰もが昼間とは違う顔をして、眠らない街の中を歩いている。

 その街の片隅にある雑居ビルの三階で、相馬直人は働いていた。

 店の名前は「ラウンジ・ムーン」。

 広さは二十坪ほど。カウンターが十席、壁際に小さなテーブルが三つ。高級店のような華やかさはないが、落ち着いた照明と古いジャズが流れる、どこか居心地のいい店だった。

 直人の仕事は、いわゆるボーイだった。

 客の案内をし、注文を聞き、酒を作る。グラスを洗い、灰皿を替え、店内の空気を読みながらスタッフを動かす。酔いつぶれた客を外まで送り、揉め事が起きれば間に入る。閉店後は床を掃き、トイレを掃除し、売上を確認してから帰る。

 華やかな夜の街で働いていると聞けば、周囲の人間は決まって「楽しそうだな」と言った。

 しかし、実際の仕事は地味だった。

 誰かが楽しく過ごせるように、見えないところで動き続ける。それがボーイという仕事だった。

「直人、二番テーブルの灰皿、替えてくれ」

 店長の大西が、カウンターの奥から声をかけた。

「はい」

 直人はすぐに返事をし、銀色のトレーを手に取った。

 二番テーブルには、三人の男性客が座っていた。全員がスーツ姿で、ネクタイを緩めながら大声で笑っている。中央に座る男は、今日何度目かわからない乾杯の音頭を取っていた。

「お兄ちゃん、こっちにも酒追加ね」

「かしこまりました。何をお持ちしましょうか」

「同じのでいいよ。同じの」

「承知しました」

 直人は笑顔で頭を下げた。

 客の声が大きくても、態度が乱暴でも、顔には出さない。店の中では、自分の感情を一番最後にする。それもまた、彼がここで学んだことだった。

 灰皿を替え、空いたグラスを下げる。テーブルの上に新しい酒を並べてから、直人は静かにその場を離れた。

 カウンターに戻ると、大西が小さく笑った。

「相変わらず愛想がいいな。お前は客に怒られたこと、一度もないだろ」

「怒られる前に逃げているだけですよ」

「逃げるのも才能だ」

「褒めてます?」

「もちろんだ」

 大西は冗談めかして言ったが、直人は本気でそう思っていた。

 自分には、目立った才能がない。

 人より酒に詳しいわけでもない。話が特別うまいわけでもない。相手の心を一瞬でつかむような華やかさもない。

 高校時代の成績は、いつも真ん中より少し上だった。運動部に所属していたが、レギュラーになったことはない。人付き合いも悪くはなかったが、親友と呼べる人間は数えるほどしかいなかった。

 何をやっても、そこそこ。

 できないわけではない。だが、誰かに選ばれるほど優れているわけでもない。

 直人はそれを、自分の特徴だと思っていた。

 平凡。

 それが自分を表す一番正確な言葉だった。

 けれど、そんな彼にも、ひとつだけ消えない夢があった。

 自分の店を持つこと。

 最初にその夢を意識したのは、働き始めてから一年ほど経った頃だった。

 その夜、雨が降っていた。

 店内はいつもより静かで、客はカウンターに座る中年男性が一人だけだった。男は深く椅子に沈み込み、ウイスキーのグラスを両手で包んでいた。

 年齢は五十歳前後。高そうなスーツを着ているが、肩には疲れが重くのしかかっているように見えた。

 直人が水を差し出すと、男は小さく頭を下げた。

「今日は、誰とも話したくないんだ」

「はい」

「でも、一人でいるのも嫌でね」

 直人は返事に困った。

 気の利いた言葉を探したが、何も思いつかなかった。だから、ただ静かにグラスを磨いた。

 男はしばらく黙っていた。やがて、ぽつりぽつりと話し始めた。

 会社で大きな失敗をしたこと。長年面倒を見てきた部下に責任を押しつけられたこと。上司からは「もう君に任せられる仕事はない」と言われたこと。家に帰っても、妻には何も相談できなかったこと。

「自分が何のために働いてきたのか、わからなくなったよ」

 男は笑おうとしたが、口元は歪んだだけだった。

 直人は何も言えなかった。

 頑張ってきた人に向かって、「大丈夫です」などと言うのは簡単だ。しかし、その言葉が届かないことも知っていた。だから彼は、空になったグラスに新しい酒を注ぎ、男が話し終わるまで黙ってそばにいた。

 閉店時間を過ぎても、男は帰ろうとしなかった。

 店長の大西は、直人に目配せをした。もう少しだけ付き合ってやれ、という意味だった。

 午前三時を回った頃、ようやく男は立ち上がった。

「長々と悪かったね」

「いえ」

「君、名前は?」

「相馬直人です」

「相馬君か。君は、聞くのがうまいね」

「そんなことは……」

「いや、本当にそう思う。今日は君に話せてよかった」

 男は財布から紙幣を数枚取り出した。直人が多すぎると断ろうとすると、男は首を横に振った。

「これは酒代じゃない。話を聞いてくれた礼だ」

 男は店を出る前に、もう一度だけ振り返った。

「明日、会社へ行ってみるよ。もう一度だけ、話してみる」

 扉が閉じ、雨音だけが残った。

 直人はしばらく動けなかった。

 自分は酒を作っただけだ。特別なことをしたわけではない。何か正しい助言をしたわけでもない。それでも、誰かの心を少しだけ軽くすることができた。

 その事実が、直人の胸に小さな灯をともした。

 この店のような場所を、自分の手で作れないだろうか。

 酒を飲むためだけではなく、誰かが安心して過ごせる場所。疲れた人が、名前も肩書きも忘れて、少しだけ息をつける場所。

 それから直人は、店に来る客を以前より注意深く見るようになった。

 毎週金曜日、決まって一人で来る若い女性。仕事の話をするときだけ、無理に明るく笑う会社員。カウンターの隅で新聞を読み、誰とも話さずに帰る老人。友人同士で来ているのに、全員がスマートフォンを見つめている大学生たち。

 店に来る人間は、それぞれ違う場所からやって来る。

 しかし、誰もが何かを抱えていた。

 寂しさ。疲れ。不安。怒り。言葉にできない孤独。

 直人は、そうしたものを少しずつ感じ取るようになった。

 そして、自分の店について考え始めた。

 昼間はコーヒーを出す。夜は酒を出す。軽い食事も用意する。高すぎない値段にして、学生や若い会社員でも利用できるようにする。カウンターには一人で来た客が座り、隣り合わせた人同士が自然に会話できる。壁には地元の写真家や画家の作品を飾る。

 店の名前は、すでに決めていた。

 ――灯り屋。

 どんなに遅い時間でも、帰る場所を失わないように。暗い夜の中で、誰かの目印になれるように。

 最初は、仕事の合間に思いついたことをメモするだけだった。

 小さなノートを買い、表紙に「灯り屋」と書いた。中には店の名前の候補、料理の案、内装のイメージ、必要な設備、仕入れ先の情報などが少しずつ増えていった。

 しかし、具体的な数字を書き始めると、夢は急に現実の重さを持った。

 物件の保証金。家賃。内装費。厨房機器。食器。酒や食材の仕入れ。人件費。広告費。開業後、客が来ない期間の生活費。

 計算すればするほど、必要な金額は増えていった。

 直人の貯金は、百二十万円ほどしかなかった。

 二十三歳の青年としては、決して少ない金額ではないかもしれない。しかし、自分で店を出すには、あまりにも足りなかった。

 銀行から融資を受けるには、事業計画が必要だ。自己資金も必要だ。経験や実績も問われるだろう。直人には、飲食店を経営した経験がない。今の仕事も、正式には接客業務の一部を任されているだけだ。

 ノートの中で、夢は簡単に膨らんだ。

 だが、現実の世界では、ひとつひとつの夢に値段がついていた。

 ある夜、直人は休憩室で開業資金の計算をしていた。

 電卓を叩くたびに、数字が増えていく。

「何してるんだ?」

 背後から声がして、直人は慌ててノートを閉じた。

 店長の大西だった。

「いえ、ちょっと計算を」

「見せてみろ」

「大したものじゃないです」

「大したものじゃないなら隠すな」

 大西は直人の向かいに座った。直人は迷った末、ノートを開いた。

 大西は黙ってページをめくった。店の名前を見て、間取りの絵を見て、細かなメモを読み、最後に資金計画のページで手を止めた。

「店をやりたいのか」

「はい」

「いつから考えてた?」

「一年くらい前からです」

「俺には何も言わなかったな」

「笑われると思って」

 大西は眉を上げた。

「俺が?」

「だって、俺は何も特別じゃないですから。酒に詳しいわけでも、料理ができるわけでもないし」

「それで店をやりたいのか」

「だから、勉強しないといけないと思っています」

 大西はしばらく黙り込んだ。

 やがて、ノートを直人の方へ押し戻した。

「特別なやつだけが店を持つわけじゃない」

「……」

「ただし、普通のやつが店を持つなら、普通のままでは駄目だ。人より考えて、人より動いて、人より長く続けるしかない」

 大西の言葉は厳しかった。

 しかし、直人にはその厳しさがありがたかった。

「店長は、俺にできると思いますか?」

「知らん」

「知らないんですか」

「やったことがない人間に、できるかどうかなんて誰にもわからん。俺だって最初から今の店を任されたわけじゃない。何度も失敗したし、借金もした。客が一人も来ない日もあった」

 大西は休憩室の天井を見上げた。

「でもな、できるかどうかを考えているだけじゃ、何も始まらない。やりたいなら、まず調べろ。物件を見ろ。金を集めろ。料理ができないなら覚えろ。経営がわからないなら勉強しろ」

「はい」

「それから、夢を口に出せ。口に出すと、笑う奴もいるが、助けてくれる奴も出てくる」

 その日から、直人は本格的に動き始めた。

 昼間、仕事へ行く前に図書館へ通った。経営や会計の本を借り、創業支援について調べ、飲食店の開業に必要な資格を確認した。

 食品衛生責任者の講習を受けるための申込みもした。簿記の入門書を買い、売上と利益の違いを何度もノートに書いた。

 最初は、何を読んでもよくわからなかった。

 売上高、原価率、固定費、損益分岐点。

 聞いたことのない言葉ばかりだった。数字を見ると頭が痛くなったが、直人は投げ出さなかった。

 自分は平凡だ。

 だからこそ、知らないことを知るまで時間がかかる。人より多く勉強しなければならない。誰かが一時間で覚えることを、三時間かけて覚える必要がある。

 それでも、やるしかなかった。

 ある休日には、朝から街を歩いて物件を探した。

 駅から少し離れた商店街。古い住宅街の一角。閉店した喫茶店。地下にある小さな店舗。家賃や広さを書いた紙をもらい、外観を写真に撮った。

 どの物件も、直人の想像より高かった。

 家賃が安い場所は駅から遠く、駅に近い場所は保証金が高い。内装がきれいな店は初期費用がかかり、古い店は改装費が必要だった。

 理想と現実の差を思い知らされるたび、直人の足取りは重くなった。

 それでも、ひとつの物件の前で足が止まった。

 駅から徒歩十五分。細い路地の角にある、二階建ての古い建物だった。以前は小さな喫茶店だったらしく、看板を外した跡が残っている。ガラス戸の向こうには、埃をかぶったカウンターが見えた。

 広さは十二坪ほど。決して広くない。

 しかし、窓から差し込む午後の光が、店内の床に細長く落ちていた。

 直人は、そこにテーブルを置き、壁に絵を飾り、カウンターの中でコーヒーを淹れている自分を想像した。

 夜になれば、小さな照明が灯る。

 疲れた客が扉を開ける。

「いらっしゃいませ」と、自分が声をかける。

 その光景が、妙に現実味を持って浮かんだ。

「ここがいい」

 思わず、直人はつぶやいていた。

 だが、家賃と初期費用を確認すると、すぐにその気持ちは打ち砕かれた。

 現在の貯金では、契約金を払うだけでほとんどなくなってしまう。

 もし開業しても、運転資金が残らない。客が来なければ、一か月も持たないだろう。

 直人は建物を見上げた。

 夢の場所は、すぐ目の前にあった。

 しかし、手を伸ばしても届かなかった。

 その夜、仕事を終えた直人は、いつものように店の裏口へ出た。

 午前三時半。

 雨は上がっていたが、空気は冷たかった。遠くで救急車のサイレンが鳴り、ビルの隙間から見える空に、薄い雲が流れている。

 直人は自動販売機で温かいコーヒーを買った。

 缶を両手で包みながら、昼間見た物件のことを考えた。

 自分には無理なのかもしれない。

 夢を見るだけなら、誰にでもできる。だが、実際に店を持つには金がいる。知識がいる。人脈がいる。そして何より、失敗しても立ち上がる覚悟が必要だ。

 直人には、そのどれも十分ではなかった。

「こんなところにいたのか」

 声をかけてきたのは、同じ店で働く美咲だった。

 二十五歳の彼女は、直人より二年先輩で、店では人気のあるスタッフだった。客との距離感をつかむのがうまく、場を明るくすることにも長けている。直人が密かに尊敬している人物でもあった。

「少し考え事をしていました」

「また店のこと?」

「知ってたんですか」

「顔に書いてある」

 美咲は直人の隣に腰を下ろした。

「この前、休憩室でノートを見てたでしょ。大西さんから聞いた。自分の店を持ちたいんだって?」

「はい」

「いいじゃん」

「簡単に言いますね」

「夢なんて、最初は簡単に言うものよ。難しい話は、そのあとで考えればいい」

 美咲は自動販売機で温かいお茶を買った。

「どんな店にしたいの?」

 直人は少し考えた。

「一人で来ても、居場所がある店です。誰かと話したい人も、話したくない人も、気まずくならない場所。昼はコーヒーを出して、夜は酒も出す。料理は……まだ勉強中ですけど」

「いいね。店の名前は?」

「灯り屋」

「灯り屋?」

「はい。暗い夜に、目印になるような店にしたいんです」

 美咲はその名前を何度か口の中で繰り返した。

「いい名前だと思う」

 その一言だけで、直人の胸が少し軽くなった。

「でも、金がないんです」

「お金は、ないなら集めればいい」

「そんな簡単には……」

「簡単じゃない。でも、最初から諦めるよりはいいでしょ」

 美咲は立ち上がり、店の裏口へ戻りかけた。

「明日、創業相談の窓口に行くんでしょ?」

「え?」

「予約してたじゃない」

 直人は驚いた。

 たしかに翌日の午前中、地方銀行の創業支援相談へ行く予定だった。予約を取ったものの、どこかで怖くなり、取り消そうかと迷っていた。

「行った方がいいよ。笑われたら、そのとき笑われればいい」

 美咲は振り返り、少しだけ笑った。

「平凡な人間が夢を叶えるところ、私は見てみたいけどね」

 翌朝、直人はほとんど眠らずに銀行へ向かった。

 夜勤明けの体は重く、頭はぼんやりしていた。シャツの襟を直し、何度も鏡を確認したが、疲れた顔は隠せなかった。

 銀行の前に立つと、急に足が止まった。

 ガラスに映った自分は、寝不足で顔色が悪く、髪も少し乱れていた。高級なスーツを着た経営者には見えない。夜の街で働く、どこにでもいる若い男だった。

 こんな自分が、起業の相談などしていいのだろうか。

 受付で笑われたらどうする。事業計画を見て、無理だと言われたらどうする。

 直人は一度、来た道を戻ろうとした。

 そのとき、ポケットの中のノートに触れた。

 表紙には、乱れた字で「灯り屋」と書かれている。

 あの雨の夜、男が言った言葉を思い出した。

 ――明日、もう一度だけ、会社へ行ってみるよ。

 直人は息を吸い込んだ。

 自分も、もう一度だけ行ってみよう。

 できるかどうかは、そのあと考えればいい。

 銀行の自動ドアが開いた。

「いらっしゃいませ」

 受付の女性が、丁寧に頭を下げた。

 直人は少し緊張しながら、創業相談の予約があることを伝えた。

 案内された部屋には、四十代ほどの男性が待っていた。名刺には、創業支援担当と書かれている。

「相馬さんですね。本日はどのようなご相談でしょうか」

 直人は持ってきたノートを机の上に置いた。

「小さな店を開きたいと思っています」

「飲食店ですか?」

「はい。昼はカフェで、夜はバーにする予定です」

「開業予定はいつ頃ですか?」

 直人は答えに詰まった。

 いつか。できるだけ早く。そう思ってはいたが、具体的な日付など考えていなかった。

「まだ決まっていません。資金も足りません。ただ、本気で考えています」

 担当者は笑わなかった。

 ノートを開き、店の名前やコンセプトを確認し、いくつか質問をした。

 なぜ店をやりたいのか。どんな客を想定しているのか。なぜ昼と夜の営業をするのか。周辺にはどんな店があるのか。自分に何ができて、何ができないのか。

 直人は、答えられる質問には答え、わからないことは正直に「わかりません」と言った。

 相談は一時間以上続いた。

 最後に、担当者は資料を閉じた。

「まだ検討すべき点は多いですが、考えていること自体は悪くありません」

 直人は顔を上げた。

「本当ですか?」

「はい。ただし、夢だけでは融資は受けられません。売上の見込み、費用の根拠、資金繰り、撤退の基準。具体的な計画が必要です」

「撤退の基準……」

「始めることだけを考える人は多いですが、経営では終わらせ方も考えなければなりません。厳しい話に聞こえるかもしれませんが、続けるために必要なことです」

 直人は静かにうなずいた。

「勉強します」

「それなら、まずは事業計画書を作ってみてください。創業者向けの講座もあります。必要なら紹介します」

 銀行を出たとき、直人の手にはいくつかの資料があった。

 融資が決まったわけではない。店を持てると認められたわけでもない。それでも、来る前とは何かが違っていた。

 夢が、初めて他人に向かって言葉になった。

 そして、課題という形で現実の前に置かれた。

 その日から、直人はさらに忙しくなった。

 夜は店で働き、昼は講座へ通う。帰宅してから事業計画書を書く。眠気に耐えながら、売上予測を計算する。

 休日には料理教室へ参加した。

 包丁の使い方も、出汁の取り方も、最初はうまくいかなかった。野菜を切れば形がばらばらになり、ソースを作れば味が濃すぎる。講師に「まずは火加減を見て」と言われても、直人にはその感覚がわからなかった。

 教室の帰り道、直人は失敗した料理の味を思い出しながら歩いた。

 自分には向いていないのかもしれない。

 そう考えるたびに、店のカウンターで見てきた人々の顔が浮かんだ。

 一人で静かに酒を飲む男。

 泣きそうな顔で笑っていた女性。

 何度も同じ話を繰り返していた老人。

 彼らが求めているのは、完璧な料理だけではないのかもしれない。

 もちろん、まずい料理を出していいわけではない。だが、店に必要なのは、料理の技術だけではない。客の気持ちを考え、気持ちよく過ごせる時間を作ること。そのために、自分ができることを一つずつ増やしていくしかなかった。

 ある日、直人は両親に店の話をした。

 実家の小さな食卓。母が作った煮物と、父がテレビを見ながら飲む薄い焼酎。直人は二人の前に事業計画書を置いた。

 母は紙をめくりながら、何度も眉を寄せた。

「本当にやるの?」

「まだ決まったわけじゃない。でも、やりたい」

「お金はどうするの?」

「融資と、貯金と……必要なら、もう少し働いて貯める」

 父は黙って計画書を読んでいた。

 かつて工場で働いていた父は、病気をしてから体力が落ち、今は家で過ごす時間が増えている。直人が子どもの頃から、父は決して多くを語らなかった。褒めることも少なかったが、困ったときにはいつも黙って助けてくれた。

「店の名前は?」

 父が尋ねた。

「灯り屋」

「変わった名前だな」

「暗い夜でも、誰かの目印になる店にしたいんだ」

 父はしばらく黙り、計画書を閉じた。

「お前がそこまで考えたなら、やってみればいい」

 母が驚いた顔で父を見る。

「でも、失敗したら……」

「失敗するかどうかは、やってみないとわからない。やらずに後悔するより、やってから後悔した方がいいこともある」

 父の言葉は短かった。

 直人は、胸の奥が熱くなるのを感じた。

「ありがとう」

「ただし、家の金には手をつけるな」

「わかってる」

「それと、借金の額はきちんと考えろ。夢のために家族を巻き込むな」

「うん」

 母は最後まで不安そうだった。

 それでも、帰り際に直人へ小さな封筒を渡した。

「これは、お父さんと私から」

「何?」

「少しだけ。開業資金の足しにして」

 中には、二十万円が入っていた。

 直人は慌てて返そうとした。

「受け取れないよ」

「これは貸すの。店が軌道に乗ったら返して」

「でも……」

「夢を持つなら、支えてくれる人の気持ちも受け取りなさい」

 母の言葉に、直人は何も言えなかった。

 その夜、直人は自分の部屋で、封筒を何度も見つめた。

 大切な人たちの期待が、重かった。

 失敗できないと思った。

 だが同時に、失敗を恐れて何もしないことも、もうできなくなっていた。

 数週間後、直人は再びあの古い物件を見に行った。

 不動産会社の担当者から、前の借り手が残していった設備を一部利用できること、家主が若い創業者を歓迎していることを聞いた。初期費用についても、交渉の余地があるという。

 もちろん、それでも簡単な金額ではなかった。

 直人は物件の前に立ち、ガラス越しに店内を見た。

 埃をかぶったカウンター。

 色あせた壁。

 古い照明。

 誰もいない空間。

 しかし、そこにはまだ、店だった頃の気配が残っていた。

 ここに人が座り、笑い、悩み、誰かと話していた時間がある。

 ならば、自分にも新しい時間を始められるかもしれない。

 直人はノートを開き、白紙のページに新しい計画を書き始めた。

 必要な資金を見直す。

 メニューを絞る。

 内装は自分たちでできる部分を増やす。

 最初から完璧を目指さない。

 昼と夜の営業を同時に始めるのではなく、まずは夜営業に集中する。

 できないことを認め、できることから始める。

 夢を小さくするのではない。

 夢を、届く大きさに分けるのだ。

 その考えにたどり着いたとき、直人は初めて、起業というものを少しだけ理解した気がした。

 起業とは、何もないところから大きなものを作ることではない。

 自分にできる小さなことを積み重ね、誰かの役に立つ形へ変えていくことだ。

 直人は平凡だった。

 特別な才能も、豊富な資金も、強い人脈もなかった。

 けれど、毎晩人の話を聞いてきた。誰かが何を求め、何に疲れ、どんな場所を必要としているのかを、少しずつ見てきた。

 それは、彼にしか持てない経験だった。

 ある深夜、店の営業が終わったあと、直人は一人でカウンターを拭いていた。

 店内には、閉店後の静けさが広がっている。さっきまで響いていた笑い声も、グラスの触れ合う音も消えていた。

 窓の外では、夜の街がまだ光っている。

 直人は手を止め、ガラスに映る自分を見た。

 疲れた顔だった。

 眠い。体も重い。計画書は何度書き直しても完成しない。資金はまだ不足している。物件の契約も、融資の審査もこれからだ。

 不安は、消えていなかった。

 それでも、以前とは違った。

 不安があるから動けないのではない。

 不安があっても、動くことができる。

 そのことを、直人は少しずつ覚え始めていた。

 彼はポケットからノートを取り出した。

 表紙に書かれた「灯り屋」の文字を見つめる。

「いつか、絶対に」

 今度は、声が震えなかった。

 店の外では、始発電車が走り始めていた。

 夜の街が少しずつ朝へ変わっていく。看板の明かりが消え、空の端が淡い青色に染まっていく。

 直人は最後に店内を見回し、照明を落とした。

 そして、誰もいない階段を下りていった。

 夢は、夢を見ているだけでは近づいてこない。

 小さな一歩を踏み出したとき、初めて現実の道になる。

 その朝、直人は新しい一歩を踏み出した。

 まだ店はない。

 資金も足りない。

 成功の保証など、どこにもない。

 けれど、彼の胸の中には、確かにひとつの灯りがともっていた。

 それは、誰かに与えられた光ではない。

 平凡な青年が、何度も迷い、何度も立ち止まり、それでも消さずに守り続けた、小さな灯りだった。

 そしてその灯りは、長い夜の向こうにある未来を、かすかに照らし始めていた。


本作品は、作者自身の実体験をもとに構成した物語です。

物語の中に登場する人物名、店名、会社名、地域名、サービス名などは、プライバシー保護および関係者への配慮のため、実際とは異なる名称に変更しています。

また、出来事の順序、会話、人物の設定、状況描写などについては、物語として読みやすくするため、一部を再構成・編集しています。

そのため、本作品は完全な記録や証言ではなく、

実際に経験した出来事をもとにした、事実をベースとするフィクション

としてお読みください。

登場する人物・団体・店舗・企業などについて、特定の個人や法人を誹謗中傷する意図はありません。

なお、実在する人物・団体・店舗・企業などとは関係のない設定や描写も含まれています。

本作品で描かれる投資、借入、配達業、起業、転職、経営などの内容は、作者の経験をもとにしたものです。

同じ方法や判断によって、同じ結果が得られることを保証するものではありません。

投資、借入、契約、事業、税金、生活などに関する具体的な判断は、読者ご自身の責任において行ってください。

必要に応じて、専門家や関係機関へご相談ください。

最後まで本作品をお読みいただき、誠にありがとうございました。

この物語が、かつて誰かを信じすぎてしまった人、人生の時間を失ったと感じている人、何度でもやり直したいと思っている人にとって、少しでも前へ進むきっかけになれば幸いです。

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